言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

時事評論 平成30年2月号

2018年02月26日 15時13分53秒 | 告知
「時事評論石川」2月号のお知らせ。

 今月号の巻頭は、拙論です。 どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。謝罪を公表する意味も考へられずに何でも「謝れ」の大合唱は、見てゐて「厭な感じ」がするものです。犯罪は日々起きます。しかし、それを裁くのは司法だ。テレビを使つて国民に謝らせるのは、それを国民が求めてゐるからであらう。まさに公衆リンチである。
 特別目新しい論点でもないが、整理をしてみたものです。

 「この世が舞台」は徳富蘆花の『黒潮』の評。幸田露伴の『一國の首都』と共に、時勢に流されず人の生き方として「真面目」に生きる男の姿が胸を刺す。長い物に巻かれていい加減に生きてしまつてはゐないか、さういふ反省を迫る。幸田文は、その父の生き方を切ない思ひで随筆に記してゐるが、さういふ侍の生き方を私自身もまた夢想するやうな思ひでしか語れない。何かが欠落してゐるのである。言葉の調子、声の質、言葉の選び方、軽佻浮薄の申し子である。

 1部200圓、年間では2000圓です。
(いちばん下に、問合はせ先があります。)

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 謝罪会見を求める心理

 ゴシップ好きの私怨晴らし  文藝評論家  前田嘉則  

   ☆    ☆    ☆

 反時代の英雄 西郷隆盛その栄光と悲劇

        評論家 三浦小太郎

 NHKの大河ドラマで「西郷どん」が始まつた。悲劇の人物としてその生き方を魅力あるものととらへてゐたが、會津藩の視点で、そして戊辰戦争を支点に明治維新がどう動いていつたのかといふ視点でとらへると、明治の元勲たちの存在はこれまでとは違つてとらへるべきといふやうに私の見方も変はつてきたなかで、西郷隆盛といふ存在を改めて考へる一年にしていかうと思ふ。
 その意味で、三浦さんのこの論考、たいへん有意義なものであつた。



            ●

衆院選を振り返る『甘やかされた子供たち』

        宮崎大学准教授 吉田好克

 (枝野、細野、若狭、小池、かういふ御仁の主張が主張になつてゐない。はないちもんめの掛け合ひでしかないやうな言葉を見てゐてほんたうに情けなくなる。この間の動きはなんだつたのか、とても整理された。)
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教育隨想

 「教育無償化」の代償(勝)

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「この世が舞台」

 『黒潮』徳富蘆花

      早稲田大学元教授 留守晴夫

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コラム

  日本にやって来る人たち(紫)

  未来の運転免許(石壁)

  厭な感じ(星)

  政府の嘘は國を滅ぼす(騎士)

    (三度、政治と道徳を論じてゐる。政治を道徳で論じること自体が問題だ、といふのが師の松原正は仰つてゐたのではないのでせうか。シーザーを神が裁くのか。)

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問ひ合せ

電話076-264-1119
ファックス 076-231-7009
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「自由と自由主義」を読む

2018年02月21日 16時29分09秒 | 日記
河合栄治郎全集〈第2〉トーマス・ヒル・グリーンの思想体系 (1958年) (現代教養文庫)
河合 栄治郎
社会思想研究会出版部



 矢内原の続き。
 ここのところは、自由論が続いてゐる。中でも中心をなすのはこの「自由と自由主義」である。河合栄治郎の二つの論文「トーマス・ヒル・グリーンの自由論」「自由主義」を取り上げて、その自由概念の混乱を論じてゐる。
 河合は、日本にグリーンを紹介した中心人物であるらしく、「熱心なるグリーンの祖述者」であると矢内原は書いてゐる。しかし、河合のグリーン論は、グリーン読みのグリーン知らずのごとくであつて、グリーンが自由において大事にしてゐるものは河合にない。矢内原に言はせれば、「河合の『自由主義』論に横溢せる文字は『個人』『自我』『自己』『自己の満足』『自我満足の原理』である」。これでは、全然「自由」ではない。執着であり、保身であり、エゴイズムである。
 矢内原は、「自由は人の内的生活(心霊)及び外的生活(社会)に関する。前者は道徳的自由にして、後者は社会的自由である。」と見る。

 自由とは、自己を超えようとすることであつて、道徳的である、社会的であるに関はらず、自己の拡張に益するものは自由主義であつて、「自由主義は個人主義であり、個人の利益中心主義」である。主義になつてしまへば、それはむしろ害である。

 昭和4年6月に書かれてゐる。1929年、今から89年前である。驚くべきは、ここから一歩も私たちが成長してゐないといふことである。
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『結論は出さなくていい』は現実だけにして

2018年02月16日 22時14分19秒 | 日記

結論は出さなくていい (光文社新書)
丸山俊一
光文社


 NHKのプロデューサーで「ニッポンのジレンマ」など人気番組を担当してきた丸山俊一氏の著書。本屋でそのタイトルに惹かれて購入したが、これほど「結論のない」本が出版されるといふのもすごいことだと思つた。

 終りの方で著者自身がかう書いてゐる。

「開き直るわけではないが、この一見脈絡ない運動性こそが、ひとつの思考の方法なのであり、安易には消費されない免疫力を持つ哲学にもなりうるのではないかと、いまいちど『詭弁』を展開しておこう。この脳内のニューラルネットワークのような『想定外』のつながりの豊かさは、映像を通して想像力を喚起されながら考えることの醍醐味に似ている。」


