言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

物を捨てるといふこと。

2018年11月05日 15時48分02秒 | 日記

 大阪の家を引越し、人生で初めて「以前よりも小さい家」に移つた。職場の移動を契機に、増え続ける本のために書棚を置けるスペースを確保できるやうな家を探して来た。もちろん、ほとんどは読んでゐない本である。物欲も絡んでゐるだらう。好きな作家は全集を揃へるといふ読書スタイルも絡んでゐるかもしれない。となれば、本はとめどなく増えていく。

 しかし、最近は「もうこのあたりで今ある本を読むことに専念しよう」といふ意識が強くなつてきた。それで小さな家に引越すことを契機に、本を処分することにした(家の大きさで本の量を決めるといふのは以前と同じであるが、今度は逆向き)。

 それには時間がかかる。夏休みに6箱処分したが、今回の引越しでは更に15箱ほど処分することになつた。選別に時間がかかるから、まだダンボールの中にある。したがつて、部屋の半分はダンボール箱に占められてゐる。冬休みにできるかどうか、今から心配だ。たぶん、来年の夏休みになるだらうか。

 そして、今ゐる愛知の家の本も処分する気になつた。どちらかと言へば大事な本はこちらに持つて来てゐるから、処分にはより時間がかかる。昨日から「大掃除」を始めたが、2箱処分するのに一日かかつてしまつた。それでも床に置いてあつた本を書棚に戻せたので、少し気持ちが楽になつた。

 さうさう、この気持ちが楽になるといふのがこの「掃除」にとつて一番の効用である。背負つてゐた荷物を降ろしたかのやうな爽快感がある(ところが皮肉なことに作業中に背中の筋を傷めてしまひ、くしゃみができない。これは困つた)。

 処分するには、軽く本に目を通して吟味する。「これはもう読まないな」といふ本よりも、「これは今後も読まないな」といふ本ばかり処分することになる。やはり私の書棚は読んでない本ばかりといふことである。

 私の書くものは、ほとんど「述而不作」である。「述べて作らず」とは『論語』の言葉であるが、過去のものを祖述することが主で、自分のオリジナルなものなどないといふ意味である。

 最近は、あまり福田恆存論を書かなくなつたが(あえて書かないことを自分に課してゐるのですが)、以前はよく書いてゐたので「お前の書くことは、福田を礼賛するばかりで新しい視点を出してゐない」といふ批判を受けた。それに対して「私ができることは祖述だけです」と応へることにしてゐた。そして、今もその通りだと思つてゐる。福田以上のことを言へるはずもない。ただ、福田を正確に読んでゐない人が「福田は保守主義者だ」と言つてゐるのを見ると(最近でも呉知英氏が言つてゐた)、違ふのになと思ひ、福田はかう言つてゐるよといふ思ひで引用するといふことである。

 あるいは、福田が言ふ「絶対者の役割」といふことでも、「絶対」といふ言葉を単に西洋の精神文化といふ程度で理解して、それが私たちのやうな絶対者のゐない国の人にとつては理解できないものといふ解釈にとどまつてゐるのを見ると、「おいおい、絶対者といふのは、その人がそれを認めようが認めまいがそれとは関係なく関はりをもたらす存在のことを言ふのだよ」と言ひたくなつてしまふ。それもまた祖述である。私のオリジナルなことではない。

 福田のやうな思想家が出て来たあとのしばらくは、できることはせいぜいその程度であらう。もちろん、俺は福田を超えた、あるいは福田なんか大した思想家ではないと思つてゐる人は、さう思ふが故の主張をすればよい。私にはそれができませんと言つてゐるだけである。

 これからも大思想家たちの祖述をしていくばかりである。そのために必要な書物を読んでいく。「必要な書物」とは何かをめぐつて、本の量をぐんと減らしていければいいなといふのが、今の願ひである。

