言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

合羽橋道具街を歩く。

2017年03月30日 20時08分13秒 | 日記

      上京して春の東京を楽しむことにした。

   浅草に宿を取つたので、近くの合羽橋道具街を歩いた。初めてのことで街の規模もお店の数も分からなかつたが、三時間ほど楽しめた。何かを購入しようとしたのでもないのにこれだけ楽しめるのだから、目的があればもつと楽しめただらう。

  外国人が多いのも言はれてゐた通り。刃物のところは特に。食品サンプルに興味があるかと思つたが、さうでもなかつた。こちらは日本人が多かつた。思ひの外高額なのと、想像以上に重いのに驚いた。

  近くに和菓子屋があつたので入ると、嬉しいことに桜餅があつた。関西の半殺しのもち米では桜餅とは言ひたくない。やはり桜餅は小麦粉の薄焼きで巻いたものであつて欲しい。花より団子ではなく、道具より桜餅である。

  ちなみに道具街では割り箸と楊枝とアイスクリーム用のスプーンを購入。いい買ひ物をした。

  浅草はまだまだ人がゐた。

 

 

おつと

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書評 『夢があふれる社会に希望はあるか』

2017年03月29日 22時26分53秒 | 本と雑誌

 児美川孝一郎氏の本を引き続き読んだ。

 キャリア教育と聞くと何だか職業人養成教育のやうで、学校が企業の下請けになつたやうに思へて不快になるが、この方のキャリアデザインといふ発想は、さういふものとは違ふ。

 以前読んだ『キャリア教育のウソ』は、そのことを明確に示してゐた。名著である。今日の世界が極めて流動的であるのに、今ある職業を前提として、それに当てはまるやうな意識や能力や価値を養成しようとする「キャリア教育」は百害あつて一利なしである。

 それよりは、

 やりたいこと  ライクワーク(理想)

 やれること   ライスワーク(経済)

 やるべきこと  ライフワーク(貢献)

 の三つの視点で「ワーク」を考へるのが有効である(筆者の主張を簡単に要約)。

 「やりたいこと」ばかりを追求し、それを実現するためのプランも努力もなければ、キャリア教育は生徒の人格や社会性を乏しいものにしてしまふ危険がある。確かにいろいろな職業があることを知らせるといふことは大切なことであるが、先ほども書いたやうに今ある職業自体が無くなつてしまつたり、職業従事者のほとんどが、見たり聞いたりしても仕事の内容がよく分からない第三次産業に関はつてゐるといふ現実を踏まへると、就業体験をさせるといふことへの過大評価は見直す必要もある。

 「夢」とは、漢字本来の意味は、寝台の上でうなされてゐるといふことである。そのことを思ふと、「夢があふれる社会に希望はあるか」とのこの本のタイトルには、「ない」といふべきだらうといふのが私の感想である。

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人の成長といふこと。

2017年03月24日 22時57分04秒 | 日記

  昨日、恩師と長い時間を過ごした。学びの発動はいかになされるべきかといふことを巡つてである。

  教師と生徒との関係に視野が限定されてはゐないかといふ問ひが浮かび上がつて来た。だから、生徒をどう指導するかといふ視点しか出て来ない。そんな風に言はれたやうな気がした。

  生徒と生徒とが育つていく過程にどう関はるか、そんな視点で考へてみてはどうか? さう問ひ直されたのである。

 「 今日はこれこれを仕上げるから遅くまで起きてゐる。だから邪魔をしないでくれ。」

「おお分かつた。なら先に休むからお前が寝る時間に起こしてくれ。明日の朝は俺が起こしてやるから。」

 

  そんな会話が自然に成立してゐるのなら、きつと消灯時間など決める必要もないだらう。もちろん、私たちは弱いから夜の力に引きずられ随分と失敗をしてしまふこともあるだらう。しかし、その失敗を繰り返すことを許容するのも成長であるかもしれない。今は「かもしれない」といふ留保をつけざるを得ないが、友情による成長が無ければ教師以上の人間は出て来ないであらう。

  倫理と論理とで考へられたルールが機能するためには、きつと敬意がなければならないのだらう、そんなことを考へた。

 

