言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

中村文則の小説はなぜ不吉なのか。

2016年07月16日 13時03分25秒 | 日記

  中村文則の小説を読んでゐる。と言つてもまだ『土の中の子供』『悪意の手記』『遮光』の三冊である。次に読む本を決めてゐるが、三冊を読んで、少しだけ書きたいことが生まれた。

 芥川賞作品の『土の中の子供』は、受賞時に読んだので、すつかり内容は忘れてゐる。しかし、歴代の芥川賞受賞作の中では気に入つたものの一つだつた。

 

 今回取り上げるのは、それ以外の二冊。『悪意の手記』も『遮光』も青年が主人公。二人とも人を殺めるてゐる。それだけでも不吉ではあるが、それ以上にこの青年が、そのことをあまり後悔してゐる様子が見られない。一言で言つて「心の闇」と作者も言つてゐるやうであるが、その闇は、光が当らない場所といふよりも、自ら光から遠ざかつてゐるゆゑにできる闇なのではないかといふことである。光が当れば陰はできる。心の陰は立体的な人間像に光を当てれば当然できるものであり、奥行きを感じさせるものともなる。しかしながら、光を遠ざけてできる闇は、できなくてもよい闇であり、闇のための闇である。それが現代の青年心理のなかに生じてゐるがゆゑに、それを描いてゐるといふのは分かるものの、さうだとすれば、不吉以外にはない。

 自らで闇を作り出し、そこに生きることを決めた者には、もはや言葉が通じない。言葉が存在のすみかになり得ない空間に生きてゐる者には、気分の浮遊に頼るしかない。こんな「声」が記されてゐた。友人が主人公に問ひただした言葉への返答である。

「お前な、いちいちうるせえんだ。何なんだよ、一体、あ? 何なんだよって聞いてるんだよ。どうだっていいだろう? お前は馬鹿なんだよ。嘘つき嘘つきってお前言うけどさ、じゃあ教えるよ。嘘はな、ついてる人間も傷つくとかっていうだろ、罪悪感とか、何だか知らねえけど、でも俺はそんなこと、考えたこともねえんだよ。いや、考えたこともあったのかもしれないけど、何百回ってやってると、感じなくなるんだ。俺は何だって言ってやるし、何だってやれるんだ。俺の中はぐちゃぐちゃなんだよ。めちゃくちゃなんだ。何が本心かだってわからなくなるくらいに。嘘ついてる時な、お前も試してみればいい、心の奥がさ、たまらなくうずくんだ。うずいてうずいて、たまらなくなる時だってある。ん? 何だよ、何が言いてえんだよ。おい、何か言ってみろよ、ん? 」

 まさに不吉である。中村は、かう書きながら、かういふ青年の声によつて救はれる若者がゐることをわかつてゐる。訳のわからない情念に引きずられてゐる青年たちが、かういふ声によつて形が与へられ、少しずつ自分の心の闇に気づいていくといふことに期待してゐるのであらうか。

 近代150年の変化において、この心の変化以上に大きいものはないだらう。自我を発見し、自我が頼りないものであることに気づき、そしてそんなものはないと断言した今日の状況を、敏感な青年が感じ取りそれを極めて正確に自己像として演じてゐる。さういふことなのかもしれない。だとすれば、この不吉は社会のものである。中村文則を読まうと思つたのは、さういふことなのだらうと感じてゐる。

 もちろん、さうでない青年も多い。さういふ青年には読むべき本はたくさんある。だが、さういふ青年は現代作家が書く小説の主人公にはならないのだらう。そして、さらに皮肉なのは、中村文則の描く世界を必要とする青年が、果たしてこの種の小説を読むだらうかといふことである。中村に限らないが、読書する青年が主人公になる小説は、意外と少ないのである。

 

 

 

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