言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

入試制度を弄るといふこと

2014年09月25日 21時53分13秒 | 日記・エッセイ・コラム
 安倍政権について言ひたいことは、教育に関はるなといふことである。

 第一次の時の負の遺産は、教員免許の更新制度である。あんなものが役に立つと本気で思つてゐるとすれば、教育に手を出すのはやめてもらひたい。

 車の免許に更新制度があるのだから、教員免許であつてもいいではないかといふのであるが、大学の先生が初等中等教育の現実にただちに対応できる示唆を与へてくれることはない。それを可能とする教授がゐるとしても、全国一斉のこの免許更新制度に関はる膨大な教員に対応できるほどの人数がゐるはずはない。

 教育の質を維持したいのであれば、財政的な支援を惜しんではならない。今の問題は人材がゐないことである。

 そして、本採用の前に2年間の見習ひ期間を作ることである。大学院など義務化するのではなく、給料を払ひながら、その資質を見抜くことである。


 ところで、今の小学六年生が大学を受験する時から、センター試験が到達度テストに代る。これまたいよいよ学習の質の変更を迫られてくる。読み書きそろばんで構はないと思つてゐる古い人間には、やれコミュニケーション能力だ、やれ発想力だ、PISA型だなどといふ言葉の乱舞が耳障りで仕方がないが、安倍政権はそれもやるつもりである。どんな人間を育てたいのかではなく、どんな人間が社会で必要とされるのかといふ発想で組み立てられる教育制度は、いつでも時代遅れになる運命にある。理想的な人間像が必要だとして、それがただちに経済的資源としての人間作りに単純に換言されてしまふ愚がそこにはないか。非常にいやな時代だなといふことを感じる。

 溌剌とした青年が、自分の非をただちに認められる青年が、もつと多く輩出するためには、こんな制度の改革ではない何か別の次元の施策が必要である。
 
 つまらないことにまた付き合はされる。政治家は教育制度に関はるな、強く思ふ。
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「事実と正直に向き合いたい」とは何の謂ひぞ

2014年09月15日 19時59分00秒 | 日記・エッセイ・コラム

 朝日新聞の日曜版に、特別編集委員の星浩氏が、こんなことを書いてゐた。腰を痛めて、臥せつてゐたが、笑ひを止められず腰に激痛が走つた。

「新聞記者になった時の、あのドキドキ感、事実に基づいて良い記事を書いたときの達成感を、思い出そう。そして、事実に向き合う真摯な姿勢を、紙面で表現していく。私たちがやるべきことは、それに尽きる。」

 やつたことの大きさと、それを知つた時の反省との二つの点から、この文章は落第である。

 今回の誤報が単に誤報であるのか、それが明らかになつてゐない時点で「誤報問題」としてのみ理解し、ただちに反省の弁を述べる、そこにこそ問題がある。端的に言つて自己欺瞞である。誤報があたかも真実であるかのやうに思ひ込む、一連の誤報問題と構図は全く同じものである。それで「事実と正直に向き合いたい」とは何の謂ひぞである。事実と正直に向き合つてゐたと思ひ込んでゐたのであらう、当該の記者も。事実と嘘とが訳の分からないやうな状況に自ら陥つてゐたのである。自己を正当化し、何かを企んでゐる者には、都合のよい事実こそが真実なのである。その辺りの経緯について、海千山千を乗り越えてきた特別編集委員には分からないはずはない。いや、私の場合にはさういふこともなかつたときつぱり言へるほど自己欺瞞が深いのかもしれない。自分は誠実で、真摯な記者であつたと思つてゐるのであらう。活字にするとすべてが真実に思へてしまふ。

 社内報ならともかく、かういふ歯の浮くやうな「きれいごと」は勘弁してもらひたい。こんな文章を載せるために購読料を払つてゐるのではない。今回の事件について、星氏が自ら机を離れ「事実に基づいて良い記事を書」かうとしてゐるとはとても思へない。「事実に向き合う真摯な姿勢を」と書くのなら、ソウル支局がどうして大阪本社に特ダネを渡したのか、それ一つでも事実を記してほしい。「事実と向き合いたい」の「たい」とは誰にたいする願望なのか。自分は蚊帳の外にゐて、今回の事件を他人事として見てゐるからであらう。

 語るに落ちるとはかういふことである。自分は今回の件を、「他人事」として見てゐますといふことを天下に示してしまつたといふことである。その意味で、この記事もまた朝日新聞の一つの典型を示してゐる証拠といふことにならう。

 大丈夫か。

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『心の深みへ』河合隼雄・柳田邦男著

2014年09月10日 23時04分04秒 | 文學(文学)

心の深みへ―「うつ社会」脱出のために (新潮文庫) 心の深みへ―「うつ社会」脱出のために (新潮文庫)
価格:¥ 594(税込)
発売日:2013-02-28
 サブタイトルに「『うつ社会』脱出のために」とあるが、それがお二人の意図によるのかどうかとは関係なく、ズレてゐる。

