昨日、恩師と長い時間を過ごした。学びの発動はいかになされるべきかといふことを巡つてである。
教師と生徒との関係に視野が限定されてはゐないかといふ問ひが浮かび上がつて来た。だから、生徒をどう指導するかといふ視点しか出て来ない。そんな風に言はれたやうな気がした。
生徒と生徒とが育つていく過程にどう関はるか、そんな視点で考へてみてはどうか? さう問ひ直されたのである。
「 今日はこれこれを仕上げるから遅くまで起きてゐる。だから邪魔をしないでくれ。」
「おお分かつた。なら先に休むからお前が寝る時間に起こしてくれ。明日の朝は俺が起こしてやるから。」
そんな会話が自然に成立してゐるのなら、きつと消灯時間など決める必要もないだらう。もちろん、私たちは弱いから夜の力に引きずられ随分と失敗をしてしまふこともあるだらう。しかし、その失敗を繰り返すことを許容するのも成長であるかもしれない。今は「かもしれない」といふ留保をつけざるを得ないが、友情による成長が無ければ教師以上の人間は出て来ないであらう。
倫理と論理とで考へられたルールが機能するためには、きつと敬意がなければならないのだらう、そんなことを考へた。
ハイデガーに『言葉についての対話』といふ小品がある。対話の相手は九鬼周造である。ハイデガーは「問ひとうふ人」、九鬼は「日本人」の一人として登場する。プラトンが自作を対話形式で遺したやうに、この作品をハイデガーは対話として著述した。そこには九鬼への敬意があつたのである。
私は、常々ハイデガーの書き振りに自信の無さを感じてゐた。そのことを昨日恩師に話した折に話題に上つたのが、この対話篇であつた。現象学の泰斗ハイデガーに解釈学の萌芽を見た九鬼への尊敬があつたのではないか。今日、この対話篇を読んで感じたことである。
生徒の人生を鳥瞰的に見ることも必要であるが、同じ時間空間を過ごす登場人物同士の対話を実現することも同じやうに必要である。そしてそれを実現するにはそこになくてはならないものがある。そんな気がした。