言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語114

2006年10月31日 21時45分07秒 | 福田恆存

「私が『現代かなづかい』について最も不可解と思ふことは、『かかう(書)』『……ませう』『うつくしう(美)』などにおいて、それらの『か』『せ』『し』を『こ』『しょ』『しゅ』にしなければ表音的でないと考へた論者の音韻意識であります。また『こうり(公理)』『えいり(營利)』の『う』『い』をそのままにしておき、それを『お』『え』にしてはならぬと言ひながら、他方『こおり(氷)』『ねえさん』と書けといふ彼等の音韻意識であります。いづれも、いはゆる長音に關する問題ですが、まず後者について考へてみませう。『あ列』『い列』『う列』の長音の場合は、該當文字の下にそれぞれ『あ』『い』『う』を添へて書けばよいのに、なぜ『お列』『え列』の長音だけは『お』『え』でなく『う』『い』としなければならないのか。何物にも替へがたい表音といふ原則を破る以上、そこには必ず原則に隨ふとまづいことがあるに違ひないといふことになります。」

  具體的に言へばかういふことである。

「遊ぼう」は「遊ぼお」に發音され、「赤穗(あこう)」は「あこお」に發音され、「水泳(すいえい)」は「すいええ」に發音されるのに、發音どほりには書かない。表音式假名遣ひであるはずの「現代かなづかい」が、原則を破つてゐるわけで、「そこには必ず原則に隨ふとまづいことがあるに違ひないといふことになります」といふ言もうなづけよう。

  これらの言葉を歴史的かなづかひで書けば、「遊ばう」「あかほ」「すいえい」であり、表記と發音との關係は一定に保たれてゐる。

  國語には國語の音韻體系があるといふことに、なかなか納得がいかない人は現在もゐるやうで、書家の石川九楊氏などは、次のやうに記してゐる。

「『万葉集』や『古事記』によって書きとどめられたと言われる倭語なるものも、どこまでいっても漢字を借りた万葉仮名という枠組みで採用され、多くの発音上の微妙さや微細さが切り捨てられた上でのそれにすぎないのである。」

                                『二重言語国家・日本』

 日本の音韻など、中國語の發音を借りたものであつて、そもそもオリジナルなものではない。ましてや萬葉假名の時代と現代とでは發音自體が異なつてをり、かつての表記に縛られる必要などさらさらないといふのである。またぞろ中華册封體制下の言語理解であり、薄つぺらで稚拙なものであるが、これでも多くの日本人は、なるほどさうかと思つてしまふかもしれないので、訂正をしておく。

  福田恆存は、かう記してゐる。

「奈良朝を含めてそれまでの音韻の在り方は、當時用ゐられた萬葉假名といふものによつて解ります。それまでの日本には文字がなく、漢字の一つ一つをほとんどその意味と關係なしに音だけを借りながら始めて表記してゆくとなれば、當然自分の發音に注意深くなるでせうから、そこには音聲と文字とのずれは大してなかつたものと考へてよく、そのことは記紀萬葉に用ゐられた數萬の漢字を檢討しても推測しうるのであります。」

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WORLD TRADE CENTER を觀て

2006年10月29日 09時57分26秒 | 日記・エッセイ・コラム

 この映畫に對しては、社會派オリバー・ストーンの作品とは思へない「愛國」的な映畫であることへの批判が多いやうである。新聞の映畫評やホームページの映畫評論家による論評にもさういふものをしばしば見かける。

 つい先日も、スマップの一人、イナガキ・ゴロウ君がこの映畫の評を話してゐた(彼は映畫評論家ではないが、相當に映畫通のやうで、毎週のやうに映畫を論じてゐるらしい)。「この映畫が世界平和に役立つかなと思ふと違ふと思ふ。かういふテロなぜ起こしたのか、そちら側の事情を完全に排除した映畫つくりに違和感があつた。『パールハーバー』を觀た時と同じ思ひがした」といふのが要旨であつたと思ふ。映畫が世界平和に役立つかどうかで評價されるといふのも驚きだが、「そちら側の事情」を同時に描き出さなければならないといふのも、國際政治學の講義ではあるまいし、映畫評としては、いささか「政治的」すぎると感じだ。イナガキ君は、どうしてそこまで「世界平和」を意識するのだらうか。「世界でたつた一つの花」などといふへんちくりんな歌を歌つてしまつたから、ヒューマニズムの色合ひを出すことが必要になつてしまつたのであらうか。

 さて、イナガキ君のことはどうでもいい。私は、やはりアメリカの傷は深いといふことを感じてゐる。私は、「時事評論」にかつて、かう書いた。

 私は、今もブッシュ大統領の九・一一直後の國會演説を忘れられない。「一囘きりの戰鬪で終るといつたものではなく、アメリカ人がこれまでに經驗したことのないやうな、長期的な戰鬪になるでせう」――アメリカが負ふ深い傷を感じた。そして、それは今年二月六日に國防省が發表した「四年毎の防衞見直し(QDR)」にも通じ、「米國は長期にわたる戰爭の中にある國家である」と明言されてゐる。もちろん戰爭である。しかも今やその正當性が疑問視された戰爭である。にもかかはらず、アメリカはこの鬪ひを少なくとも一世代三十年間は續けようと言ふのだ。

