言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

黒田良夫先生の詩集「帯状疱疹」

2017年02月26日 11時12分07秒 | 日記

 下諏訪町在住の画家・黒田良夫先生から詩集をいただいた。

 「帯状疱疹」といふ題がつけられてゐる。ここ数年帯状疱疹に苦しんでいらしやることはうかがつてゐた。幼児期の水疱瘡の菌は死滅することなく一生体内に残つてゐるといふ。それが体力が落ちたり、ストレスがたまつたり、あるいは高齢になつた時に活動を始めるといふ。先年、私の父もかかり、二三か月苦しんでゐた。体の半身がダメージを受けるのが特徴である。

 黒田先生の場合には、それがもう何年にもわたつて続いてゐる。

激痛しわしわと心臓にからみ

石が割れる

 

血が痛い

罰が当たっているのだ

 

痛くてしゃがんで

口から腹わたをずるずると吐いている

 かうした二行詩が50篇ほど記されてゐる。序詩として谷川俊太郎が詩を寄せてゐる。

「二行で多すぎる 痛みを言うには」で始まる詩は、友人としての見舞ひの言葉でもある。

 詩を書いてでも痛みと抗ひ、記録に遺さうとする精神は、黒田先生の執念の賜物である。情念の画家である黒田先生の苦しみは私にはどうすることもできないが、このブログに記し、その慰めとしたい。

 

 

 

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今日は、国公立二次試験。

2017年02月25日 07時59分24秒 | 日記

  全国的に天候は良好。

  何が待つてゐるか分からないから、ドキドキの朝ですね。眠れた人も眠れなかつた人もその自然を受け入れるところから。

  試験が始まつてもすぐに書き始めずに、周りを見て数秒深呼吸。

  そして、二日目がある受験生は今日の試験を振り返らないやうにしてはどうかな。

  感謝。

  

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「時事評論」最新号

2017年02月20日 13時09分45秒 | 日記

 今年最初の「時事評論」である。

 今月号の内容は次の通り。 どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。
 1部200圓、年間では2000圓です。
(いちばん下に、問合はせ先があります。)

 トランプ大統領の登場に、今月号ではいろいろな方が触れてゐる。いづれも好評価である。ここらあたりも、一般紙とは違つてゐて興味深い。

 松原正全集第三巻の刊行を機に、お弟子のお二人が文章を寄せてゐる。いづれも「振幅の大きさ」に触れてゐる(「二元論」とは書かれtてゐないが、哲学的にはさういふことだらう)。振幅が大きくできるためには、その支点となる何かがなければならない。その支点を持つた人物として、永井荷風や松原正がゐるといふことである。


                    ●



 

   ☆    ☆    ☆

『偽善』から『本音』へ

    トランプ大統領就任に思ふ

           宮崎大学准教授 吉田好克

            ●

米中関係は緊張の時代へ

    トランプの対中外交への懸念と不安

           平成国際大学教授 浅野和生

   
            ●


教育隨想

 アメリカの軋みと日本の針路(勝)

            ●

「この世が舞台」

  「散柳窓夕栄」永井荷風

       早稲田大学元教授 留守晴夫

            ●

類ひ稀なる戦争論

 「戦争は無くならない」『松原正全集』第三巻刊行に寄せて

       早稲田大学准教授  岡田俊之輔

            ●

コラム

  崔順実のタブレットが偽者だったとしたら (紫)

  「自国・地元第一」の是非・善悪(石壁)

  「シンゴジラ」考考(星)

  正義に他人を巻き込むな(騎士)



問ひ合せ

電話076-264-1119
ファックス 076-231-7009

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『やってはいけない脳の習慣』を読む。

2017年02月18日 15時26分59秒 | 本と雑誌

 昨年の夏、教員の友人と話をしてゐた時に話題になつた本である。発売されたのが昨年の8月15日であるので、たぶんそのタイトルが気になつて話に出たのだらうと思ふ。

 スマホやラインやゲームをやつてゐる子供の学力低下は、勉強する時間が取られてゐるからである、といふのが一般的な認識であらうと思ふ。ところが、本書によればさうではなくて、勉強を二時間してゐても一定時間以上スマホやラインやゲームをしてゐれば、それらをせずにまつたく勉強してゐない生徒よりも学力は落ちてしまふ傾向にあるらしいのだ。

 比喩で言へば、下りのエスカレターに乗れば(スマホを使へば)、歩いてゐても(勉強しても)上階には上がれない(学力は伸びない)といふことである。

 これは恐ろしいことである。

 脳内で何かが起きてゐるのである。

 そこで著者は、かう記す。

「パソコンやスマートフォンの使用習慣の強さと、前帯状回という部分の小ささが関係していることが分かっています。したがって、パソコンやスマートフォンを日常的に長時間使用していると、(中略)脳の形が変わってしまう可能性があります。(中略)この前帯状回という部分は、注意の集中や切り替えや、衝動的な行動を抑えるといった機能に関わる重要な領域の一つです。」

 それから、スマホはやめれば成績は上昇するが、ラインなどはやめても過去に使用したことがあるといふだけで、成績に対する影響が残つてしまふといふことだ。

 ラインは着信があれば、音が鳴る。その音に反応して集中力が削がれるといふことが原因らしい。

 著者は、脳トレで有名になつた東北大学の加齢医学研究所の川島隆太教授の下で助教として勤める横田晋務氏である(いまネットで調べると、今年の2月から九州大学基幹教育院の准教授になつてゐた)。手法や研究スタイルは川島教授と同じである。実験データの詳細については、私にはよく分からない。したがつてこの結論の正否については判定することはできない。が、子供たちを見てきた実感と違和感はない。

 その他、朝食を食べよ、テレビを見せるな、睡眠時間を確保し、睡眠の質をよくせよ、本を読めなどの結論も賛成である。しかも、それを命令的にさせるのではなく、自分で判断させそのやうに導くことが大事、そのためにコミュニケーションの時を持てといふ大人への指導もうなづける。そして、そのコミュニケーションの時も、時間の長さではなく「よく理解してもらへた」といふ実感が子供にあるかどうかを見るべきといふのもその通りであらう。

 しかし、こんな完璧な「子育て」をしないと子育てができないのかといふ圧力がかかるやうな社会といふのもまづいのではないか。

 前書きで書かれてゐるやうに、大人が儲けようとして作つた技術で子供の発達が阻害されてゐる、その阻害要件を排除するために大人が必至になる。しかも、儲けようとした大人の行為は環境全体に及び一度に複数の子供を巻き込んでしまふが、子育ては個別である。社会全体で取り組むべき課題もある。

 本書で知つたが、兵庫県小野市や宮城県仙台市ではスマートフォンとの付き合ひ方について先進的に取り組んでゐると言ふ。さういふことも必要だと感じる。

 

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今日一日も歴史

2017年02月17日 11時19分03秒 | 日記

 時間を連続したものとして意識できるのは人間だけである。動物や植物はできない。ひとまづさうしておく。検証することも、それを検証した書物の存在も私は分からないからだ。

 昨日が今日へとつながり、今日が明日へと続く。さういふ直線的な時間意識を自然と考へるのは近代人だけかもしれないが、昔と今といふ意識はいつの時代にもあつただらう。

 しかし、昨日あつた出来事が今日を生み、今日してゐることが明日へとつながるといふ自我同一性を意識する問題とは別に、自分の知らぬことや関はりのないことで今日の自分が影響を受け、それを受け止めきれずに明日を迎へてしまふといふときの意識の問題がある。それらの出来事を偶然であるととらへるか必然であるかと共に、それを受け止められるかどうかといふ人格の統一性の問題である。

 私たちの悩みはさういふことに起因することが多い。たとへば、大事な会合を前にして準備した資料をある人に誤つて捨てられてしまつたといふ場合。あるいは明日は大事な報告会であるといふ時に、前日の晩に突然の高熱が発生したといふ場合。その「出来事を偶然であるととらへるか必然であるかと共に、それを受け止められるかどうかといふ人格の統一性」を保守できるかで苦しむ。すぐに気持ちを切り替へて、直ちに次善の策を講じるときに人格なり、その人の生き方や思想が浮かび上がつてくる。沈滞する気分に染め上げられたまま意識が立ち上がることなく、時間だけがいたづらに過ぎていく。第一の自我同一性を意識するだけで精一杯になる。いやもつと幼ければ、「これは自分がやつたことではない。」と言ひ張り他者の存在のせいにする。結果的に自我は同一性を失ふことになる。自己防衛である。

 学校教育は、この第一の意識問題と第二の意識問題との両方にかかはる営みである。ひらたく言へば、「自我の保持」と「人格の型づくり」とである。

 学ぶといふことは、結構たいへんな営みである。我慢と辛抱と、そしてそれを続けるための時々の喜びと。一人でなく協働で行ふことの喜びと辛抱と我慢と。さういふ過程で、それぞれに「自我の保持」の仕方と「人格の型」の作り方を覚えていくものであらう。

 この基礎価値の自覚なしに、うは物をきれいにしようとしてもうまくはいかない。効率や能率は謳つてもよいが、それは二義的なものである。

「死なしたくない子供に死なれたからこそ、母親の心に子供の死の必然な事がこたへるのではないですか。僕等の望む自由や偶然が、打ち砕かれる処に、そこの処だけに、僕等は歴史の必然を経験するのである。僕等が抵抗するから、歴史の必然は現れる、僕等は抵抗を決して止めない、だから歴史は必然たる事を止めないのであります。これは、頭脳が編み出した因果関係といふ様なものには何んの関係もないものであつて、この経験は、誰の日常生活にも親しく、誰の胸にもある素朴な歴史感情を作つてゐる。若しさうでなければ、僕等は、運命といふ意味深長な言葉を発明した筈がないのであります。」(小林秀雄「歴史と文学」)

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