言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

松原正氏は、小谷野敦さんを讀んでゐた。

2004年11月30日 08時23分45秒 | 日記・エッセイ・コラム
 小谷野さんの『評論家入門』の續きである。面白さは繼續してゐる。だが、やや穩當さを缺くやうに思へる部分もある。山崎行太郎と大西巨人との論爭についての件は、そんなに批難するほど山崎さんは「キチガイ」であるとは思へない。江藤淳の文章にたいする大西さんの理解は、やはり適切ではなく、正確さが必要であつただらう。つねづね小谷野さんは「意見よりも事實を」といふのであるから、むしろ山崎さんを擁護すべきであると感じた。これでは、山崎さんに何か個人的な感情があるのではないかと思つてしまふ。

 ところで、第6章に松原正氏の『夏目漱石』についてのコメントがあつたのには驚いた。松原氏がなんと小谷野敦さんの『夏目漱石を江戸から讀む』を引用、批判してゐたのである。私も松原氏の本書は讀んだが、その頃は小谷野さんのことを知らずに素通りしてゐたやうだ。小谷野さんがまた松原氏を讀むと言ふのも驚きで、讀書の幅の廣さにこれまた驚いた。
 意氣軒昂、干されても鬪ふ批評家として松原氏を擧げてゐるのは、好感が持てた。

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小谷野敦さんの新著について

2004年11月25日 21時35分20秒 | 本と雑誌
 小谷野敦さんの新著『評論家入門』を讀んでゐる。まだ第一章しか讀んでゐないが、いつもながら文章に勢ひがあつて面白い。いづれまとまつた感想を書かくこともあるかと思ふが、今日のところは、第一章の印象を書く。
 學問との違ひを書いてをられるが、評論が學問でない以上、「學問」へのルサンチマンを書いても仕方ないのではないかと思つた。小林秀雄は、學問研究といふスタイルを嫌つたから評論を書いたのだし、讀者は學問をしたいがために小林を讀んではゐない。
 ここからは私の意見だが、文學においての研究と言ふスタイルはたかだか百年にも滿たないものである。したがつてそれを基準にして文藝評論を考へても仕方ないだらう。小林秀雄の文章は今後百年讀まれても、吉田精一の文章は讀まれないだらう。そして同じく文藝評論を書いてゐても、江藤淳や柄谷行人は讀まれないだらう。

 大事なことは、生き方に感化を與へるかどうかである。
 私は、小谷野さんの書き物にさういふ感化を受けるから好きである。それが眞理であるかどうかとは關係がない。「肝に銘じる」が「肝に命じる」(16頁)と書いてあつても良いのである。それは御愛敬である。

 面白い文章を讀みたいのである。

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福田先生が亡くなつて十年

2004年11月23日 11時17分21秒 | 日記・エッセイ・コラム
 福田恆存先生が亡くなられて十年が經つた。東京での二つの記念會に私は參加しなかつた。どうしても仕事で行けなかつたといふこともあるが、やはり今囘は足が向かなかつた。同じ日に二つの會を催すといふことがどうにもやりきれない思ひがあつたからだ。命日に開催するといふのは分かる。だから、會が重なるといふのも道理だらう。だが、足が向かないといふのも道理である。
 それでといふ譯ではないが、翌二十一日に、奈良櫻井にある先生の歌碑を訪ねた。多くの讀者が御存じだと思ふが、先生の筆になる懷風藻の詩(大津皇子の辭世)と、萬葉集の歌(大津皇子の姉大伯皇女)である。
 御覽になりたい方は、『日本への遺言――福田恆存語録』(文集文庫)の262頁を參照なさつてください。

 寒風の吹く夕方、迷路のやうな道を車で行つた。二年前の正月に初めて訪れたときは、いろいろと探し囘りながら訪ねたが、今囘は順調であつた。拓本をとるために行つたので、2時間程その場にゐた。とにかく寒かつた。
 正直に言へば、先生の歌碑にはそぐはない、貧弱な神社である。あたりには他にも春日神社があるが、たぶん一番みすぼらしいもののやうにも思ふ。近所の人人にも知られてゐないだらう。ここにこんな歌碑があるとは。

 ここに行く前に、中臣鎌足と中大兄皇子とが大化改新の密談をしたといふ謂はれのある、談山神社を訪ねた。1300年前に思ひを寄せて飛鳥の都のことを考へた。先生には「有間皇子」といふ戲曲がある。恥かしい話だが、私はまだ讀んでゐない。關西にゐる内に、讀んでおかうと思ふ。

