言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

花咲きけり

2024年04月08日 22時13分57秒 | 評論・評伝
 車で10分ほど行つた所にある私のお気に入りの場所。4月8日は釈迦の生誕日、花まつり。
 桜の咲きやうには時空を超えた姿がある。それは死を予感さへする。ここがあそこであること。あそこがここであること。それを桜が伝へてゐるやうだ。
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万城目学『八月の御所グランド』を読む

2024年03月31日 08時33分46秒 | 評論・評伝
 
 
 久しぶりに万城目学の小説を読んだ。直近(第170回)の直木賞を受賞した作品だからである。
 受賞作は、「八月の御所グラウンド」だが、単行本にはもう一作「十二月の都大路上下(かけ)ル」も収められてゐる。
 後者は、毎年行はれてゐる全国高校駅伝の大会に取材したもので、私も以前勤めてゐた学校がこの常連出場校で、宝ヶ池辺りで応援したことが何度もあるので、懐かしく読んだ。ネタバレになるので詳細は止めるが、その都大路を走る高校生の横を並走する人物が出てくる。見えるヒトには見える歴史的人物が絡んだ話である。

 受賞作の方は、こんな話。京都の大学のライバル関係のある教授二人が学部長選を争つてゐる。その前哨戦として「野球の対抗戦に勝て」といふ厳命を与へられた男(多聞)がその戦ひに挑む。彼に借金をしてゐたためその対抗戦に関はることになつた俺(朽木)は、ちやうど彼女に振られて暇を持て余してゐたところで、彼の誘ひを断る理由がない。
 そして野球の試合が行はれる。「八月の敗者になってしまった」で始まるこの小説にも歴史的な人物が登場して来る。
 両作品ともスポーツ小説であるし、歴史的人物が現れて来るファンタジー小説。それはいつもの万城目ワールドである。
 野球のチームメンバーにシャオさんといふ中国人女性がゐる。彼女には妹がゐて、ある時、その妹が自分にはあるものが見えてゐるが、お姉さんにもそれを見てほしいと誘ひに来た。しかし、そのシャオ姉には、その秘密めいたことを他人である自分に伝へてしまへばきつとそれは見えなくなつてしまふのではないかといふ予感があつた。
 事実、妹に案内されて行つて見ると、案の定それは見えなかつた。行く途中で、妹は物にぶつかる。
「私はひどい音とともに、目の前で妹がひっくり返るのを見て、『こういう道の閉ざされ方だったか』と思いました。妹は大泣きしました。」
 道の閉ざされ方、といふ表現が出来るのは、きつと万城目学の実感なのだらうと感じた。

 そして、最後の場面の会話。

「『なあ、朽木、俺たち、ちゃんと生きてるか?』
 すぐには、答えることができなかった。」
 
 多聞も朽木も、読者である私には「ちゃんと生きてる」やうには見えなかつた。しかし、この野球の試合を通じて「ちゃんと生きてる」人と出会ひ、「ちゃんと生きる」とはどういふことかを考へ始めたのである。「ちゃんと」といふ言葉が死語になつてゐる時代に「ちゃんと生きる」ことは、「ちゃんと」がその正否はともかく明確にあつた時代よりも難しい。
 万城目学の視線が柔らかく直線的でないのは、さういふ難しさを知つてゐるからだらう。
 「八月の敗者になってしまった」で始まるこの小説は、単なる「それでもちゃんと生きろよ」といふ激励でも、かと言つて「ちゃんと生きるなんて難しいよ」といふ諦めでもない。
 明日、最後の試合があることを思ひ出させて終はるこの小説は、問ひを投げかけていくだけで十分だといふ現代小説の断念を示してゐるのだらうと考へた。事実、私も万城目ワールドを楽しみながら、上に引用した言葉を心に留めた。
 いい小説だつた。

 


