元首相の痛恨の死を国を挙げて弔ふことに反対する人がゐる。
私にはその理由が全く分からない。
しかし、式は厳粛に行はれた。これが輿論である。
弔意に刃を向ける人は恥を知るべし。
元首相の痛恨の死を国を挙げて弔ふことに反対する人がゐる。
私にはその理由が全く分からない。
しかし、式は厳粛に行はれた。これが輿論である。
弔意に刃を向ける人は恥を知るべし。
胃腸炎による発熱で、ここのところ伏せつてゐる。病院に行けばコロナを疑はれ、検査に待たされ、陰性が分かつて診察をしてもらつた。詳しく調べたいなら大きな病院へと言はれたが、それはさうでせうが、何となく腑に落ちない。血液検査だけしておきませうと言はれたが、結局何も分からないのだらう。抗生剤と整腸剤を処方してもらつたがここからが傑作。薬局には直接行かず車で待てとのことであつた。陰性なのにである。薬局の人から携帯に連絡があつたので、その理由を伺ふとコロナの検査をした人は一様に局内に入れないとのこと。それを少しだけ腐すと返答に窮してゐた。医療従事者自身が、検査を信じず、科学的根拠のない気分で動いてゐるのである。こんなことは、この地域のこの病院だけで行はれてゐる醜態と思ひたいが多分違ふだらう。
国葬儀に法律的根拠がないことを咎(とが)める風が今マスコミや世間を覆つてゐるが、コロナ禍の対応でのこの根拠なき対応には咎める風は見られない。日本社会のをかしなところはかういふところに表れてゐる。
かういふ日本にほとほと嫌気が差すのである。
今号の紹介です。
久しぶりに投稿した。あまりの日本の現状の悲惨さに打ちひしがれてゐたところで、中澤編集長から何でもいいから書いてくれと言はれ、思ひのたけを書いたのが本稿である。「日本は病んでゐる」この言葉に尽きる。本来の姿ではないと思ひたい。けれどそれは無理なのかもしれない。宿痾と書けば難しいので、持病と書いた。日本人の持病が顕在化してゐる。どんどんその持病は悪化してゐる。しかも、そのことに気づいてゐる気配はない。むしろ、「悪化を食ひ止める運動」=「正常化運動」の旗手として先頭を切つてゐる輩こそが、持病の象徴になつてゐる。そして彼らに信を置いてゐる大衆。彼らは傾向として全体主義に親和性が強い。個の独立を遠ざけ、日本の独立を阻止しようとする。その主張は我が国の周辺に存在する全体主義国家を利することに通じてゐる。そのことを大衆は見ない。これは病と言はずして何であらうか。
お上に依存し、「諸国民の平和」に期待する。それは怠惰以外の何物でもない。そのことに気づいてゐない。これは病である。
病を病であると認識できないのを認知症といふのであれば、もはや認知症なのである。それは真直ぐ死に通じてゐる。死への恐怖さへ失ふほどの認知症になれば、それは幸せといふことなのだらう。
安倍元首相の国葬儀に反対するためのデモに気炎を上げてゐる人人は、死出の旅を楽しんでゐるのであらう。人を呪はば穴二つ。さういふ諺が彼らのかざすプラカードには書かれてゐるやうに私には見える。
どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。 1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)
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最高指揮官としての自覚なき岸田首相
これでは核恫喝に対抗できぬ
福井県立大学教授 島田洋一
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コラム 北潮(ロシアについて)
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岸田政権では日本は持たぬ
政治家たる者、「暴力」を是認せよ
コラムニスト 吉田好克
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教育隨想 安倍元首相の国葬を機に、考へたいこと(勝)
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日本人といふ病 大悪招く怠惰な習性
文藝評論家 前田嘉則
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コラム 眼光
『踏み絵の愚かなる光景』(慶)
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コラム
不沈空母の役割だけでなく(紫)
リスクを冒さないことが最大のリスク(石壁)
変はれない日本人(星)
陰謀論は何のためか(梓弓)
● 問ひ合せ 電 話 076-264-1119 ファックス 076-231-7009
北国銀行金沢市役所普235247
発行所 北潮社
まさに今、何をおいても読むべき本である。さう思ふ。
空気が支配してゐる。しかも、それは空気であるがゆゑに次々に変化していく。そして、空気が入れ替はつたことに何の疑問も持たず、むしろ空気であるがゆゑに「生きていくために必要なもの」として進んで次の空気を受け入れていく。
あの内村鑑三でさへ、不敬事件を起こして天皇主権の明治国家にあつて神への信仰を貫いたあの内村鑑三さへ、山本によれば晩年には妥協してゐたと言ふ。(『現人神の創作者たち』)
さういふ日本の空気に闘ひを挑み、死んでいつたのが山本七平である、といふのが東谷氏の見立てである。私は、まだまだ山本の作品群を読んでゐる途中であるので断言はできないが、たぶんさうだらうといふ思ひが強い。こんな文章を読むと、その思ひは強くなる。
「私は、日本人が宗教的に寛容だという人に、この例を話す。これはどうみても寛容ではなく、ある『一点』に触れた場合には、おそるべき不寛容を示し、その人の人権も法的・基本的権利も、一切無視して当然だとするのである。」『空気の研究』
振り返つてみれば、「踏絵」の歴史も私たちのものであるし、大正時代の大本教事件も私たちの歴史である。「ある『一点』」とは何か。それが「空気」である。
本書の最後に、東谷氏はこれまでの「空気」を列挙する。バブル経済、選挙制度改革、安全保障政策の無作為、アメリカ的コーポレートガバナンス、社外取締役制度、創造的会計、構造改革、コンクリートから人へ、再生エネルギーへの転換、緊縮財政と財政出動、生前退位などなど。これらは、何ら合理的、法的に整理され考へられた結果ではない。時の空気をすくひあげた「空体語」である。
組織を作り上げる原理=忠が、家族的なコミュニティの原理=孝によつて浸食されるから、その発言や方針が誰が語つたのかといふことに重きが置かれてしまふ。すべて擬制的家族主義が支配してゐるのである。
これらはさうやすやすと解決できる課題ではないだらう。しかし、そのことに気付かないと困る。そんな時代状況である。