言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

時事評論石川  9月号

2010年09月30日 14時12分51秒 | 告知

○時事評論石川の9月号の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。

 何と言つても、今月號の一押しは、宮崎大学の吉田好克先生の文章である。今日の様樣な問題の究極にあるのは「戦争観」もしくはそこから生じた「反戦平和イデオロギー」であるといふ指摘は、あまり吉田先生の文章をお読みになつたことのない人には驚かれるかもしれないが、最後までお読みいただければなるほどと思つていただける内容だと思ふ。祖霊、なかんづく英霊に対する意識や思ひを抱かない現代日本人であるから日本が衰微してゐるのであるといふ指摘こそが、その中身であり、まさに時宜を得た言説であると思ふ。何も恐れず、自己を否定する契機を持たず、自分だけ一人で生きてゐるかのやうに考へてゐる人間には、脆弱な生命力しか生み出せない。そのことを分からない人には、吉田先生の意圖も主張もまつたく通じないのかもしれない。しかし、今必要なのは、さういふ「分からず屋」を説得することではなく、「知らない人に知らせる」「気付かない人に気付かせる」ことこそが必要なのである。終はりの日には、熱いか冷たいかを峻別される時がくるはずで、この「時事評論」がその峻別の基準を示すところに意義がある。その意味で、吉田先生の今回の論文は、極めて重要なものとなつてゐる。かういふ文章を読んでなるほどと思ふ人を糾合することこそが、今必要なのである。

『菅VS.小沢』第2ラウンドか

    ―国会議員200人が親小沢の意味―

             拓殖大学大学院教授 花岡 信昭

國よ國たれ、人よ人たれ

     祈り――今必要な精神の拠り所                                    

                           宮崎大學准教授  吉田好克

教育隨想       

「菅首相談話」の愚 (勝)

奔流            

自民に政権奪還の構えはあるか

  ―存在感の希薄さ克服を―

              拓殖大學大學院教授 花岡信昭

コラム

        日印協力深化は必然的かつ永続的  (菊)

        『教えて なぜ戦争したの』 (柴田裕三)

        『松原正全集』を讀む(星)

        「開いた口がふさがらない」(蝶)            

  問ひ合せ

電話076-264-1119    ファックス  076-231-7009

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「惡人」のメイキングを觀て

2010年09月26日 20時38分06秒 | 日記・エッセイ・コラム

妻夫木聡が悪人だったあの2ヶ月 [DVD] 妻夫木聡が悪人だったあの2ヶ月 [DVD]
価格:¥ 1,575(税込)
発売日:2010-08-25
   友人から映畫「悪人」のメイキングDVDを借りて觀た。主演の妻夫木聡に焦点を当てたものであつたが、それだけにあの殺人の動機について思はぬ収穫があつた。

 最近になつて、文藝評論家の小谷野敦氏が、御自身のブログで、『悪人』を初めて読んで、その大衆小説性を論じてゐた。ドストエフスキーの『罪と罰』をも大衆小説といふのであるから、決してそれは低評価を意味してはゐないが、主人公の清水祐一が出会い系サイトで出逢つた女性を殺す動機の弱さを指摘してゐた。私は、その部分については何も感じなかつたが、メイキングを見ると、最後まで撮影に苦労したのがその場面であつたやうだ。言葉は正確ではないが、監督が「祐一といふ人間が分からなかつたといふよりは、祐一の人を殺すといふありやうが分からなかつた」と語つてゐたのである。

 言葉ではいかやうにも表現できるが、身体を使つた演戯では不自然なものは表現できない。作家の構想の不自然さを、監督の眼や俳優の身体が指摘したわけで、そのことを正確に見抜いた小谷野敦氏の慧眼を感じた(この場合、監督の演出と俳優の動きもまた實に正確であつたと言へよう)。

 『悪人』は初めて讀んだとき、そして映画を觀たとき、さらに改めて讀み直したときとで印象が異なる。状況が人を追込んでいく姿がとてもよく表現されてゐるが、それは善とか惡とかといふ問題ではないといふ氣がして來た。主體がもたらす事件ではなく、環境がおびき寄せた罠のやうな印象で、『惡氣(わるぎ)はないのに』といふのが主題であるやうに思へた。

  吉田修一氏は、自身の代表作と言つてゐるやうだが、それはまだ言はない方がいいやうに思ふ。いつもながらの蛇足だが。

  蛇足2  今般の尖閣諸島の問題についての政府の對應もやはり日本人らしかつた。頭には來たが、自民黨なら大丈夫だつたとは思へない。フジタの社員四人を人質に取られたやうな状況で、彼らの生命を犧牲にしてでも國家としての威信を保たうと本氣で鬪へる政治家は思ひ浮ばない。惡人にすらなれないのである。まさに「惡氣はないのに」である。