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樹木希林さん、さやうなら。

2018年09月17日 21時03分17秒 | 日記

 現代人が「演戯」と接する場面は、テレビ、映画、演劇であるが、その中で圧倒的に多くの数を占めるのは、テレビと映画である。となれば、その中で演じる人=俳優の水準が私たちの国の演戯の水準である。さうであれば、さらに言ふと、その中でも名優といふ人がゐなくなれば、私たちの国の演劇の水準も怪しくなるといふことである。

 その意味で、この樹木希林といふ女優の死が、私にはとてもつらい。

 悲しいし、悔しいし、なぜだか苛立つてもゐるのである。

 この夏も家内に勧められて『海よりもまだ深く』を見た。小説家のやうであるが、嘘はつくし生計も安定せず、一人息子がゐながら離婚したダメな息子をやさしく見つめる祖母の姿は、樹木希林をしてしか表現できないものであつた。ほかの誰かが演じてゐるのでもないから比較してどうかうといふことではない。ただ彼女が演じることではじめて私たちの前に現れた老女の姿なのである。そして、それがいかにも自然なのだ。役者には、憑依型だとか、技能派だとかゐるだらう。しかし、そのいづれでもない。樹木希林がその家族の一員として、その映画の登場人物として自然に現れてくるのである。

 『モリのいる場所』も見た。山崎努と演じることを喜んで、「これでいつ死んでもいい」と語つてゐた。いやいやそんなことを言つてもらつては困る、私はさう思つてゐた。

 悔しいです。

 真の毒舌家だけが持つてゐる覚悟とエスプリとを、誰に遠慮することなく堂々と語れた彼女が私は大好きであつた。

 浅田美代子が、「私にとつて、母であり、姉であり、親友である希林さんが亡くなつて、明日からどうしよう」と涙ぐんでゐたが、その言葉がいちばん響いた。一か月間、病院に通ひ続けたと言ふ。家族以外にさういふ人がゐるといふことだけで、その人がどういふ人かは明らかだ。本当に残念だ。

 

わが母の記
原田眞人
メーカー情報なし
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今日、メガネを作りました。

2018年07月01日 18時43分01秒 | 日記

 二年ぶりにメガネを作りに行つた。日曜日といふこともあつて混んでゐて半日がかりの一大イベントとなつてしまつた。もつとあつさりと済むかと思つてゐただけに驚いた。

 左目の視力がずゐぶんと落ちてゐてこれまた驚いた。右目の方が疲れてゐるからてつきり右目が悪いのかと思つてゐたら、左目だつた。考へてみれば当たり前の話。左目が悪くなつてゐるから、その分を右目がカバーするから右目が疲れる。そんな簡単な理屈も分からない。自分の身体について、それほど無知なのが私である。

 両親は八十を過ぎて白内障の手術を受けた。そこまで生きたくはないが、いづれ白内障もわづらふのであらう。

 左ひざ、左腰、左目、左ばかり悪くなる。これはどういふことか知らん。何かに気付けとの暗示か。

 メガネ屋に半日もゐれば、いろいろな人が来てゐるのが分かる。若い人はだいたい一人で来る。親子連れもゐるが若い人の多くは男の人だつた。老人はだいたい御夫婦である。車で行かないとどこに行くにも遠いこの近辺では、ついでに買ひ物も食事もするのであらう。二人でああでもない、かうでもないと言ひながら店員さんといろいろな話をしてゐる。視力の落ちていく自分たちの姿を受け入れていくのである。一人で来た御婦人が店員とどんなレンズがいいのか恥づかしさうに話してゐた。独り言のやうにも聞こえた。御主人がゐるのなら隣にゐてあげてほしいと思つた。いろいろと想像してみたが、あまり楽しい方向へは連想がいかなかつた。

 私の父にも贔屓にしてゐるメガネ屋があつた。しかし、もう四五年前から行かなくなつた。以前、帰省した折にメガネ屋に行きたいと言つたので車に乗せていくと、店員に無沙汰を告げただけだつた。しかも、懇意にしてゐた店員は転勤になつてそこにはゐなかつた。自動車免許を返納した父には、新しくメガネを作る気もなかつたのだらうが、挨拶に行きたいと思つた父の姿が嬉しかつた。さういふ父を初めて見たからである。