 「この運動性」といふのが、本書の文章の書き方である。今まで読んで来て影響を受けたり、考へるきつかけを与へられたりした本の引用がちりばめられてゐる。それらの多くは現代思想であり、なるほど1962年生まれだから、ニューアカデミズム全盛期、社会科学も人文科学もマルクス主義の亡霊から少しづつ離れ始めた頃で、今となつてはそれらもまた亡霊にすぎなかつたのであるが、それでもいろいろな知識人が旺盛に発言してゐた。さういふ時代の中で、読んできたものを並べ、それについての感想を書き記してゐる。しかし、だれ一人としてこの著者の精神や思想の核となるものはなかつた。だからすべてはパッチワークである。
 なるほど「ジレンマ」をテーマに番組が作れる訳だ。同じ時代にあつても、思想を丁寧に形作らうとした思想家はゐたのであつて、今私が読んでゐる矢内原忠雄や、福田恆存、山崎正和、それから井筒俊彦だつてゐる。初めから結論を出さなくていいといふ構へではなく、結論めいたものがあるはずだとして、ベールを一枚一枚剥がしていくやうな学問の進め方を実践する思想家を読んでゐたら、もう少し違つたスタイルになつたのではないかと思はれる。

 その結果、結論が出なかつたといふのであればいい。むしろ、それが自然である。しかし、結論は出さなくていいといふスタイルで始めれば、結論に出会つた時に、それを拒否したり見過ごしたりしてしまふのであらう。結論を前にしてその結論に結論でないと言明するといふのは、ジレンマであるが、それはもはや自家中毒である。思想の未熟であらう。
 かういふカタログのやうなものではなく、もう少し丁寧な思想的探求を期待してゐた。

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理性と知識とを信仰する近代人

2018年02月14日 14時07分39秒 | 日記
 矢内原忠雄を読んでゐる。

 今日は、「人口問題と聖書」である。経済学者である矢内原は、当然ながら産業化によつて人口が増えていく近代社会の人口問題を考へていく。マルサスの『人口論』、ゴッドウィンの『政治的正義』、ブハーリンの『歴史的唯物論』を俎上に載せて論究してゐる。私にはあまり理解ができない事柄も多く、ただ頁を繰るだけといふところもあつたが、批判の中心は「自ら人間の理性と知識とを信仰する」だけの彼らが、どうして完全にこの世界を正確に理解できるのかといふ疑問である。そして、理性と知識だけを頼りに、どうして人類社会の完成可能を説くのかに疑問を呈するのである。
 ペテロ第二の手紙にある「自分が知りもしないことを議(はか)る」を引用しながら、さうした彼らを楽天家と記し、そのお気楽さを論ふのである。

 科学者は、神を否定する。しかし、神は科学を否定しない。このことが意味することは明らかであらう。科学の立場は、理性と知識を信仰してゐる立場であり、それはかつては真理に至る道であつたかもしれないが、今はもう「かつてのやり方」でしかないといふことを知るべきだ。

 この辺りは、下記の書が詳しい。

科学哲学への招待 (ちくま学芸文庫)
野家 啓一
筑摩書房
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機械こそ、画一的に物をつくるのが難しい。

2018年02月13日 21時49分27秒 | 日記
 車の調子がおかしくて、ここのところディーラーに行く機会が多い。
 どこから出てゐるか分からない異音が出るのだ。
 運転席のドア辺りから音がするので、それを見てもらひ、「確かにしますね」といふことで、修理する。すると後ろの方からも音がするので、また別の機会に行くと、「なるほどしますね」といふことで、部品が届くのが二週間かかるので、その頃にまた来てくださいとのこと。三時間ほどかかつて修理するが、帰りの車中で今度は助手席側の方から音がした。また連絡して、「ではまた来てください。見ますから。」といふので、翌週行くと、ちよつと同乗して運転してみてください、といふので走つてみる。「確かにしますね」といふので、部品を取り寄せるのに二週間かかるので、また予約をしてくださいとのこと。すると今度はダッシュボードから今度はこれまでとは全く違ふカタカタといふプラスチックが当たつてゐるやうな音がした。しかし、この音は私が住んでゐる市内の道路では音がするが、ディーラーがある場所の道路では決して鳴らないのである。何だか嘘みたいな話だが、本当である。助手席側の修理をしてもらつた折も、同乗して確かめてもらつたが、「しませんね」といふので保留になつた。しかし、帰りの車中にはそのカタカタが響いた。
 やつてられねえな、そんな思ひである。

 そんなことがあつて、ある工学博士にお会ひした折に、「機械といふのはどうして同じ個体を作れないのでせうか」といふ話をすると、「それは前田さん、考へが逆ですよ」と即答された。「機械だから同じ個体を作ることが難しいのです。」機械は制御といふものを通じて辛うじて同一の作業を維持できるのださうだ。だから、品質管理といふことが問題になるのだと言ふ。

 目から鱗が落ちるやうな話だつた。

 近代化は、産業化でもあり、同時に機械化でもある。画一化といふことが、評論では近代の弊害として言はれることが多いが、何のことはない。機械では画一的なものは出来ないのであつた。だから、言葉を正確に使へば、近代化とは、制御化のことであり、制御された機械によつて生産が管理されるといふことである。それは制御された機械化といふことである。

 たいへんに勉強になつた。

 しかし、我が家の車は今も音を立ててゐる。辛い、高い買ひ物だつたのに。
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