 さういふ限定的な社会の把握ではなく、近代社会の行き詰まりをどう超えていくかといふところで語られた言葉だと感じた。

 二人の対談集である。

 中心的なテーマは、科学主義批判ではないか。科学的に証明できないものは切り捨て、仕方ないと割り切ることによつて得られた発展と進歩、それを享受してきた近代を肯定する姿は、科学「主義」といつてよいのだらう。そうしたことへの批判が二人の心底にはある。

 この本を讀みながら、東京大学の宗教学の教授であつた島薗進氏の論文も同時に読んでゐて、科学主義=合理主義による弊害を知つた現代人が宗教を評価するとしても、善行が幸福をもたらすといふ図式(因果応報的な理解)で宗教をとらへてゐるうちは、悪を包含するといふ宗教のダイナミズムを理解できないといふことが、改めて腑に落ちた。

 私たちは、理屈では分かつてゐても、行動が伴はない。それは、フロイト的に言へば、意識の下に無意識があり、それを意識が支配することはできないといふことであるが、科学主義=合理主義とは、それができるはずだと信じてゐるといふことである。

 個人の生活にできないことが、人類においてできるはずがない。さういふ当たり前の事実には眼をつむつたまま、科学は自己完結的に進んでゐる。医学にしてもさうだらう。教育にしてもさうだ。

 出産を前にして、母体と赤子に危険が迫つてゐる場合、どちらかしか助けられない状況があるとして、どちらかを犠牲にするとは、悪を施すといふことである。医学ではそれを仕方ないと断念して、その行為を肯定するしかないが、人を生かせないといふことは一生背負ふべき悪でもある。その時に、私たちを救つてくれるのが宗教であらう。河合隼雄流に言へば「医療」である。

 船が前に進むにはエンジンがあればいいか。そんなことはない。海がなければ船は進まない。ところが、海は一旦船に穴が開けば、恐ろしい存在となる。生とは、前に進む(善)と海(悪)とを同時に抱へてあるものである。その両義性に根差してゐる。それを科学主義で割り切ることなど所詮不可能だ。そのことを改めて教へてくれる本である。

 しかし、このお二人、インテリには人気がない。科学主義=知性主義といふ図式もまた信仰されてゐる日本のインテリ界はそれほどに度し難いといふことでもあるが、それもまた時代と共に廃れていくのもほんたうだらう。

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相変はらずの「よしのり」

2014年09月05日 08時41分29秒 | 日記・エッセイ・コラム

 今、朝日新聞がたいへんなことになつてゐるが、思ひ出すのは、「人いづくんぞ隠さんや」である。論語だつたと思ふが、嘘(隠されたもの)はいつの日にか暴かれてしまふといふ意味に解してゐる。これまでのひどい報道の行状は、枚挙に暇がない。何より、「他人は叩くが自分は逃げる」の体質は、インテリの性癖そのもので、さうしたことの愚を世に明らかにしたことが今回の件で唯一の成果であらう。取材力の低下は、マスコミ全体の状況だと言はれてゐるが、その実際は私には分からない。それを言ふなら、日本人の権力層の劣化だらうと思ふ。下層で懸命に生きてゐる人たちは劣化してゐる暇はない。自分の良心に羞じることをしたくないと思ふ人々は、おそらく権力層よりはそれ以外の人々の中に多いだらう。朝日新聞は、さういふ意識を持つ人が少ない腐敗組織の象徴である。自分の目で見ず、自分の頭で考へず、世の空気を読むことに長けてゐる、それが特徴である。彼らにとつては、それが生命線であつたが、それを今回は読み間違へてしまつた。私は、このまま読み間違ひ続けてくれればいいとさへ思つてゐる。その生き恥をさらし続けることで、苦しめられてきた人々への償ひを果たしてほしいのである。偽善者は、偽善的に生きることで生を全うすべきである。

 さて、昨日の朝日に、小林よしのりがまた愚にもつかないインタビューを載せてゐた。

「時代の空気は『脱原発』といえば左翼、『集団的自衛権の行使容認反対』といえば左翼と決めつけ、主張に至る思考と論理に耳を傾けない。逆に靖国神社に参拝さえすれば、何も考えなくても賞賛される。靖国は『魔法の杖』になってしまった。政権を支えるこうした思考停止の空気が、大問題だと思っているのです。」

 開いた口がふさがらない。この言葉こそ「決めつけ」そのものである。そのことに気づかないことが「大問題だと思っているのです」。だいたい小林氏自身が「ゴーマンかま」せたのは、その「決めつけ」ゆゑであらう。その本人が、どういふ了見で「決めつけ」を批判できるのか。言葉は、その言葉の論理だけでなく、どういふ言葉を言ひ続けてきたのかといふ文脈で意味を持つ。彼の言説の変化を辿れば、今の発言の意味は明らかだ。時代の空気に合はせて言葉を吐き続けるのは、卑怯、それに尽きる。安倍政権への批判があるならば、さういふ「決めつけ」ではなく、もつと本格的なものであつてほしい。

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