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たまに行くならこんな店

2010年09月23日 21時08分45秒 | 日記・エッセイ・コラム

 今日はお店の紹介。お世話になつてゐる方のお店である。場所は町田。町田は、小田急の駅もJRの駅も近く都心からも便利な場所。東京にゐたときには週に一度は仕事で通つてゐた場所でもあり、高原書店といふ大きな古書店もかつてはあつた(今もあるかしらん)。友人も住んでゐて馴染みのある街である。

 JR町田駅から徒歩すぐの場所にある。夕方五時から開店のおしゃれなお店である。ぜひお近くの方はお寄りいただきたい。私も近々友人を誘つて行かうと思つてゐる。とは言へ、私は下戸なのだが・・・・・・・  さう野暮なことは言はないで雰囲気を楽しみたいのである。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~zfm64907/nakazawa.html

ブログもある。

http://nkzw.at.webry.info/

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今こそ政治小説を

2010年09月20日 07時53分04秒 | 文學(文学)

 拓殖大学日本文化研究所が出してゐる季刊『新日本學』の最新號に論文を書かせていただいた。8月20日が締め切りだつたので、夏休みを使つて書いたもので、久しぶりに長めの文章を書いた。

 タイトルは、『今こそ政治小説を』である。この題を見てピンとくる人はかなりの文學通である。下敷にあるのは中村光夫の『ふたたび政治小説を』(昭和34年)である。坪内逍遙の『小説神髓』を引きながら、生活に頼つた似非リアリズムに流れる當時の小説家たちへの批判を試みたもので、内容は判然としないところもあるが、『小説神髓』が書かれる以前には啓蒙思想家による政治小説が書かれてゐたが、「リアリズム」を過つて理解した作家によつて自然主義的な作風の小説が「近代小説」であるかのやうな錯覺を作り出した。リアリズムとは生活の引きうつしではなく生活そのものである。それを指摘したのが他ならぬ『小説神髓』である。中村光夫はさう判斷した。そして、さういふ「生活」を土臺として小説を書くべきだといふのが「ふたたび政治小説を」であつた。

 今日の小説もまさにリアリズムを誤解し、文學以前に生活で解決すべきことを文學の中に持込んで、それでリアルな感覺を表現しようとしてゐる。

 生活が枯れ果ててゐる時代の小説とは何か。何を書くべきなのか。解決方法を安易に提示したり(村上龍)、激勵したり(村上春樹?)する文學が待たれてゐる。しかし、それは果たして文學か。マニュアルの提示の代表例として武士道の再興も近年は言はれるが、さういふマニュアルを好む性向こそが現代日本人の問題點ではるまいか。

 マニュアルの提示による肉體の作法を傳へる肉體の政治學としての文學ではなく、肉體と精神のあり方を各自に門はせる精神の政治學としての文學をこそ現代作家は示すべきだ、それが「今こそ政治小説を」である。

   ドストエフスキーが混亂した19世紀のロシアに現はれたやうに、今のこの日本にこそさうした精神の政治學としての文學が現はれて來ても良ささうである。

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祝杯を擧げる黨首選勝利者の愚

2010年09月14日 21時53分00秒 | 日記・エッセイ・コラム

 民主黨の黨首選擧が行はれた。大方の豫想通り、菅直人氏が勝つた。仕事中だつたので、しばらくたつてインターネットのニュースで知つたが、まつたく心は動かなかつた。悲慘なあまりに悲慘な政治がこれでまた續くのであるが、これが今の日本であるのだから、受入れる以外にはない。政治で變へられる部分は小さい。ましてや私たちは、外壓以外に變化の契機を持たないのであるから、總理が代つても何も期待することはない。その意味ではどちらが勝つても同じである。

 しかし、一つだけ赦しがたいと思つたのは、選擧後の祝勝會であらうか、金屏風の前で菅陣營の人が乾杯をしてゐた。同じ政治信條の持ち主である黨員内の選擧で勝つただけなのに、祝ひの席を堂堂と設けるといふ感覺を私は訝る。するなら、内内でするか黨所屬國會議員全員を呼んでするといふのが筋であらう。あまりにもすることが稚拙で、勝利した氣分に浮かれてゐる姿が情けない。これはダメだと思つた。御友達内閣といふのが自民黨末期にもあつたが、御祭り内閣である。やることはイベントであり、盛上がらうといふ氣分だけが先行して、勝つて兜の緒を締めよといふ緊張感すらない。これでは、いつしか逆襲に合ふだらう。

 討論會の中で、眞摯に對應すれば野黨もそれに應へてくれるはずだ、とあまりにも幼稚な學級會レベルの發言をしてゐた現總理だが、やはり幼稚な振舞ひは變つてゐない。自民黨復活の日は、案外早いかもしれない。

 東アジアの情勢は、これから大きく變るだらうから。

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