丸谷氏は東京大學の英文科卒であり、ジョイスやグレアム=グリーンの飜譯家である。福田恆存によれば、ジョイスは「徹底した合理主義者であると同時に神祕主義者」である(『西洋作家論』)し、グレアム=グリーンは『(政治的)權力と(神の)榮光』の著者である。二律背反を認め、兩義性においてこの世を見る作家たちである。そしてそれは、「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」といふイエスの言葉そのものの體現を意味するものである。
西洋基督教のこの兩義性は、ひとしく英國文學に受け繼がれてゐるものである。丸谷氏が『ロンドンで書評を讀む』人であるのなら、それぐらゐのことを知らないはずがない。あるいは「論語讀みの論語知らず」よろしく、曲學阿世のそしりを免れまい。
個人の好惡と全體の善惡とは峻別すべし。これが、西洋の智慧である。個人の嗜好と政治の善惡とを混同する愚は、日本人の惡弊である。昨今のアメリカ中樞テロ事件についての識者のコメントを見てゐても、そのことがうかがはれる。
平時において人を殺せば罪であるが、戰爭において人を殺すことは罪ではない。戰爭をしたがつて平時の感覺のまま「人殺し」としてだけで考へるのは愚かなことである。カエサルの立場を神の立場で審判しても、日本人の特殊性だけが浮き彫りになるだけだ。「修身齊家治國平天下」の一本道しかない日本人は、「治國平天下」の思想を「修身齊家」の思想で批判してしまふ。まつたく世界を見てゐない。カエサルの原理と神の原理とは峻別しなければならないのである。少なくとも西洋社會はさう考へてゐる。
國家といふものは、個人の道徳心で判斷するものではない。國家といふものが嚴然と存在する國際社會において必要であるからあるのである。私たちにはすでに、國家を日常では感じない。しかし、「感じない」から「ゐらない」といふのでは子どもの考へである。自分の要不要で、物事の價値を判斷するのは、田舍ものの沙汰である。
丸谷氏の「歴史的假名遣ひ」の意圖は、きはめて自分に都合が良く、ファッションのやうでしかない。藤原定家や契冲が人々の假名遣ひの亂れに心を痛め、眞摯に假名遣ひを探求したのとは、まつたく異なる。そこにあるのは、せいぜい文學表現の新しいアイディアであり(樣々なる意匠)、ペダンティック(衒學的)な「歴史的假名遣ひ」の形骸でしかない。
わたしは一方では、ものそれ自体を写す近代的散文を志向し、しかしそこで用ゐられる言葉 は歴史によつて洗練された、余韻と連想にとんだものにしたい、さうすることによつて現在と伝統性とをふたつながら一挙に獲得したいと、いつの間にやら願つてゐたのである。
丸谷才一「言葉と文字と精神と」
もちろん、作家が文體を磨くことは非難されるべきことではない。むしろ、慶賀すべきことではある。しかし、その動機が問題である。