久しぶりに万城目学の小説を読んだ。直近(第170回)の直木賞を受賞した作品だからである。
受賞作は、「八月の御所グラウンド」だが、単行本にはもう一作「十二月の都大路上下(かけ)ル」も収められてゐる。
後者は、毎年行はれてゐる全国高校駅伝の大会に取材したもので、私も以前勤めてゐた学校がこの常連出場校で、宝ヶ池辺りで応援したことが何度もあるので、懐かしく読んだ。ネタバレになるので詳細は止めるが、その都大路を走る高校生の横を並走する人物が出てくる。見えるヒトには見える歴史的人物が絡んだ話である。
受賞作の方は、こんな話。京都の大学のライバル関係のある教授二人が学部長選を争つてゐる。その前哨戦として「野球の対抗戦に勝て」といふ厳命を与へられた男(多聞)がその戦ひに挑む。彼に借金をしてゐたためその対抗戦に関はることになつた俺(朽木)は、ちやうど彼女に振られて暇を持て余してゐたところで、彼の誘ひを断る理由がない。
そして野球の試合が行はれる。「八月の敗者になってしまった」で始まるこの小説にも歴史的な人物が登場して来る。
両作品ともスポーツ小説であるし、歴史的人物が現れて来るファンタジー小説。それはいつもの万城目ワールドである。
野球のチームメンバーにシャオさんといふ中国人女性がゐる。彼女には妹がゐて、ある時、その妹が自分にはあるものが見えてゐるが、お姉さんにもそれを見てほしいと誘ひに来た。しかし、そのシャオ姉には、その秘密めいたことを他人である自分に伝へてしまへばきつとそれは見えなくなつてしまふのではないかといふ予感があつた。
事実、妹に案内されて行つて見ると、案の定それは見えなかつた。行く途中で、妹は物にぶつかる。
「私はひどい音とともに、目の前で妹がひっくり返るのを見て、『こういう道の閉ざされ方だったか』と思いました。妹は大泣きしました。」
道の閉ざされ方、といふ表現が出来るのは、きつと万城目学の実感なのだらうと感じた。
そして、最後の場面の会話。
「『なあ、朽木、俺たち、ちゃんと生きてるか?』
すぐには、答えることができなかった。」
多聞も朽木も、読者である私には「ちゃんと生きてる」やうには見えなかつた。しかし、この野球の試合を通じて「ちゃんと生きてる」人と出会ひ、「ちゃんと生きる」とはどういふことかを考へ始めたのである。「ちゃんと」といふ言葉が死語になつてゐる時代に「ちゃんと生きる」ことは、「ちゃんと」がその正否はともかく明確にあつた時代よりも難しい。
万城目学の視線が柔らかく直線的でないのは、さういふ難しさを知つてゐるからだらう。
「八月の敗者になってしまった」で始まるこの小説は、単なる「それでもちゃんと生きろよ」といふ激励でも、かと言つて「ちゃんと生きるなんて難しいよ」といふ諦めでもない。
明日、最後の試合があることを思ひ出させて終はるこの小説は、問ひを投げかけていくだけで十分だといふ現代小説の断念を示してゐるのだらうと考へた。事実、私も万城目ワールドを楽しみながら、上に引用した言葉を心に留めた。
いい小説だつた。