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岡山に遊ぶ

2024年03月30日 09時08分16秒 | 評論・評伝
 先日、春休みを使つて岡山に遊んできた。


 初めて訪れた岡山は晴天に恵まれ、楽しい旅となつた。
 一日目は、岡山城と後楽園とを歩く。外国人の多さに驚いた。地方都市もすでに世界的な観光地になつてゐたといふことだ。平日に訪れるのはむしろ外国人の方が多いのかもしれない。
 ここの城主は宇喜多秀家、小早川秀家、池田光政と変はつたが、いづれも著名な大名たちである。西国に睨みを利かすそれなりの人物でなければ治められなかつたといふことだらう。戦国の山城から、平野に城を構えた先駆けであつたといふことも、時代の変化を鋭敏に捉へた証である。ただそれだけに目の前に流れる旭川の氾濫を受け、治水には苦労もしてゐたやうだ。現在の城は近代建築になつてゐるが、外形は当時のもの。形状の異形は旭川の蛇行によるらしい。かつては相当の暴れ川だつたといふことだらう。
 池田家は、途中から養子を迎へて家を守つてきたことにも驚いた。島津家や徳川慶喜からも養子を迎へてをり、岡山といふ地理が近代日本にとつて要所であることがうかがはれた。無知を承知で言へば、熊沢蕃山が当地で仕へてゐたこと。しかし、陽明学者の彼が幕府の公式学問である朱子学とは相容れないために当地を追はれたこと(家に戻つて調べると、娘の載は藩士池田武憲の妻に迎へられてゐた)、などを知つた。
 また、以前から岡山大学医学部の臨床医療の高さを聞いてゐたし、中四国では唯一私立医科大学(川崎医科大学)がある岡山の医療の質については、この池田家の治世による藩医の充実が背景にあるといふことも気づかされた。現代が歴史に支へられてゐる、そんな感慨を抱いた。




 翌日は、倉敷の大原美術館を訪ねた。美観地区まで歩いて行けるといふことも知らずにバスに乗らうとしたが、歩いて十分に行けるところだつた。ウェブサイトで調べた大原美術館にはさして惹かれるものはないと高をくくつてゐたが、それは気持ちよいほど裏切られる結果となつた。今、大阪で開かれるてゐるモネ展だが、ここにあるのはわざわざ大原美術館に収めるために描かれた睡蓮であると言ふ。モネ自身が影響を受けた日本に収める絵には格別の思ひがあつたやうで、時間をかけて入念に描かれた一枚である。これを見るだけでも価値はある。それ以外にもエル・グレコの「受胎告知」もゴーギャンの「かぐはしき大地」もルオーの「道化師」もポロックの「カットアウト」もあり、それらはどれも超一級品である。が、私にはそれらよりも児島虎次郎の「里の水車」がいちばんだつた。水車小屋で上半身がはだけ、乳を飲ませ終はつた母親とその胸の前ですやすやと眠る赤子、その斜め前には少し年の離れた娘が何かを見つめてゐる。薄暗い部屋に入口から光が差し込んでゐる。1906年の作品だと言ふ。しかし、その光は今見てゐるやうであつた。この一枚に出会つて幸福感に満たされた。一枚の絵の力に魅了された。
 そして、思ひもよらぬ出会ひがもう一つ。それは東洋館に甲骨文字が展示されてゐたこと。骨に象形文字が刻み込まれ、ひび割れを基に占ひをしたあとが残されてゐるのを初めて見た。このこともウェブサイトには全く書かれてゐなかつた。下から字を読むといふのはこれまで知つてゐたことと異なつてゐたが、それも気になり調べてみようと思ふ。東洋の文字の表記法が縦書きであるのはここから来てゐるだけに、気になつた。
 満喫の大原美術館であつた。

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造形藝術の永遠性とは何かー2024年度 京都大学入試現代国語の文章

2024年03月29日 09時18分33秒 | 評論・評伝
 2024年度京都大学入試現代国語に出題された文章は、次の通り。

大問1(文理共通) 奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を――文学を探しにロシアに行く』
大問2(文系) 高村光太郎「永遠の感覚」
     (理系) 石原純『永遠への理想』

 大問1と今年度の東京大学の文科類に出題された文章との共通点については前回述べた。それは偶然の一致であるので、「奇跡」と評したが、京都大学大問2の共通性については意図したものであるので、「奇跡」ではない。もちろん、同じ主題で全く異なる筆者の文章を探し当てるといふのは、たいへんな労苦であるし、素晴らしいと思ふ。しかも、その主題が「造形芸術における永遠性」といふものであつてみれば、それは見事といふほかはない。18歳(あるいはそれ以上)の青年に、このやうな主題をぶつけるといふことは、さすが京都大学と思はせた。やはり、一味違ふ。
 日常において見たり聞いたりしてゐるものにたいして、その自明性を疑はせるといふことは、学問の、あるいは教養のたいへん大切な行為である。
 出だしの一文を引く。