  ハイデガーに『言葉についての対話』といふ小品がある。対話の相手は九鬼周造である。ハイデガーは「問ひとうふ人」、九鬼は「日本人」の一人として登場する。プラトンが自作を対話形式で遺したやうに、この作品をハイデガーは対話として著述した。そこには九鬼への敬意があつたのである。

  私は、常々ハイデガーの書き振りに自信の無さを感じてゐた。そのことを昨日恩師に話した折に話題に上つたのが、この対話篇であつた。現象学の泰斗ハイデガーに解釈学の萌芽を見た九鬼への尊敬があつたのではないか。今日、この対話篇を読んで感じたことである。

  生徒の人生を鳥瞰的に見ることも必要であるが、同じ時間空間を過ごす登場人物同士の対話を実現することも同じやうに必要である。そしてそれを実現するにはそこになくてはならないものがある。そんな気がした。

 

 

 

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東京での初春の一日

2017年03月20日 19時21分41秒 | 日記

  朝一番の新幹線で上京し、午前と午後に一回づつ学校の説明会を行なつて、東京駅近くの丸善書店で本を探して、夕食を腹に詰め込んで、さあこれから新幹線で帰ります。

  蒲郡は遠い。豊橋にはのぞみは止まらないし、ひかりは二時間に一本だし、こだまは三十分に一本だが、各駅で五分ぐらゐ止まるし、大変だ。おまけに三連休の最後の夜で東京駅は大混雑。何かがぶつかつて「痛い」と言ふ声が聞こえたが、果たして誰の何がぶつかつたのかが分からないのでどうしようもない。そんなことを考へてゐるうちに人は流れて前に押し出されていく。大都会東京の雑踏である。

  説明会には大阪からも富山から参加してくださるご家族がいらした。孟母三遷の教へは現在ではかういふことになるだらうか。子供にとつて良いと思はれることがあれば、全国どこでも行くといふことにならうか。

   本日の東京は快晴だつた。増上寺の背景に東京タワー。ありふれた光景だが、気持ち良い眺めだつた。

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今年の東大入試問題(現代文)を解いて

2017年03月19日 13時37分07秒 | 日記

 東京大学文系学部の入試は2000年から四題構成となつてゐる。評論・古文・漢文・随想(理系は、そのうち「随想」がない三題)である。それ以前は長く、七題構成で、現・作文・古・漢・現・古・漢(理系は、現・作文・古文・漢文)となつてゐた。

 大問の数が減つたことにはいろいろと理由は考へられるだらうが、大学側がていねいに問に答へよと言つてゐるのだらう。そして今年も変化があつた。大問一の問の数が一つ減つたからである。時間は変はらない。しかし問題の数が減つたといふことは、受験生の学力を測るには、これまでより問題を減らす必要を感じたといふことである。

 さて、具体的な問題の感想に移る。

第一問は評論。伊藤徹『芸術家たちの精神史』である。2004年にも同じ筆者の文章が出てゐる。これにも驚いた。内容は、人間が科学技術を作り、諸問題を解決していつたが、その解決策が新たな問題を生み、それを科学技術の発展で解決していかうとしてきたが、現在では科学技術を人間が運用できるとする神話が虚構であることが明らかになり、新たな神話をつくりださなければならない状況にあるといふことである。現実と虚構、この二元論のなかに人間は生きてゐる。東大がずつと暗示し続ける「二元論」の世界の文章である。昨年の内田樹の文章による出題といふ劣化から一年で回復した。たっだし、問二は、答へづらい。何を訊いてゐるのかが不明で、ここだけは解答を留保したい。予備校によつても解答は異なるはずだ。

 第四問は随想。幸田文『藤』である。京都大学では何度か出たが、東大では初めてで、小説と言つても通用するやうな内容である。父(露伴)の子育てのありやうをベースに、娘がどう自然と親しんでいつたかを回想したものである。讀みやすいし、解答もしやすい。四番の「飽和」といふことが何を意味するのかが若干取りづらいが、ここは父と娘が美しい藤棚を見ての、これ以上ない心豊かな幸福感に満たされた状態のこと、で良いのではないかと思ふ。

 第二問の古文は、源氏物語からの出題で難しかつたやうだ。

 現代文は、極めて順当な問題で、東大受験生の読解力を見るにはいい問題として今後も利用されるだらう。

 

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