言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

櫻の森の滿開の下――「大人の仕事」

2009年06月27日 21時05分12秒 | 日記・エッセイ・コラム

桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫) 桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫)
価格:¥ 798(税込)
発売日:2008-10-16

 福田恆存は、坂口安吾のことが好きであつたと思ふ。實際に何度かは會つてゐる。どんな會話を交したのかは分からないが、彼の作品を正確に讀み、的確に批評した。『櫻の森の滿開の下』はほんたうに變はつた小説であるけれども、「絶對の孤獨」をものの見事に描いた作品である。福田恆存が「人間存在そのものの本質につきまとう悲哀を追求」したと評したゆゑんである。今、二箇所だけ引用する。

 一つ目は、中ほどのところ。

「けれども彼はただの鳥でした。枝から枝を飛び廻り、たまに谷を渉(わた)るぐらいがせいぜいで、枝にとまってうたたねしている梟にも似ていました。彼は敏捷(びんしょう)でした。全身がよく動き、よく歩き、動作は生き生きしていました。彼の心は然し尻の重たい鳥なのでした。彼は無限に直線に飛ぶことなどは思いもよらないのです。
 男は山の上から都の空を眺めています。その空を一羽の鳥が直線に飛んで行きます。空は昼から夜になり、夜から昼になり、無限の明暗がくりかえしつづきます。その涯に何もなくいつまでたってもただ無限の明暗があるだけ、男は無限を事実に於て納得することができません。その先の日、その先の日、その又先の日、明暗の無限のくりかえしを考えます。彼の頭は割れそうになりました。それは考えの疲れでなしに、考えの苦しさのためでした。」

 そして、最後の場面である。

「 桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。
 彼は始めて四方を見廻しました。頭上に花がありました。その下にひっそりと無限の虚空がみちていました。ひそひそと花が降ります。それだけのことです。外には何の秘密もないのでした。
 ほど経て彼はただ一つのなまあたたかな何物かを感じました。そしてそれが彼自身の胸の悲しみであることに気がつきました。花と虚空の冴えた冷めたさにつつまれて、ほのあたたかいふくらみが、すこしずつ分りかけてくるのでした。
 彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変ったことが起ったように思われました。すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。」

  安吾には、「文學のふるさと」といふ評論がある。「モラルのないのが、モラルである」といふ逆説を言ひ、人間には人力では及ばない絶對の孤獨があり、そこが文學の出發點であるといふ。しかしながら、人がふるさとに留まれないやうに、文學もまたそこに留まつてゐてはならない。そこで、かう書く。

「我々の現身(うつしみ)は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。
 私は文学のふるさと、或は人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。
 アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……
 だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのように信じています。」

「大人の仕事」といふ言葉が唐突に書かれる。文學の社會性といふことも言はれる。安吾がその仕事に成功しえたかどうか、私は是とするが、少なくとも『櫻の森の滿開の下』は、「人間存在そのものの本質につきまとう悲哀を追求」した作品として大人の仕事であると思へる。

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時事評論 6月號 出來

2009年06月20日 22時31分11秒 | 告知

○時事評論石川の6月号の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。

 北朝鮮が動いてゐる。相次ぐミサイル発射や核実験、後継者問題の急浮上、それから食糧問題など、事態は深刻のやうに見える。しかしながら、その深刻さはいつでも対岸の火事のやうにしか報道されない。時々、政治家の一部の人が、ミサイルは日本を狙つてゐると警鐘を鳴らすが、それとても危機を宣伝してゐるだけで、夜寝られないほどの「深刻」さはない。

 所詮、私たちは半径30kmの範囲のことにしか関心がないのである。新型インフルエンザの問題も然りであつた。関西で起きたときには、好奇の目でしか首都圏のテレビ新聞は見なかつた。それどころか、神戸大阪で発症例が出ても、奈良、和歌山の子ども達は通常通り学校に行つてゐた。大阪府民や兵庫県民であつても!である。

 それが悪いといふことを言ひたいのではなく、さういふ意識の層で生きてゐる私たちであるといふことを踏まえた批評が、必要だと言ひたいのである。『諸君!』が廃刊になつたが、かつては保守派の思想家にはさういふ奥行きを持つた文章を書く人がゐらしたが、今はゐなくなつたといふことではあるまいか。それが残念だ。

