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桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫) 価格:¥ 798(税込) 発売日:2008-10-16 |
福田恆存は、坂口安吾のことが好きであつたと思ふ。實際に何度かは會つてゐる。どんな會話を交したのかは分からないが、彼の作品を正確に讀み、的確に批評した。『櫻の森の滿開の下』はほんたうに變はつた小説であるけれども、「絶對の孤獨」をものの見事に描いた作品である。福田恆存が「人間存在そのものの本質につきまとう悲哀を追求」したと評したゆゑんである。今、二箇所だけ引用する。
一つ目は、中ほどのところ。
「けれども彼はただの鳥でした。枝から枝を飛び廻り、たまに谷を渉(わた)るぐらいがせいぜいで、枝にとまってうたたねしている梟にも似ていました。彼は敏捷(びんしょう)でした。全身がよく動き、よく歩き、動作は生き生きしていました。彼の心は然し尻の重たい鳥なのでした。彼は無限に直線に飛ぶことなどは思いもよらないのです。
男は山の上から都の空を眺めています。その空を一羽の鳥が直線に飛んで行きます。空は昼から夜になり、夜から昼になり、無限の明暗がくりかえしつづきます。その涯に何もなくいつまでたってもただ無限の明暗があるだけ、男は無限を事実に於て納得することができません。その先の日、その先の日、その又先の日、明暗の無限のくりかえしを考えます。彼の頭は割れそうになりました。それは考えの疲れでなしに、考えの苦しさのためでした。」
そして、最後の場面である。
「 桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。
彼は始めて四方を見廻しました。頭上に花がありました。その下にひっそりと無限の虚空がみちていました。ひそひそと花が降ります。それだけのことです。外には何の秘密もないのでした。
ほど経て彼はただ一つのなまあたたかな何物かを感じました。そしてそれが彼自身の胸の悲しみであることに気がつきました。花と虚空の冴えた冷めたさにつつまれて、ほのあたたかいふくらみが、すこしずつ分りかけてくるのでした。
彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変ったことが起ったように思われました。すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。」
安吾には、「文學のふるさと」といふ評論がある。「モラルのないのが、モラルである」といふ逆説を言ひ、人間には人力では及ばない絶對の孤獨があり、そこが文學の出發點であるといふ。しかしながら、人がふるさとに留まれないやうに、文學もまたそこに留まつてゐてはならない。そこで、かう書く。
「我々の現身(うつしみ)は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。
私は文学のふるさと、或は人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。
アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……
だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのように信じています。」
「大人の仕事」といふ言葉が唐突に書かれる。文學の社會性といふことも言はれる。安吾がその仕事に成功しえたかどうか、私は是とするが、少なくとも『櫻の森の滿開の下』は、「人間存在そのものの本質につきまとう悲哀を追求」した作品として大人の仕事であると思へる。