 文系 芸術上でわれわれが常に思考する永遠といふ観念は何であらう。
 理系 成形美術においてはこれを表現するに当たりて種々の実在の自然物を用います。

 つまり、かういふことだ。実在の自然物を使つて表現される成形藝術(いはゆる造形藝術のこと。彫刻や絵画や塑像・陶藝など)は、時間と共に朽ちたり壊れたりしてしまふ。その点、音楽や文学は、逆に楽譜や手書きの文字に意味があるといふより、その再現性にこそ価値がある。では、成形藝術には永遠性がないのか、といふ疑問である。
 高村光太郎は、詩人であり彫刻家である。石原純は、物理学者であり歌人でもある。
 高村は、その永遠性を「不滅を感じせしめる力」と断じ、「無の時間に於ける無限持続の感覚」と定義する。「明日焼き棄てられる事の決定してゐる作品にもわれわれは永遠を感じることが出来る」。「美は常に或る原型へと人を誘導する性質を持つてゐる」。
 石原は、「藝術がその本質的価値を永遠に保存するためには、科学の共助を待つことを必要とする」とし、科学を疎んずることがないやうにと述べてゐる。「科学が十分に発達したとするならば」といふ条件をつけつつ、「藝術は永遠のものでなければならない」との思ひと、そのれを実現するのは科学であるとの科学者としての自負が記されてゐる。
 二つの文章を是非今後京都大学を受ける人には薦めたい。今後京都大学の標準問題として残つていくものだと思つてゐる。
 

 
 



 
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造形藝術の永遠性とは何かー2024年度 京都大学入試現代国語の文章

2024年03月29日 09時18分33秒 | 評論・評伝
 2024年度京都大学入試現代国語に出題された文章は、次の通り。

大問1(文理共通) 奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を――文学を探しにロシアに行く』
大問2(文系) 高村光太郎「永遠の感覚」
     (理系) 石原純『永遠への理想』

 大問1と今年度の東京大学の文科類に出題された文章との共通点については前回述べた。それは偶然の一致であるので、「奇跡」と評したが、京都大学大問2の共通性については意図したものであるので、「奇跡」ではない。もちろん、同じ主題で全く異なる筆者の文章を探し当てるといふのは、たいへんな労苦であるし、素晴らしいと思ふ。しかも、その主題が「造形芸術における永遠性」といふものであつてみれば、それは見事といふほかはない。18歳(あるいはそれ以上)の青年に、このやうな主題をぶつけるといふことは、さすが京都大学と思はせた。やはり、一味違ふ。
 日常において見たり聞いたりしてゐるものにたいして、その自明性を疑はせるといふことは、学問の、あるいは教養のたいへん大切な行為である。
 出だしの一文を引く。

 文系 芸術上でわれわれが常に思考する永遠といふ観念は何であらう。
 理系 成形美術においてはこれを表現するに当たりて種々の実在の自然物を用います。

 つまり、かういふことだ。実在の自然物を使つて表現される成形藝術(いはゆる造形藝術のこと。彫刻や絵画や塑像・陶藝など)は、時間と共に朽ちたり壊れたりしてしまふ。その点、音楽や文学は、逆に楽譜や手書きの文字に意味があるといふより、その再現性にこそ価値がある。では、成形藝術には永遠性がないのか、といふ疑問である。
 高村光太郎は、詩人であり彫刻家である。石原純は、物理学者であり歌人でもある。
 高村は、その永遠性を「不滅を感じせしめる力」と断じ、「無の時間に於ける無限持続の感覚」と定義する。「明日焼き棄てられる事の決定してゐる作品にもわれわれは永遠を感じることが出来る」。「美は常に或る原型へと人を誘導する性質を持つてゐる」。
 石原は、「藝術がその本質的価値を永遠に保存するためには、科学の共助を待つことを必要とする」とし、科学を疎んずることがないやうにと述べてゐる。「科学が十分に発達したとするならば」といふ条件をつけつつ、「藝術は永遠のものでなければならない」との思ひと、それを実現するのは科学であるとの科学者としての自負が記されてゐる。
 二つの文章を是非今後京都大学を受ける人には薦めたい。今後京都大学の標準問題として残つていくものだと思つてゐる。
 

 
 



 
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