 拓本をとつた後、すぐ近くにある聖林寺の國寶十一面觀音像を拜觀しに行つた。閉館ぎりぎりの時間で、人はわづかに一組で私と入れ違ひに出て行かれた。靜かに對坐すると、不思議に涙が出る思ひがしてきた。
 御顏の傷が痛痛しく感じられたが、これが歴史を見つめてきた觀音樣の姿にはふさはしいとも思はれたのである。突然、「日本は母親の國なのだ」との思ひが沸いて來た。

 福田恆存先生は、この十年間をどう御覽になつてゐるだらうか。

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言葉の救はれ――宿命の國語6

2004年11月14日 22時46分48秒 | 国語問題
 もちろん、哲學や戰略などといふものは國語を考へる上で必要ない。そもそも國語に哲學や戰略などと言ふ言葉がふさはしくないのである。外國人が日本語は難しいと言つてゐるから(眞面目に勉強をしてゐる人で、さう言つてゐる人を私は見たことがない。單なる怠けものの言ひぐさではないかしらん)やさしくしよう、などといふものが戰略だと思つてゐるのだとしたら、それは日本が不景氣だから、商品券をばら撒かうと言つてゐるのと同じ程度の「戰略」である。それは「何もしてゐない」といふことでしかない。戰略といふ言葉を使ひたいのなら、日本語を變へるのではなく、日本語の文學を教授者が學ぶことであり、日本の文化を知ることである。そして、日本を好きにさせることである。その上で、戰術として教へる技術を磨くことが必要なのである。日本語を變へようなどといふことは、愚の骨頂であつて、文化を破壞することである。
 「こころ」は漢字の「心」と書くのが正式である、したがつて、漱石の作品「こころ」は「心」にすべきだ、といふのはまつたくナンセンスであることは、誰にも分からう。私たちの國語は、そもそもさういふ性質の言語なのである。ひらがな、カタカナ、漢字、それらによつて生み出される多樣性が、私たちの國語の眞骨頂である。上代以來、漢文訓讀を主體とした文體と、假名を主體とした文脈とでは、文字どころか、助動詞まで違つて用ゐられてきた。表記がそのまま表現技法として用ゐられる、私たちの國語の在り方はむしろ賞讚すべきものである。そして、これが文化であり、その言葉によつて私たちが成立つてゐるのである。
 西洋のやうな、アルファベットだけで成立つ言語を「先進的」と考へるから、この種の在り方に疑問を持つのである。外國人の言語學習の便を圖つて國語をいぢるといふのは、それこそ「自殺行爲」ではあるまいか。過去の文學や先人の生き方との關係を、またひとつ斷絶させてしまふことになる。
 「海外で日本語学習をしているひとも数百万。オーストラリアでは、日本語はすでに小学校の教科書にもはいり、学習者人口は四〇万」。かうした外國人の日本語學習の熱を冷まさないやうに、日本語をいぢらうといふのが、加藤氏の本意であらう。が、それは本末顛倒である。「むずかしい日本語」であるがゆゑに、日本語が普及しないのなら、それはそれまでである(もつとも、これまで普及したのは「むずかしい日本語」であつたといふ事實は、どう説明するのかといふ疑問はあるが)。日本語の難しさを越えても日本語を學習したいと思はせることができなかつたのであるなら、致し方ない。それをもつて「日本語の敗北」とするのは、何度も言ふがお門違ひである。魅力を持たせられない、現代の私たちにその科を向けるべきである。
 (加藤氏の論文を掲載した「中央公論」の名誉のために書き添へておくが、その次の頁からは學藝大學の松岡榮志氏の「アルファベットを凌駕し始めた漢字」といふ見識のある文章が掲載されてゐる)。


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石井勲氏逝去

2004年11月07日 17時43分12秒 | 国語学
石井勲氏(日本漢字教育振興協会理事長) が逝去された。
 
 石井勲氏(いしい・いさお=日本漢字教育振興協会理事長)4日、老衰のため死去、85歳。お別れ会は27日午後1時、東京都港区南青山2の33の20、青山葬儀所で。実行委員長は井上文克協会副理事長。喪主は長男、峻(たかし)氏。

 幼児期からの漢字教育を積極的に実践。その指導方法(石井方式)が評価され、平成元年に菊池寛賞を受賞した。

 以上は、産経新聞より転載。石井氏のはじめての著作『私の漢字教室』は、福田恆存の『私の國語教室』にヒントを得たものと、御自分で書かれてゐる。現在では、國語問題協議會の役員をされてゐるはずである。
幼稚園から漢字教育をといふことを一貫して述べられてゐた。國語を愛する人の遺志を受け繼いでゆきたい。



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