言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

今日は元旦――秋入學の唖然

2012年01月23日 21時46分57秒 | 日記・エッセイ・コラム

   今日は、舊暦の元旦。中國や韓國では民族大移動が行はれてゐる。かつて韓國で新暦の正月を迎へたことがあるが、靜かなもので暦通りの街の樣子であつた。

   暦とは不思議なものだ。人間が作り出したものであるのに、不思議と自然の動きを的確に示してゐる。いやそれを言ふのなら自然の動きから生み出したものが暦であるといふのが正解だらう。しかし、その暦にも新暦と舊暦と西暦と年號とがある。世界中には色々な暦がある。それでゐて困つたといふことを聞いたことがない。

  人間が作るといふことは、それぞれの民族や文化によつて違ふものが生まれるといふことである。しかし、それでゐてそれぞれが交通し合へる、そこに普遍性がある。その程度の共通項さへ見出せればいいのではないか。何やら今は、世界を一つにといふことを急ぎ過ぎてゐる樣に思へる。

   日本の社會はいつから新暦になつたのか、おそらく明治時代からであらう。西暦を取入れた邊りからだらうか。近代化した中國や韓國が今も舊暦を尊重してゐるのなら、日本も舊暦で良いのではないか。

   東京大學が秋入學などといふことを言ひ出した。漱石の『三四郎』も眞夏に熊本から東京に向かふ車中を描いてゐる、明治の時代の大學生も秋入學だつたなどと、したり顏で書いてゐる新聞もあるが、果たしてそれでいいのだらうか。

   暦はその國の文化である。無理に國際化する必要はあるまい。

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ノートを取る――硬直化した思索、くつろぎなさい

2012年01月22日 21時43分28秒 | 日記・エッセイ・コラム

 大人になると、ノートを取るといふことがなくなる。それは大人とは学ばなくなつた世代のことだといふことの端的な例であらう。

 しかし、学んでゐるはずの子供たちも、どうにもノートの取り方が下手である。別に美しくきれいに取るのがいいといふわけではない。しかし、そんなことではいつかうに頭には入るまいといふ手つきでペンをノートに当ててゐるといつた姿をよく見かける。

 そんな生徒の日常を見てゐて、昨年の夏「ノートの取り方」といふ雑文をまとめるときに、アランのエッセイがふと目にとまつた。私の思ひとは別の次元で、この思索者がノートについて考へてゐることを知り、思はぬ収穫であつた。

 ――しかし、わたしは生徒の方に目をむけて、身動きもせずになんとなく心配げな注意によつて思惟のなかにすぐさまもたらされるあの空虚の観念ともいふべきものを形にあらはしてみたいと思ふ。だれでも、精神を硬直させる、あのほとんど血迷つたやうなにせの注意についてなにか思ひ出をもつてゐるものである。自分に対するかうした拘束はなんの価値もない。歯を食ひしばつてゐる人間は、行動するにはぎこちなくなつてゐるし、行動する前にもう疲れてしまつてゐる。硬直した思索者もそれと同じだ。観念をとらへるためには柔軟さが必要であり、そつと盗み見るといつた種類の注意が必要なのである。ずるさと微笑。くつろぎなさい。くつろぎなさい。

 たいへん結構なことだ。ただ、諸君が聴衆を、とくに若くて精力にみちあふれた聴衆を好き勝手にさせておくなら、かれはもはや何も学ばなくなるであらう。だが、わたしは、だれにもよく知られた動作で、くつろがせるもう一つの方法があることに気づいてゐる。読んではまた読む。暗誦する。急ぐことなく、むしろ彫刻家の慎重さをもつて書くのはさらにいいことである。美しいノートに美しい余白をおいて書く。充実した、均整のとれた、美しい文例を筆写する。かういつたことにこそ、観念のために巣をつくつてやる楽しいのびのびとした仕事がある。ここに書き方の体操ともいふべきものがあり、それは書体や筆致に見られるし、また教養の一つの印でもあるが、まづなによりも教養の条件である。

