昨日の日曜日、天理に行く用事があつたので、少し足を伸ばして明日香村に行つてきた。曇天で時時雨の降る一日ではあつたが、自動車での移動はすこぶる快適で懷かしい時間を過ごすことができた。
懷かしいといふのは、古代のロマンを思つてといふほどのものではない。私の大學の指導教官は古代史が御專門で、ちゃうどこの石舞臺古墳に埋葬されたであらう蘇我馬子が活躍した時代を熱心に教へてくださつた。大化改新は後世の作り事で、クーデターはあつたものの特にあの「改新の詔」は大寶律令を作る段になつてその原型として作られたものであるといふことを強く主張されてゐた。門脇禎二、井上光貞など歴史の大家の論文もずゐぶん讀んだ。が、それで懷かしいといふのではない。はつきりと言へば、私はあまり眞面目な歴史學徒ではなかつた。かういふと謙遜と思はれるかもしれないが、事情があつて授業以外には大學にゐることがなかつたし(授業も皆勤といふのでもない)、研究室での同級生や先輩との附合ひも必要最低限にせざるをえなかつた。何より、歴史といふものに興味を失ひつつあつた。續日本紀や令義解の購讀は豫習をしていかねばならなかつたが、あれで良かつたのかと思はれるほど不十分であつた。私の番が何度か廻つて來て解釋をしたが、そのことについては怒られた記憶がない。恩師とは今も手紙のやり取りをしてゐるが、歴史のことは話題に上らない。唯物史觀ばりばりの先生で、退官後故郷の市長選に市民派として出馬されたぐらゐだから、私とは思想的にはまつたく合はない。が、いつも眞劍でカンシャクモチだからすぐに怒られるが、好きなタイプの先生であつた。ある冬の日に、研究室に入るときコートを着たまま入つたら、「コートを着たまま、部屋に入るバカがあるか」と一喝された。常識を何も知らない二十一歳の私は、憮然としてコートを脱ぐしかなかつた。今となれば、かういふ大學教授は珍しいだらう。それから、卒論の口頭試問のときには、當時は原稿用紙に手書きで書いたのだが、私の書いた論文で「芥川龍之介」が「芥川襲之介」になつてゐたやうで、それを笑ひながら指摘された。そして最後に君の文章は論文といふよりエッセイで、近代史をやる連中には多く見られるものだが、リアリティがあつて良い、と言はれた。評價は「優」ではなかつたと思ふが、嬉しかつた。テーマは、内村鑑三であつた。下宿では内村鑑三と聖書とを自己流で讀んでゐた。
閑話休題。「懷かしい」から大學時代の話になつてしまつた。
石舞臺古墳に出かけたのは三度目である。一度目は、私自身が中學三年生のときである。飛鳥寺や龜石などあの邊りを一日中散策した。今から三十年ほど前である。二度目は、今から十年ほど前、九州にゐた頃、中學生の修學旅行の引率で行つたときである。早朝、フェリーが大阪南港に着き、そのままバスに乘込んで最初の目的地がこの石舞臺古墳であつた。どの觀光客よりも早く到着した中學生の一群は、受付の人から見たら、なんと熱心な學生さんだらうと思はれたに違ひないが、何のことはない。眠氣眼で仕方なくバスから降ろされた少年少女たちである。「見たことある」と大きな聲で(感動なのか)叫んだ生徒がゐたが、寫眞を撮つてぐるりと一周したら興味は盡きて、足早にバスに歸つていく、そんな生徒たちであつた。次は法隆寺、そして藥師寺だつた。それも懷かしい思ひ出である。
今囘車で出かけたが、ずゐぶん山の奧の方にあるのだなといふのが感想である。當時の日本の中心がこの邊りにあつたのかと思ふと、不思議な思ひにかられる。當り前のことであるが、一度都でなくなつた場所は二度と都にはならない。この飛鳥の里は6世紀後半の時代の遺物であるが、今は農村である。今囘抱いた懷かしいといふ感情は、古代都市への郷愁なのか、農村への郷愁なのか峻別するのが難しいものであつた。