第一次の時の負の遺産は、教員免許の更新制度である。あんなものが役に立つと本気で思つてゐるとすれば、教育に手を出すのはやめてもらひたい。
車の免許に更新制度があるのだから、教員免許であつてもいいではないかといふのであるが、大学の先生が初等中等教育の現実にただちに対応できる示唆を与へてくれることはない。それを可能とする教授がゐるとしても、全国一斉のこの免許更新制度に関はる膨大な教員に対応できるほどの人数がゐるはずはない。
教育の質を維持したいのであれば、財政的な支援を惜しんではならない。今の問題は人材がゐないことである。
そして、本採用の前に2年間の見習ひ期間を作ることである。大学院など義務化するのではなく、給料を払ひながら、その資質を見抜くことである。
ところで、今の小学六年生が大学を受験する時から、センター試験が到達度テストに代る。これまたいよいよ学習の質の変更を迫られてくる。読み書きそろばんで構はないと思つてゐる古い人間には、やれコミュニケーション能力だ、やれ発想力だ、PISA型だなどといふ言葉の乱舞が耳障りで仕方がないが、安倍政権はそれもやるつもりである。どんな人間を育てたいのかではなく、どんな人間が社会で必要とされるのかといふ発想で組み立てられる教育制度は、いつでも時代遅れになる運命にある。理想的な人間像が必要だとして、それがただちに経済的資源としての人間作りに単純に換言されてしまふ愚がそこにはないか。非常にいやな時代だなといふことを感じる。
溌剌とした青年が、自分の非をただちに認められる青年が、もつと多く輩出するためには、こんな制度の改革ではない何か別の次元の施策が必要である。
つまらないことにまた付き合はされる。政治家は教育制度に関はるな、強く思ふ。