言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語73

2006年04月30日 21時38分13秒 | 福田恆存

丸谷氏は東京大學の英文科卒であり、ジョイスやグレアム=グリーンの飜譯家である。福田恆存によれば、ジョイスは「徹底した合理主義者であると同時に神祕主義者」である(『西洋作家論』)し、グレアム=グリーンは『(政治的)權力と(神の)榮光』の著者である。二律背反を認め、兩義性においてこの世を見る作家たちである。そしてそれは、「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」といふイエスの言葉そのものの體現を意味するものである。

西洋基督教のこの兩義性は、ひとしく英國文學に受け繼がれてゐるものである。丸谷氏が『ロンドンで書評を讀む』人であるのなら、それぐらゐのことを知らないはずがない。あるいは「論語讀みの論語知らず」よろしく、曲學阿世のそしりを免れまい。

個人の好惡と全體の善惡とは峻別すべし。これが、西洋の智慧である。個人の嗜好と政治の善惡とを混同する愚は、日本人の惡弊である。昨今のアメリカ中樞テロ事件についての識者のコメントを見てゐても、そのことがうかがはれる。

平時において人を殺せば罪であるが、戰爭において人を殺すことは罪ではない。戰爭をしたがつて平時の感覺のまま「人殺し」としてだけで考へるのは愚かなことである。カエサルの立場を神の立場で審判しても、日本人の特殊性だけが浮き彫りになるだけだ。「修身齊家治國平天下」の一本道しかない日本人は、「治國平天下」の思想を「修身齊家」の思想で批判してしまふ。まつたく世界を見てゐない。カエサルの原理と神の原理とは峻別しなければならないのである。少なくとも西洋社會はさう考へてゐる。

國家といふものは、個人の道徳心で判斷するものではない。國家といふものが嚴然と存在する國際社會において必要であるからあるのである。私たちにはすでに、國家を日常では感じない。しかし、「感じない」から「ゐらない」といふのでは子どもの考へである。自分の要不要で、物事の價値を判斷するのは、田舍ものの沙汰である。

丸谷氏の「歴史的假名遣ひ」の意圖は、きはめて自分に都合が良く、ファッションのやうでしかない。藤原定家や契冲が人々の假名遣ひの亂れに心を痛め、眞摯に假名遣ひを探求したのとは、まつたく異なる。そこにあるのは、せいぜい文學表現の新しいアイディアであり(樣々なる意匠)、ペダンティック(衒學的)な「歴史的假名遣ひ」の形骸でしかない。

わたしは一方では、ものそれ自体を写す近代的散文を志向し、しかしそこで用ゐられる言葉 は歴史によつて洗練された、余韻と連想にとんだものにしたい、さうすることによつて現在と伝統性とをふたつながら一挙に獲得したいと、いつの間にやら願つてゐたのである。

丸谷才一「言葉と文字と精神と」

もちろん、作家が文體を磨くことは非難されるべきことではない。むしろ、慶賀すべきことではある。しかし、その動機が問題である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松原正先生の講演会

2006年04月28日 23時44分30秒 | 告知

  毎年、5月に松原正先生の大阪での講演會が行はれてゐる。さて、今年はあるのだらうか。昨年は、もう私はしないと發言されてゐたが、果してどうなるのだらうか。そろそろ發表する時期だらうと思はれる。

  まだまだ松原先生に、お訊きしたいと思つてゐる關西人は多いと思ふのだが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言葉の救はれ――宿命の國語72

2006年04月25日 22時48分24秒 | 福田恆存

 元來學問をしたものには、宗敎家の謂ふ「信仰」は無い。さう云ふ人、即ち教育があつて、信仰のない人に、單に神を尊敬しろ、福音を尊敬しろと云つても、それは出來ない。そこで信仰しないと同時に、宗敎の必要をも認めなくなる。さう云ふ人は危險思想家である。

これは、森鴎外の「かのやうに」の一節である。「かのやうに」とは、現實と現實を越えた何かがある「かのやうに」考へる西洋世界に出合つた青年を主人公にした小説である。引用した部分は、留學した息子が父親に手紙を書き、それを父親が要約してゐるところである。もちろん、これが鴎外の考へそのままではないし、青年の主張そのままでもない。また、誤解がないやうに言へば、これが小説「かのやうに」の主題を表す言葉でもない。西洋ではかう考へられてゐるといふことである。したがつて、松原正氏が鴎外自身の言葉を使つて的確に要約したやうに「二本足の學者」である鴎外が、神の側(西洋の側)だけに立つことを主張するはずがない。

ただ大事なことは、父親がこの青年にたいして「心理状態を簡單に説明すれば、無聊に苦しんでゐると云ふより外はない」と記してゐる通り、自我の擴張と、その否定との間で苦しんでゐるといふことである。これは「何事もすることの出來ない、低い刺戟に飢ゑてゐる人の感ずる退屈とは違ふ。内に眠つてゐる事業に壓迫せられるやうな心持である。潛勢力の苦痛である」。その「勢力」とは、我田引水かもしれないが、自我のことであり慾望のことである。