 坂口安吾は「文学のふるさと」といふ文章のなかに「モラルがないところにこそモラルがある、そこから文学が生まれる」(要約)と書いた。それは善なることを行つた人が必ずしも幸福になるわけではないといふ「モラルのない」状況こそ人間の実際であり、その実際を深く理解して、人間の力ではどうしようもない「絶対の孤独」こそが私たちの生であるといふ内奥の真実(モラル)を土台に据えよといふことであつた。それが「文学のふるさと」であり、真の文学・批評であるといふことだ。政治を題材にしながらもさうしたものは書けるとは思ふが、なかなかさういふ文章に出逢ふことは少ない。福田恆存はさういふ文章家であつた。松原正氏も西尾幹二氏も私はさうだと思ふ。福田和也氏も遠藤浩一氏も私はさういふ批評家であると思つてゐる。

 さて、今月の内容の紹介に移らう。

 NHKの『JAPAN デヴュー』といふ番組は相当にひどいらしい。『正論』でもあの加地伸行先生が批判するぐらゐだから相当なものだ。台湾の描き方は、偏向そのもの。ホームページで「正当性」を主張してゐると新聞で読んだが、さてどうなのであらうか。

 NHK全体がさうなのではあるまいが、反日家はゐるのであらう。台湾人を利用して反日を煽るといふのは、不当どころか犯罪である。

  NHK『JAPANデビュー』の偏向番組

    ―親日台湾を反日台湾に仕立て上げる―

    日本李登輝友の会常務理事 柚原正敬

今こそ「安倍新党」を

  アナーキズムの民主党に政権は任せられぬ

                 ジャーナリスト  山際澄夫

自衛隊が日本の教育を救う

  学生と共に生活体験に参加して

          大阪国際大学准教授  安保克也

奔流            

核武装、議論してもいけないのか

  ―北の核実験に日本はどうする―

          拓大大学院教授    花岡信昭

コラム

        「一度は民主党に」の正体  (菊)

        新聞人の歴史観 (柴田裕三)

          怪物がめざめた夜なのに(星)

        北の核実験と各紙社説(蝶)            

  問ひ合せ

電話076-264-1119    ファックス  076-231-7009

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『1Q84』 BOOK1 讀了

2009年06月16日 22時40分06秒 | 日記・エッセイ・コラム

    やうやく一册目を讀了。「メガシャキ」といふ飮料水のCMが好きなんですが、あの中のせりふにある「あららなんか眠いなん」といふ感じがした。BOOK1だけで判斷するのは決してよくないことではあるが、信じたことのない人が、信じてゐる人を見ると異常に見えるのであらうか。なんか変なものを見てしまつたがゆゑに、村上春樹氏の目にはいびつな現代しか見えてゐないやうに感じる。村上氏の宗教體驗は、オウム眞理教の信者へのインタビューであり、その裁判の傍聽のみである。先日のエルサレム賞の受賞スピーチでも感じたが、どうにも幼稚な感じがする。何を村上氏は恐れてゐるのであらうか。話の運びは面白いし、讀ませるが、周りをぐるぐると歩いてゐるばかりで、中に入ることを躊躇してゐるのである。

   虚無にもなれず、信じるものをも持ち得ない。さういふ人が言葉を頼りに成熟を試みようとするが、歩を進めることに逡巡するから、君子危きに近寄らずといふ處世の術としてしか小説が現出して來ないのである。前作が、海邊からみたカフカであつたやうに、今囘の作品も贋物の現代としての「1Q84年」しか描けないのであらうか。「1984年」を書き、「2009年」を書くことで、時代を越えた何かを書くことこそ期待したい。西暦0年を畫したイエスの生涯とキリストの誕生の物語を持たない、異邦人の私たちにとつて必要なものは、さういふ似非の物語ではなく、「神」にまじめに取り組んでみる體驗なのである。私はさう思ふ。

  だいたいオウム眞理教に取材して現代を語るといふのが、どうかしてゐる。それでは歪んで見えてしまふのも當然である。村上氏は宗教的な感性が乏しすぎる。正統なるものを見出せずに異端を見てしまつた不幸のやうにも思ふ。どうせエルサレムに行つたのなら、ユダヤ教でもキリスト教でもイスラム教でも、千年單位の時間の試煉に耐えた宗教に取材したら良かつた。美談を求めてゐるのではない。ただ成熟した小説をこの作家には求めたい。成熟とは何か。それはやはり書く當人が信じた體驗を持つことである。信じたことのない人の虚無は淺くて薄っぺらい。つまりは、

  幼い、のである。

 464頁2行目  身体は痩せぎすな筋肉質で

               ↓

           身体は痩せすぎな筋肉質で   でせうね。

コメント (4)
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小林秀雄より太宰治――か!