 忘れてはなるまい。あの九・一一では我我の同胞も殺されてゐるのである。なるほど、フセイン政權を倒すことが、テロの撲滅に關はりがあるのかといふ疑問もあらう。しかし、それはブッシュ父の時代のフセインに對する國際社會の認識を實行したに過ぎない。あるいは、かうも反問する人がゐるかもしれない。フセイン不在がイランの暴走を招き、かへつて中東を不安定にしたではないかと。しかし、それはフセインを温存させる理由にはならない。宗教的全體主義のイラン國内においてイスラム穩健派の育成は急務であるが、それはテロリストの孤立化と同時に進めてゆくべきで、國際社會のテロ撲滅の氣運こそ必要なのである。フランスのやうな自國の權益を優先する反米志向や、日本の知識人の日和見的な戰爭否定論は、この際「どこ」の「だれ」を遇してゐるのかを見極める必要がある。

  長い戰爭が始まつたのだ。これは近代と中世との鬪ひである。民主化や高度産業社會化に唯一のあり方はないが、それなしに近代化はないのも眞實である。もちろん私たちも、アメリカに對して全面的な贊意を示す立場にはない。にもかかはらず、アメリカを孤立させてはならない。それは逆説めくが、この戰爭をキリスト教とイスラム教との宗教戰爭にしてはならないからである。我が國の役割こそ、そこにある。

 私は、この映畫を觀て涙が出た。感傷もあるだらう。僞善もあるだらう。しかし、一人の人間を救濟するといふことが、これほどに尊いのだといふことを改めて感じた。この涙は、本心からの喜びであり、悔恨でもある。九十九匹を救ふのが政治で、一匹を救ふのが文學であるとすれば、目の前にゐる「一匹」の救濟に專心すべきである。

 蛇足。 瓦礫に埋められた一人の警官の夢に、イエスが現われた場面があつた。顏こそ見せないが、ペットボトルを抱へてゐたのである。實際にもさういふ幻を觀たのであらうが、ああいふ描き方は興醒めであつた。リアリズムにも程がある。

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祝 20000件突破

2006年10月28日 21時23分51秒 | ブログ

例の「論爭」以後、とんでもないスピードでアクセス數が増えました。お蔭樣で、本日2萬件を越えました。内容充實を圖るべく、さらに「深考」を心掛けます。

最近は、忙しく歸宅後に更新をすることもままならぬ状況でしたが、少しづつ進めてゆきます。

松原正先生の『知的怠惰の時代』を今、讀んでゐます。いろいろと感じることがあります。それから、その前には松原先生の戲曲「花田博士の療法」を讀みました。この作品の主題は「ジャーナリストの無節操」ださうですが、それとは別に妙に師匠の「堅壘奪取」に似てゐるかなといふ思ひしきりでした。再演されれば觀にゆきたいですね。

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時事評論石川――10月號

2006年10月25日 21時35分33秒 | 告知

北朝鮮の核武裝化は阻止できぬ

                         拓殖大學教授      吉原恒雄

今こそ「日中友好親善」の嘘

              ―戦略的「悟」「警」関係の構築に向けて―

                       国際政治アナリスト  細谷茂樹

アメリカ経済の原則に最大の注意を

                      経済ジャーナリスト   佐中明雄

コラム

                「國つくり」の手始め           (星)

                スポーツ選手と「日の丸」   (菊)

                棍棒を持ち穩やかに話す (柴田裕三)

                lここでも朝・毎 對 讀・産      (蝶)

問ひ合せ

   076-264-1119          ファックス  076-231-7009

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『夏の夜の夢』福田恆存の解題

2006年10月23日 11時28分39秒 | 福田恆存

『夏の夜の夢』は上演しておそらく失敗の少い作品であらう。森の中をさまよふ戀人達、間狂言の職人達、それだけでも結構樂しめる。だが、演出の眞の成否は、この劇の作因にもなり、行き違ひの調整者として劇を「ハッピー・エンド」に導くオーベロン・タイターニア、パック、その他の妖精達にかかつてゐる。その超自然の力と雰圍氣とが出せなければ、何もならない。彼等の存在は超自然でありながら、超自然であることによつて自然を表出するといふシェイクスピア的機能を背負はされてゐるからだ。この『夏の夜の夢』の調和的な「自然感情」は『オセロー』の解題において觸れた「宇宙感情」とは一致はしないが、それに道を通じるものである。

  「演出の眞の成否は、この劇の作因にもなり、行き違ひの調整者として劇を「ハッピー・エンド」に導くオーベロン・タイターニア、パック、その他の妖精達にかかつてゐる。」といふところは、演出家としての自戒の言葉であらう。今囘の昴の芝居を、福田恆存が觀ても同じ批評を書かれるに違ひない。では、その「演出の眞の成否」はどうかと言へば、それは私には分からない。ただ、「超自然」を示すのに、あの白裝束のパントマイムはどうかと思ふといふ友人がゐた。杉本さんにもその旨を話したが、話題は變はつてしまつた。

  私は、それとは別に、劇中劇を演じるアンゼスで働く職人達が、もう少しのびのびと笑はせてくれれば良かつたと思つた。面白いのだが、何だか一所懸命さが前面に出てしまつた。これは難しいところだ。素人が演じる役を、プロの役者が演じるわけで、素人くさくやるのは良いのだが、それがプロの演じる素人にしては、一所懸命さが傳はりすぎたやうに思へた。福田恆存の言葉をもぢれば、「彼等の存在は超素人(プロ)でありながら、素人を演じることによつて超素人(プロ)を表出するといふシェイクスピア的機能を背負はされてゐる」のだが、成功してゐないやう思へたのである。

まあ、言葉遊びです。パックよろしく「けしておとがめくださいますな」。

コメント (3)
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