だいぶん以前に友人の土井義士さんから、福田恆存と大江健三郎との對談のコピーをいただいた。その話を最初聞いたとき、かなり意外な感じがしたが、讀んでみるとさすがに大江である。權威主義者よろしく福田恆存にすりよるやうな姿勢で終始話を聞いてゐるのが分かる。
最後の會話はかうである。
大江 いわゆる進歩派の人たちが新かな使いを支持し、いわゆる保守派の人たちが旧かな使いを支持するのは、論理的な理由があるのでしょうか。
自分は進歩派であることをすつかり忘れてゐるあたりは、自己欺瞞の王者だけある。自分は福田先生の考へを否定などしてゐませんよ、とさへ言ひたげである。それはともなく「かな使い」といふ書き方は、その無知振りを露呈してゐる。当然ここは「かな遣い」である。
福田恆存は、かう答へてゐる。全文は引かない。最後のところだけ。
福田 僕が旧かな合理論をもちだすと、もうすぐ旧かなに戻せ、と受けとられてしまうので残念です。そして僕の意見は逆コースだとか反動だとかいわれますが、そのようなことをいう気分も大事だからと認めた上で、現状のままで、とにかくもういっぺん考え直してくれ、というだけなんです。ところが審議会のほうでは、それすらいやがっている。僕はそれが困る、と主張するのです。
歴史的假名遣ひを使ふ人はとても少ない。それは仕方のないことである。そして、福田恆存が言ひ續けた「人體實驗以上の暴擧」であつた假名遣ひの變更を今とやかくいふ人はもつと少ない。そんなことを言へば、好事家かオタクかよほどの變人かといふ目で見られる。福田恆存が、言葉を蔑ろにすれば人を蔑ろにし、精神を蔑ろにし、結果的に社會が蔑ろにされることになるのだといつた警告が警告にならない時代になつてしまつた。
古來の自然が失はれたやうに、言葉の傳統も失はれる。それはあるいは自然な事のなりゆきなのかもしれない。しかし、ほんたうにこれでよいのだらうか。「とにかくもういっぺん考え直してくれ」と言ふ機會がないものだらうか。新しくすること、變革すること、それが價値であると思ひ續けて來た近代がもう終はらうとしてゐる。この際、言葉の問題について考へてみるのが得策であらう。それにしても、保守派の集會に參加しても、政治的な發言は喧しいが、言葉の問題について語られることが少ないのは、殘念である。言葉こそ守るべきものであらうにである。
最近、私の文章は、陰翳が濃いといふ御指摘を受けた。それが何によるのかは自分でも定かではない。が、何かが終りかけてゐるといふ豫感が強くするからかもしれない。やつてくるものの足音は微かであまり聞こえはしないのであるが、「終はり始めてゐる」といふ變な言葉遣ひが正確な描寫であるやうな時の景色が見えるのである。