 目の良さには自信があつたが、メガネを欠かせない年齢になつた。これからお世話になり続ける。今日は家内も一緒に作つた。家内は家内で度が進んでゐたやうだつた。

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書いてるソバから

2018年06月26日 21時04分46秒 | 日記

 

これからはあるくのだ (文春文庫)
角田 光代
文藝春秋

 

 昨日、5冊を並行して読んでゐると書いてゐて、「小説を読んでゐないな」といふことを感じた。

 最も最近読んだ小説は何だらうかと思ひ出してもなかなか思ひ出せない。井上靖の『傾ける海』を読みたくて机の横の積読コーナーには置いてゐるけれども。

 ただ今日になつて一編、角田光代の「まなちゃんの道」を読んだ。教科書に全文収録されてゐて、ふと読んだからだ。小学生の頃、圧倒される才能を持つた友人が身近にゐて、自分といふ存在の小ささを実感させられるといふことを回想風に書いた掌編である。とてもいいものだつた。ある種の中学生には、思ひ当たる事柄なのではないか。もつとも自尊感情ばかり強い生徒が中学受験勝ち組には多いから、さういふ連中はまつたく共感はしないだらうけれども。だが、文学はそんな連中は相手にしない。自分の心のひだを一枚一枚剥がすことにもためらふやうなさういふ時期が人生にはあるといふことを知つてゐる者だけが味はへばいい、さう思ふ。

 今日もまた5冊以外の文章を読んでゐる。活字の訪れを無下にはできない。

 

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5冊並行読書

2018年06月25日 21時39分42秒 | 日記
冒険者たち――ガンバと十五ひきの仲間
薮内 正幸
岩波書店
問い続ける教師―教育の哲学×教師の哲学
多賀 一郎,苫野 一徳
学事出版

 私の読書法を書いてみる。

 朝出勤前に、「その本」を5頁読むことにしてゐる。この時間は私にとつてとても大事な時間で、これはもう30年ほど続けてゐる習慣である。

 鞄に2冊。軽い本と重い本。今は、『問い続ける教師』(多賀一郎・苫野一徳/学事出版)と『「私」をつくる』(安藤宏/岩波新書)。

 家の机に2冊。『矢内原忠雄全集』第16巻と『批評の魂』(前田英樹/新潮社)。

 この5冊をときどきに読み続けてゐる。読み終はれば入れ替へる。面白いと思へば、この欄に感想を書く。本当につまらないと思へば、途中でも読むのをやめて入れ替へる。さういふこともときどきある。それでもしばらくしてから読み返すと面白くなるといふこともあるので、捨てたり売つたりはしない。でも、これからはすぐに売りに出さうかとも思ふ。書斎は狭い。

 私は、読むのがたいへんに遅い。それに雑誌やいろいろな印刷物も毎日届くし、何より仕事が文章の読み書きだから、昼間はそんなことばかりしてゐるので、帰宅しての読書がつらい時が多い。この頃思ふのは、朝の時間の読書が最も充実してゐるといふことだ。夜はとても実りが少ない。夕食後は眠い。そして、パソコンを開けばついつい調べ物をしてしまつて紙を読む時間が削られる。読むのがますます遅くなるはずである。

 ただ、この5冊並行読書は続けていかうと思ふ。子どもの頃の一冊を集中して読むといふ幸せな営みができなくなつたからでもある。忘れもしない、小学校6年生の時に『冒険者たち』を読んで友人たちと放課後感想を言ひ合つた(語り合つたといふほどのものではないが)思ひ出は胸熱い記憶としてある。が、もうああいふことは二度とないだらう。

 

「私」をつくる――近代小説の試み (岩波新書)
安藤 宏
岩波書店

 

批評の魂
前田 英樹
新潮社

 

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