 精神のくつろぎを得る方法を、アランは知つてゐた。精神の緊張から逃げるためではなしに、再び挑むために、どうしてもその方法が必要であつたといふことである。

 「読んではまた読む」とは、速く読むといふことではない。「彫刻家の慎重さで」といふ卓抜な比喩がその意味を明瞭に伝へてくれる。

 ノートを取るといふことの大切な意味がここにはあるやうに思はれた。

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「寺内貫太郎一家」で正月

2012年01月09日 10時25分21秒 | 日記・エッセイ・コラム

寺内貫太郎一家 DVD-BOX 1 寺内貫太郎一家 DVD-BOX 1
価格:¥ 15,960(税込)
発売日:2006-02-24
  正月、歸省すると父親がどうしたわけか「寺内貫太郎一家」のDVDを借りてゐた。三話が一枚に輯録されてゐるのだが、どういふわけか自動再生がされず、一操作をしなければならない。それをどうして良いのか分からなかつたので見られなかつたさうである。「どうしたら見られるか」といふことになつて、やつてみた。説明書もなく、リモコンも見當らなかつたのだが、どうにか本體をいぢつてみると見られるやうになつた。それでつい見てしまつた。

  先日、朝日賞を受賞した横尾忠則が出てゐるのにはびつくりした。さう言へばさうだつたなと思つたが、このへたくそな役者は横尾忠則だつたかと今更ながら思つた。畫家なのであるからへたくそで構はない。寺内貫太郎といふドラマの何となく型破りな印象にぴつたりあつてゐる、横尾の出演も演出家の意圖なのであらう。

  笑へた。とても面白かつた。三話を續けて見てしまつたが、とても良かつた。箱根の驛傳も良いけれども、かういふ正月もまたいいなと感じた。

  このドラマを見たのは、中學生だつたと思ふ。樹木希林になる前の悠木千帆であつた時代の彼女の老け役が拔群であつた。動きは早くて決して老女のしぐさではないが、それがチャーミングでかういふ演技をできる役者が果たして今ゐるかどうか。私はさういふ方面に詳しくないから、もしかしたらゐるのかも知れないが、とにかく彼女の演技に見とれてしまつた。

  當時も笑つて見てゐただらう。その當時の私は内向的で鬱鬱としてゐたけれども、この番組は毎週見てゐたやうに記憶してゐる。ドラマを見ながら、その原作者向田邦子の、父親に抱いてゐたアンビバレントな感情を幼い私自身が理解してゐたとは思へないが、それでも話の所所に出てくる人情の蔭には惹かれてゐるところがあつたやうに感じる。かういふ作品は今のテレビドラマでも書かれてゐるのだらうか。昨年話題になつた「家政婦のミタ」は途中から見てゐたが、何だかトラウマ劇の變形を見るやうで、エログロではないがゆゑに家族で安心して見てはゐられるだらうが、心に沁みてくるものがなかつた。傷附いた人が他人の愛情で少しづつ瘉されてゆく、さういふ話である。悲劇であるが、主人公の悲しみを皆聞きたがり、心理學的なアドバイスで立直らせようとする。はつきり言へば、御節介である。だから、悲劇になり損ねてゐた。

  それに引き換へ、寺内貫太郎一家は喜劇である。悲しみを抱へてはゐるが、皆それについては押默つてゐる。その話題に觸れないことで悲しみを乘り越えようとしてゐる。そして笑つてゐる。見てゐるこちらも笑へた。もう三十年程も前のことであるが、今も見應へのある作品であることの發見は嬉しかつた。

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頌春

2012年01月01日 07時32分48秒 | 文学

平成壬辰(二十四)年

昨年の收穫(丸谷才一さんが文化勲章を受賞。『持ち重りする薔薇の花』読んだけれども、今ひとつ)

    ☆

メルヴィル『バートルビー』 あの『白鯨』の作者だから「新刊」とは言へないけれども、昨年留守晴夫氏が新たに翻訳したもので、ニューヨークに住む一風変はつたバートルビーといふ青年(代書人)が主人公の小説。ニヒリズムの一歩手前といつたところでどう生きるかがテーマ。現代的。面白い。

    ☆

中島義道『観念的生活』『人生に生きる価値はない』 カントの研究者であるが、私は専ら氏の書くエッセイを読む。哲学的な思考によつて現代社会をどう見(このことはいろいろな人がやつてゐるから珍しくない)、どう生きてゐるかが赤裸裸に書かれてゐる。後者を書く人はあまりゐないので必読の書。

    ☆

内田樹『呪いの時代』 とにかく昨年は内田樹をよく読んだ。同僚に勧められたのがきつかけで古書店でごつそりと買ひ、まとめて読んだ。『呪いの時代』は最新作。人を幸福にする祝福の言葉にたいして、現代は他者を破壊することを目的とした「呪いの言葉」が溢れてゐるといふ。なぜなら、自分を他人が正当に評価してくれてゐないと思つてゐる人が多いからだと分析する。――どうしませうか。

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