フランスで起きた三人の青年によるテロに対して、主にヨーロッパの人々が、私には過剰とも思へる反応をしてゐる。非一神教圏に生きる私たちには到底知ることのできない事情があるのかもしれないが、やはり異常と言つて差支へないであらう。
そもそもフランスは、ジャン・ジャック・ルソー以来、人工的に「人権」なるものを造り出し、それを普遍的価値であるかのやうにして思想的に国民が武装してゐる国家である。私たちも案外さういふ説を信じてしまひがちであるが、人権が天賦されてゐるのであれば、それを保障することも絶対的な正義となつてしまふ。いま保障されてゐない「人権」があれば、ただちに是正せよといふことが絶対的に正しいこととして要求されるのだ。しかし、すべては段階を踏まへていくべきものである。それぞれの国の文化は、人権についてどう考へてきたのか、人格とはどう関係があるのか、さういふ吟味熟考を経て少しづつ変革がされていくといふのが、結局は持続性を獲得していく改変である。
教育に携はる者としては、人格と人権は絶えず両にらみしてこのことを考へざるを得ない。授業中にトイレに行きたいと申し出る生徒の出現といふ極めて小さな日常の場面でもさういふことは起きてゐるのである。
さて、今回のテロについてである。果たして襲撃された新聞社の風刺画が「表現の自由」の権利が保障すべきものであらうか。人格の次元で吟味熟考されてゐるとはとても思へなかつた。もちろん、テロ行為自体は全く同情の余地はない。しかし、パリの街頭に立つて多くの国家の代表者や市民がテロへの非難を叫ぶのにも賛同はしかねる。その伝でいけば、テロと言ふ表現の自由を行使しただけだといふ理屈をどう論難するといふのであらうか。法律で許されたことと許されないことといふ線引きは当然ある。しかし、その法律の背景には人間の常識といふものがあるのであつて、人格の陶冶はその次元のことである。表現の自由は言はば手段の次元の話であつて、それには当否の問題があるし、人格の陶冶は目的の次元であり、そこには当否を問ふ必要はない。あのルソーでさへ「自然に帰れ」と叫びつつもそこに踏みとどまれずに「一般意思」を信じて社会契約説へと傾いたのには、「自然」(=自我)への懐疑があつたからではないか。となれば、自我の否定を含まない表現の自由なるものは虚妄であり、それをいくら多数が信じたとしても所詮それは「一般意思」とは似て非なる「全体意思」にすぎない。
目的と手段といふことのついで言へば、こんなことも思ふ。
「学生時代を後悔したくないので一生懸命やる」とある大学生が言ふのをさきほどテレビで見た。なるほどそれはいいことだらう。しかし、「後悔したくない」が一番大事なこと(目的)であれば、学生時代の目標を下げればいいだけでないか、といふ疑問を抱く。「留年はしない、いや、一留まではしかたないかな、いやいや卒業だけはする」などと目標をさげれば確かに後悔はしないだらう。しかし、それでは目標とは言へまい。となれば、最も大事なことは「後悔しない」といふことではなく、目標を高くする、人生を豊かにするといふことである。これが目的である。「後悔しない」は手段の次元の話であらう。「後悔してもいいからとにかくやつてみる」、それこそが学生に発言してほしい言葉である。
そもそもフランスは、ジャン・ジャック・ルソー以来、人工的に「人権」なるものを造り出し、それを普遍的価値であるかのやうにして思想的に国民が武装してゐる国家である。私たちも案外さういふ説を信じてしまひがちであるが、人権が天賦されてゐるのであれば、それを保障することも絶対的な正義となつてしまふ。いま保障されてゐない「人権」があれば、ただちに是正せよといふことが絶対的に正しいこととして要求されるのだ。しかし、すべては段階を踏まへていくべきものである。それぞれの国の文化は、人権についてどう考へてきたのか、人格とはどう関係があるのか、さういふ吟味熟考を経て少しづつ変革がされていくといふのが、結局は持続性を獲得していく改変である。
教育に携はる者としては、人格と人権は絶えず両にらみしてこのことを考へざるを得ない。授業中にトイレに行きたいと申し出る生徒の出現といふ極めて小さな日常の場面でもさういふことは起きてゐるのである。
さて、今回のテロについてである。果たして襲撃された新聞社の風刺画が「表現の自由」の権利が保障すべきものであらうか。人格の次元で吟味熟考されてゐるとはとても思へなかつた。もちろん、テロ行為自体は全く同情の余地はない。しかし、パリの街頭に立つて多くの国家の代表者や市民がテロへの非難を叫ぶのにも賛同はしかねる。その伝でいけば、テロと言ふ表現の自由を行使しただけだといふ理屈をどう論難するといふのであらうか。法律で許されたことと許されないことといふ線引きは当然ある。しかし、その法律の背景には人間の常識といふものがあるのであつて、人格の陶冶はその次元のことである。表現の自由は言はば手段の次元の話であつて、それには当否の問題があるし、人格の陶冶は目的の次元であり、そこには当否を問ふ必要はない。あのルソーでさへ「自然に帰れ」と叫びつつもそこに踏みとどまれずに「一般意思」を信じて社会契約説へと傾いたのには、「自然」(=自我)への懐疑があつたからではないか。となれば、自我の否定を含まない表現の自由なるものは虚妄であり、それをいくら多数が信じたとしても所詮それは「一般意思」とは似て非なる「全体意思」にすぎない。
目的と手段といふことのついで言へば、こんなことも思ふ。
「学生時代を後悔したくないので一生懸命やる」とある大学生が言ふのをさきほどテレビで見た。なるほどそれはいいことだらう。しかし、「後悔したくない」が一番大事なこと(目的)であれば、学生時代の目標を下げればいいだけでないか、といふ疑問を抱く。「留年はしない、いや、一留まではしかたないかな、いやいや卒業だけはする」などと目標をさげれば確かに後悔はしないだらう。しかし、それでは目標とは言へまい。となれば、最も大事なことは「後悔しない」といふことではなく、目標を高くする、人生を豊かにするといふことである。これが目的である。「後悔しない」は手段の次元の話であらう。「後悔してもいいからとにかくやつてみる」、それこそが学生に発言してほしい言葉である。