2009年06月08日 22時17分27秒 | 日記・エッセイ・コラム

 先日の土曜日、六月六日に神戸女子大で第35囘北村透谷研究會の全國大會が行はれた。豫想を上まはる盛況で、主催者もほつと胸をなで下ろしたやうだつた。

 研究發表一本、講演二本はいつもどほりだつたが、いつになく大きな構への研究成果に聽いてゐてワクワクするやうな感じがした。

 いちばん面白かつたのは、北川透先生のもので、「日本浪曼派の透谷像をめぐつて――保田與重郎、佐藤春夫の視點を中心に――」がテーマであつた。保田與重郎のことなど北川先生、學生時代には知らなかつたと告白されてゐた。それほどに「隱された存在」であつたといふ。確かに大東亞戰爭に加擔した思想家はことごとく戰後否定されてきた。その最も先頭にゐた與重郎が歴史から隱されたといふことはあるだらう。

戦後代表詩選続―谷川俊太郎から伊藤比呂美 (詩の森文庫) 

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価格:¥ 1,029(税込)
発売日:2006-10
 そして、今、透谷が平成の御世から消され隱されてしまつたといふのだ。與重郎といふ存在がその文學的價値の消滅によつて隱されたのではないのと同樣に、透谷の文學的價値が消滅したから現代社會から隱されてしまつたのではない。誰かが隱してゐるのである。それを柄谷行人、三浦雅士らの「批評空間」グループなどの現代思想かぶれの文藝批評家であると北川先生は仰つたが、桶谷秀昭先生がゐらしたら、それは透谷の買ひかぶりだと言はれただらう。私はまだよく解らないが、二十代で死んだ思想家を過大評價するなといふ桶谷先生の發言も重視したい。

 北川先生の「透谷」稱揚の理由は、彼が近代を解體し(現代思想好きが言つてゐるやうな)次の時代のものを示したからではなく、近代にあるものを使つて近代を克服しようとしたところにある。その中心は何か。それは「他界の觀念」であると言ふ。このあたりの指摘は本當に面白かつた。小林秀雄や志賀直哉は近代文學である。透谷、宮澤賢治、太宰治にはそれらを越えたものがあるといふ。

 私にはずゐぶん違和感があるが、興味深い御話だつた( 懇親會で北川先生にも御傳したが、村上春樹にも他界の觀念がある。しかし、彼には「罪」といふ觀念がない。透谷にはある。そこが決定的に違ふ、そして、北川先生が透谷の系譜におく宮澤賢治や太宰治にもないやうに思ふ。これは研究したいテーマだ)。

 話は、ここで時間切れ。いづれ本にでもしていただければと思ふ。

 會誌で藪禎子先生が亡くなられたことを知つた。御冥福を祈る。私には一度しか御見掛けしたことがないが、非常に上品で物腰は柔かいが、研究發表にはぴしりとしかも正確に批評をされる御姿が印象的であつた。

 キリスト者評論集 (新日本古典文学大系 明治編 26)

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発売日:2002-12

次囘は11月21日。東京町田である。

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『1Q84』途中経過

2009年06月07日 13時41分08秒 | 日記・エッセイ・コラム

 今のところ。

BOOK1の242頁までしか読んでゐないので、今後は分からない。それにしても読むのが遅い。われながら遅い。これは読者である私のせいである。

内容については――

これほどに村上春樹の比喩は陳腐であつただらうか。どうにも鼻についてしまふ。 

194頁の三行目では「彼女」といふ言葉を使ひ、次の行でその人物を表現するのに「私」といふ言葉を使つてゐる。同一人物の描写に三人称と一人称を使ふのはをかしいことではないが、この場合のやうな作者の視点の急転換はどうにも不可解である。

今日の朝日新聞の書評は、頷けない。まだ全体の四分の一しか読んでゐないが。

今後、私の印象がどう変はるか、変はらないか。

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