理性によつて、自我を否定することができない。このことを、實感したから、この青年は信仰や宗敎に近づき、しかし、知的な關心ではどうにもならないことを感じて「苦しんでゐる」のである。

ところで、皮肉なことには、この作品が納められてゐる新潮文庫の解説が、山崎正和氏なのである。なるほど山崎氏には『鴎外・闘ふ家長』があるのであるから、解説を書いてもをかしくはない。しかし、この解説の題が「森鴎外 人と作品――不黨と社交」とあるのを見ると、またしても「社交」かとうんざりするのである。自我の處理の仕方に苦慮する鴎外像よりも、社交の感覺によつて自我を調整した方を見るといふのは、意圖的であるとしか思へない。「かのやうに」が社交の感覺からどう生まれたのかを、説明すべきである。

もつとも、私の鴎外觀が自然主義に寄りすぎ、自我の處理に苦惱する姿だけを見るのもどうか、といふ疑問もあらう。しかし、それは誤解である。「二本足の學者」である鴎外は、理性と信仰の兩建てをするのだと考へるからである。

漱石が「天」と記したときも、鴎外が「かのやうに」を書いたときも、彼らは理性では自我を否定できないといふことを感じてゐたに違ひないのである。

しかし、山崎氏も丸谷氏も「天」を記さない。彼らの文章の裏面には「自我」がこびりついてゐる。どんなに社會や文學を文明論的に論じてもそれは自我の主張でしかない。正直に言へば、彼らを愛讀してきたが、どうにも入り込めない壁がある。それはきれいに自我で塗り固められた理屈の壁である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時事評論 4月號

2006年04月22日 08時20分27秒 | 告知

「子育ち」「學習」で教育現場は大混亂          新聞記者  安藤慶太

好景氣、株高は日本經濟の最後の輝き       エコノミスト 佐中明雄

自壞する外務省                        國際政治アナリスト  細谷茂樹

コラム

「小澤民主」は再生できるか                                         (花)

死者との約束の重み                                              柴田裕三

ある小説家の生と志                                                     (前)

媚中派・二階俊博の”影”                                              (菊)

問ひ合せ

   076-264-1119          ファックス  076-231-7009

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

諸氏の福田恆存論 その2

2006年04月20日 20時37分47秒 | 福田恆存

前囘の續きである。

桶谷秀昭

「花田清輝と福田恆存」『昭和文学全集 第二十七巻』月報(平成元年・小学館)

「福田恆存論」『明治の精神 昭和の心』(平成二年・學藝書林)

「占領の延長としての戦後」『天の河うつつの花』(平成九年・発行:北冬舎、発売:王国社)

「近代精神に殉じた人」『新潮』追悼福田恆存(平成七年二月号・新潮社)

「福田恒存『現代の悪魔』書評」『増補改訂 芸術の自己革命』(昭和四十五年・国文社)

西部 邁

「福田恆存論 保守の真髄をもとめて」『幻像の保守へ』(昭和六十年・文藝春秋)

「福田恆存氏の逝去を悼む」『産経新聞』(平成六年十一月二十一日)

「福田恆存――その構えはつねに物事の『論じ方』を正すことにあった」『学問』

(平成十六年四月・講談社)

谷沢永一

「ローレンスについて」『読書巷談 縦横無尽』一七三頁、向井敏氏との共著(昭

和五十五年・日本経済新聞社)

坪内祐三

「『保守反動』と呼ばれた正論家」写真共『諸君!』(平成八年七月号・文藝春秋)

「一九九七年の福田恆存」『文學界』追悼福田恆存(平成七年二月新春特別号)

「福田氏の残した『遺言』とは?」『古くさいぞ私は』(平成十二年・晶文社)

「生き方としての保守と主義としての保守――福田恆存と江藤淳」『後ろ向きで前

へ進む』(平成十四年・晶文社。初出は、『諸君!』平成十一年十月号)

「一九八二年の『福田恆存論』」(同右。初出は、昭和五十七年度早稲田大学第一

文学部卒業論文)

「私小説とは何か」(「新しい福田恆存論を語る必要を感じてゐる」旨の発言が最

後にある。同右。初出は、『文學界』平成十三年十月号)

『福田恆存文藝論集』解説(平成十六年五月・講談社文藝文庫)

鷲田小彌太

「『人間不在の防衛論議』福田恆存 『体制派』批判の国防存在根拠」『書評の同

時代史』(昭和五十七年・三一書房)

「『福田恆存全集』」『書物の戦場』(平成元年・三一書房)

「二十一世紀を拓く思考――戦後思想の目録 2デモクラシー――大西巨人と福田

恆存」『日本資本主義の生命力』(平成五年・青弓社)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする