言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「スクラップ・アンド・ビルド」を讀む

2015年08月16日 11時15分29秒 | 日記
 もう一つの芥川賞受賞作を讀んだ。30歳の孫が87歳の祖父を介護する小説である。失業し再就職を目指しながら、死にたいと連呼する祖父と、実父の病んだ姿に閉口し思ひを直接的に表現する母(祖父の娘)との三人家族。彼女もゐるがどうやら倦怠期を迎へたやうでもあるが会はうといふ思ひは義務的にあり、とにかく資格を取らうと勉強をするが再就職はそれとは違ふ方向に行き、ひたすら自分の筋肉を鍛へることに執着するが現実には何の成果も上げてゐない。かうした頓珍漢な熱情はユーモアを生み出してゐるが、決して救ひにはならない。
 母親の孤独には一切立ち入る意識も技量もないのは、この小説の不満なところであるが、若い小説家の見た「現実」は素直に表現されてゐる。介護社会のこれはとても貴重な一面である。私もさういふ状況にあるので、それはとてもよく分かるが、小説にするならもつと違ふ扱ひもあるだらうにと思つたが、かういふ軽いタッチで描いた「現実」が今の現実でもあるのだらうと少しづつ感じ始めてゐる。
 昨年の今頃は有吉佐和子の『恍惚の人』を讀んでゐたので、その差を感じたが、両作を比較することが両者に対して非礼であるといふのが今の感想である。

 かういふところで、二十代の若者は生き、話し、思考してゐるのであるか、そんなことを考へた。

 この作者が病院でとらへた患者である老婆と看護師との会話である。
 
 老婆が大声でわめく。(中略)
「殺してくれっ!」
「もう少し待っててねぇ」
「はぁい」

「声も大きいのは肺や横隔膜周りの筋肉もしっかりしている証拠」と記すのも、主人公が筋肉通(痛ではない)であるゆゑだ。この場面を讀んで私は思はず笑つてしまつたが、介護といふ言葉の持つイメージと「現実」との乖離をユーモアでとらへたこの作者の力はさすがだと感じた。

 この作品は、私の待つてゐる文學とは別の物であるが、讀んで良かつたと思つた。
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『火花』を讀む

2015年08月15日 12時46分51秒 | 日記
 話題の『火花』を讀んだ。このところ芥川賞作品も讀んだり讀まなかつたりといふことが續いてゐたが、今回は讀んでみたいと思ひ、文藝春秋を買つた。

 とても讀みやすかつた。芸人といふ職業に就いてゐなかつたらきつとここまで書けなかつただらうといふことが多かつた。それはとても現実的で、主人公は作者そのものであつても体験記としても面白い。

 もちろん、作者の生活を写実的に書くといふことは、小説の幅を狭めてしまふ危険をこの種の私小説は秘めてゐるが、この作品はその欠点を免れてゐる。私が、この作者が漫才をするところを見たこともないから、この小説がこの作者の漫才より面白いか否かは分からない。しかし、とても誠実な印象を受ける主人公はテレビを通じて受ける印象と同じである。世間に対して「いないいないばあ」を全力でやるしかないと闘ふ主人公は、果たして何を理想としてゐるのかは分からないが、ドンキホーテのやうに見えない敵と一所懸命闘つてゐるやうにも見えた。

 弟子である主人公と、師匠である神谷とが交はすメールには、必ずあだ名をつけられた互ひの名が記される。「エジソンが発明したのは闇」(神谷)、「エジソンを発明したのは暗い地下室」(僕)などなど。売れない芸人の孤独感は、とても控へ目だが明確に記されてゐる。この辺りの切実感は私小説の良さであらう。

 ちりばめられた、二人の理屈つぽい会話や説明は、私には面白かつた。小説の流れを中断しかねない危険な場面ではあるが、それがこの作家の物の見方であり、書きたいことなのだらうから、流れから浮いてゐないかぎり歓迎である。

 しかし、最後の場面は私には不快であつた。台無しにしてしまつた。もし売れてゐる芸人の小説でなかつたら、この作品は受賞しなかつただらう、さう思ふ。主催団体の商売つ気を感じさへした。

 次は、芸人でない人を主人公に書くと言ふ。ぜひ書き続けてもらひたい。その期待だけは讀後も変はらなかつた。
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カズイスチカ

2015年08月01日 11時43分25秒 | 日記

 カズイスチカと聞いて何のことかが分かれば、かなりの文学通である。もちろん、国文学出身者でこの名を知らなければモグリでもある。その程度には知られてゐるべき単語である。
 森鷗外の短編小説だ。新潮文庫にも入つてゐる(『山椒大夫・高瀬舟』)。

 casuisticaラテン語で「患者についての臨床記録」といふ意味らしい。花房といふ名の医者が、診察した人々について記した随筆といふしつらへである。
 では、何が面白いかと言へば、花房といふ男の父も医者であり、その父の診察=生き方の迷ひの無さに打ちのめされてゐるところである。さながら息子花房は、患者や父を描きながら、自らの迷ひ(病と言つてもよいかもしれない)を記録してゐるかのやうである。

 翁は病人を見ている間は、全幅の精神を以(もっ)て病人を見ている。そしてその病人が軽かろうが重かろうが、鼻風だろうが必死の病だろうが、同じ態度でこれに対している。盆栽を翫(もてあそ)んでいる時もその通りである。茶を啜(すす)っている時もその通りである。
 花房学士は何かしたい事若(もし)くはする筈(はず)の事があって、それをせずに姑(しばら)く病人を見ているという心持である。それだから、同じ病人を見ても、平凡な病だとつまらなく思う。(青空文庫より転載)


 父と子の生き方のかうした違ひはいづこから生じるのか。そのことについて鷗外が結論を出してゐるわけではもちろんない。山崎正和の『鷗外・闘ふ家長』を読めば、鷗外の生き方は「翁」に近いとも感じるが、しかし、もしそれ一辺倒の人物なら息子花房が登場することもないだらうし、しかもその男をもう一人の主人公にして描くはずもない。相反する二人を描くことで、警戒すべき無気力の訪れを絶えず意識してゐたといふことなのではないか、さう感じる。

 卑近な例で言へば、警戒すべき感情に引き裂かれてゐるのが私にとつては夏休みである。夏休みは、退屈と焦燥とに引き裂かれた気分が波のやうに寄せて来る。苦手な季節である。

 そのことの辛さに比べれば、外的な気温の暑さなど何と言うこともない。水を浴びれば消えてしまふ。

 受験勉強の戦ひも、恐らくさういふところにあると思ふ。「何かしたい事若(もし)くはする筈(はず)の事」を置き去りにしたまま「それをせずに姑(しばら)く」勉強をしてゐる、かういふ無聊(ぶりょう)が辛いのである。目的が明確になることの救ひは、そこにある。

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