言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

2023年 京都大学の国語入試問題は福田恆存

2023年02月26日 10時54分40秒 | 評論・評伝
今年の京大の現代文の1番は、福田恆存の『藝術とはなにか』からの出題だつた。試験が終はつた直後の昼休みに「先生、見ますか?」と受験生に言はれたが、試験は振り返つちやダメだと常日頃言つてゐた手前、「やめとく」と伝へて話題を切り替へたが、内心は見たくてたまらなかつた。
 そして、今朝やうやく予備校のウェブサイトで確かめた。
 なんと福田先生の文章だつた。昨日それを知つてしまつたら思はず解説してしまつてゐたかもしれないので、見ないことにして正解だつた。

 さて、文章に引かれた傍線部は次の通り。

(1)ドラマは《為されるもの》であります
(2)この呼吸は映画では不可能です
(3)そのくらいなら、見せられるより見せる側にまわったほうがよっぽどおもしろい
(4)教養とはそういう自我の堆積にほかなりません
(5)現代では、藝術の創造や鑑賞のいとなみにおいてさえ、だれもかれも孤独におちいっている

(4)だけが文系に出された問題で、なるほどこれは文系には答へて欲しい。「自我の堆積」をどう説明するか、生徒の答案を見てみたい。

 かういふ文章を受験生に読ませて2日間の入学試験を始める。いいですね。京大さん、粋です。

 受験とはまさに孤独な闘ひの場だけれども、それを受け身でとらへるのではなく、主体的に演じるといふ意識の転換をすることで人生に手応へを感じて欲しいとのメッセージであらうか。

 二日目も間もなく開始。
 受験生諸君、演じてみよう!
 
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時事評論石川 2023年2月20日(第825/826)号

2023年02月22日 10時18分47秒 | 評論・評伝
今号の紹介です。
 今年最初の号。
 一年間といふ月日が、これほど変化をもたらした年といふのも珍しいことを感じる紙面構成である。昨年のまさに今、ウクライナへの侵略が始まつた。昨年の今頃は防衛予算の拡大についてなど政治的なタブーであつた。そして何より安倍首相が暗殺されることなど意想外中の意想外であつた。そして、それに伴つて宗教が社会の大ごとになつたのも何を言つてゐるのか分からない出来事であつた。
 しかし、である。
 世の中は変はつてゐない。今朝のテレビはパンダの移送が話題のほとんどであつた。上野のシャンシャン、和歌山のエイメイ、確かにそれは時の話題ではあらう。しかし、これだけか。人々の熱意の方向が私には分からない。
 大事な変化は大きすぎて見えない。
 今更ながらそれを感じる。
「ユダ」の時代の到来を二面に掲載していただいた。左翼はゐる。ただし、その性格が変はつた。私の書きたかつたことはそれだけである。久しぶりに、河上徹太郎や小林秀雄の文章を読んだ。いやもう彼らの言葉にしか関心がいかない。そして、同時に今はアランを読んでゐる。
 左翼弁護士やら、左翼政治家やら、左翼コメンテーターやら、そんな輩が跋扈してゐる時代にあつて、精神の清浄をするにはさうした真実の批評家の言葉を必要とする。

 どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。  1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)
            ●   
まだ続くのか増税原理主義、岸田政権
 バイデンとの組み合わせは自由主義圏には危うい
    福井県立大学教授 島田洋一
            ●
コラム 北潮(儒教理解の浅薄さから来る田辺元の評価の誤り)
            ●
「左翼」は死んだか
  民主主義が生んだ「ユダ」
    文藝評論家 前田 嘉則
            ●
教育隨想  旧宮家の皇籍復帰――国民世論の後押しが必要(勝)
             ●
専守防衛の悲劇
  ウクライナ機器が突きつける日本の課題
    元航空自衛隊和島分屯基地司令、㈶合気会国際部 神谷 正一
            ●
コラム 眼光
   「可哀想な被害者」という錯誤(慶)
        
            ●
コラム
  家庭内の掬い難い問題(紫)
  虚しき「科学的根拠」(石壁)
  「コスパ」「タイパ」の貧しさ(星)
  「専守防衛」といふ軛(梓弓)
           
  ● 問ひ合せ     電   話 076-264-1119    ファックス   076-231-7009
   北国銀行金沢市役所普235247
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怒りの鎮め方

2023年02月13日 17時41分43秒 | 評論・評伝
 正しきことと良きことの区別ができない人がゐる。
 正しきことがいつでも良きことかどうか、一度考へるべきである。
 子供が何か過ちをした。
 それを叱る。それは正しきことである。
 しかし、叱つたからと言つて直ちに子供が良き子になるわけではない。だから、時間の猶予を与へなければならない。
 その時に、以前に輪をかけて叱り、怒鳴り、圧力をかけても、つまりは正しきことを幾重にも重ねても、それは良きことにはならない。裏木戸の戸を開けておけと古くから言はれるやうに、正しきことで子を追ひ込むことは良きことではない。むしろ悪しきことである。
 良きこと悪しきこと、正しきことと過つこと。かうした区別が大切である。

 これとは直接に関係ないが、アランは次のやうに書いてゐる。
「ひどく腹を立ててゐる人間は、ひどく感動的な、いきいきと照らしだされた悲劇を、みづから自分自身に向かつて演じてゐるわけである。その悲劇のなかで、かれは、自分の敵のあらゆるあやまち、自分の敵の悪だくみ、下準備、侮蔑、将来の計画などを、心にえがいてゐるのである。いつさいが怒りによつて解釈され、そのためますます怒りが増大する。復讐の三女神フリコスを描いて、自分でこわがる絵かきのやうなものだ。ささいな原因のせいであつたのに、その原因が心臓と筋肉の激しい動揺が加はつたばかりにますます大きくなつて、ついには怒りがしばしば嵐のやうな猛烈なものになつてしまふのは、かういふしくみによつてである。しかし、およそかうした興奮を鎮める方法は、けつして歴史家の立場でものを考へて、自分が受けた侮蔑や苦情、権利要求などを検討することにあるのでないことは、明らかである。さういつたものはすべて、精神錯乱の場合と同じく、虚偽の光に照らし出されたものだからである。この場合にもまた必要なのは、反省によつて情念の雄弁を見抜き、それを信じることを拒絶することである。「あのうそつぱちの友人は、相変はらずおれを軽蔑した」などと言はずに、「この興奮状態では、おれは正しくものを見ることも、判断することもできない。おれは自分に向かつて大見得を切る悲劇役者にすぎない」と言ふことだ。さうすれば、劇場には観客がゐないので照明が消される。そして、みごとな舞台装置もなぐり書きにすぎなくなるだらう。これこそ、現実的な知恵であり、不正の詩にうちかつ現実的な武器である。ところがなんと悲しむべきことに、わたしたちは、妄想のなかに身をおいて自分の不幸を他人にあたへることしか知らないその場かぎりのモラリストたちによつて、助言をうけ、指導されてゐるのである。」『幸福論 56』
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やれやれと思ひ深々早や節分

2023年02月03日 12時56分20秒 | 評論・評伝
 受験生を抱へた身に去来する思ひそのまま。それは同時にこちらの老化でもある。昔は違つてゐたよな。
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