言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

日本語には主語はいらない・・・か問題

2017年01月31日 09時22分26秒 | 日記

 先日の研究会で、日本語には主語はいらないといふ話題になつた。それ自体には異論はない。「昨日本を買つた」と言へば、買つたのが私であるのは誰も分かるから、いちいち「私は」を入れる必要はない。

 あるいは、「昨日本を買つたぜ」「買つたわ」で性別も分かる。「買ひましてな」「買ひましてよ」で年齢も分かる。

 つまりは、日本語は述語の方が大事であるといふ話になつた。

 このことを私は修士論文で書いた。西田幾多郎や田邉元を援用して「述語的論理」と命名した。初出がどこかにあるかどうかも分からないので、コピーライトはないが(あるわけが無い)、ここから福祉の哲学を展開するアクロバットは強引だが魅力ある思考ではないかと勝手に思つてゐる。もちろん、だれも評価しないし、いや評価も何も社会に広めようといふ努力もしてゐないのだから勝手な被害妄想であるが、思はぬところで「述語的論理」といふことを話せたのは嬉しかつた。

 昨日の「ある」「ない」問題において、「ゐない」を「無」としてしまつたから存在論が分からなくなつたといふ人がゐた。しかし、「空」と「無」との違ひも不分明のまま、無と「ゐない」とを考へても概念のズレだけが強調されてしまつた。

 無とは、映像の映されてゐないスクリーンである。スクリーンは「有」る。つまり、映像がないのである。映像とは何か。それは述語である。述語である映像が映れば、主語であるスクリーンはいらない。あるいは映像が映されてゐればスクリーンがあることは明瞭である。あへてスクリーンが「ある」「ない」を問題にする必要はない。

 ハイデガーの存在論が日本人にピンと来ないのは、日本人はスクリーンを問題にしないからである。それこそが「日本語には主語はいらない」といふことの本質的な問題なのである。

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『日本語をさかのぼる』を読む。

2017年01月30日 13時48分42秒 | 日記

 日本語学の泰斗大野晋の著書である。初版が1974年であるから、40年以上も前の本である。

 私も大学で「国語学」を学んで以降、この分野の学問の状況は分からないので何とも言へないが、この日本語の語源研究がどういふ評価を受けてゐるのか知りたいが、否定肯定いづれにせよこの文献が出発点であることは事実であらう。

 とは言へ、そもそも日本語の語源を探るといふのが素人談義に見られかねない。語源などといふものはなんとでも言へるといふことをすでに大槻文彦『言海』が証明してしまつたので(「言海の限界」などと揶揄される)、学者は敬遠してゐる。

 語源研究は、それほど難しいといふことである。

 さて本書であるが、とても構への大きい立論である。漢字が入つてくる以前に、私たち(「私たち」と言つても、日本列島といふ共同体に共存してゐる人にさういふ意識があつたかどうかは措くことにする)が、どういふ言葉で世界を見、どうとらへてゐたのかといふことを目指しながら日本語の源流を探つてゐる。

 じつは昨日、在野の思想家を囲んでの「言語哲学研究会」に参加した。昨日の課題が本書であつたわけだ。各自が本を読んで来て、その方が一冊を解説し、事あるごとに議論を交はすといふスタイルであつた。詳細なレジュメを元に四時間。あつといふ間の研究会であつた。これだけのレジュメを作るのにどれほどの時間を要しただらうと思はせるほどのものである。

 大野晋に寄りかかりすぎで、もう少し批判的な見方があると良かつたが、国語学の専門家がゐたわけでもなく、それは仕方ない。

 大きく盛り上がつたのは、日本語には「ある」と「ゐる」との違いがあるといふことであつた。本書からは離れてしまつたが。

 日本語の「ゐる」には、「花が咲いてゐる」といふやうな使ひ方がある。一方「花がある」といふ言葉もある。「ゐる」は、発話者とその対象とが共に一つの世界に居合はせてゐるといふ意味である。ところが、西洋語には「ゐる」「ある」の違ひがない。だから、ハイデガーも人を表すのに「現存在(Da-Sein)」などといふ言葉を用ゐなければならかつたといふのだ。Seinだけでは、人も物も表してしまふことになるからだ。日本語なら「ゐる」で十分だ。

 そもそも存在論的問ひが日本人にはよく分からない。「ゐる」とは何か、といふことが分からないと言ふ。

 それが日本人の秀でた点だといふのが昨日の結論であつたが、それはどうかと思ふ。

 過去は消え、未来は見えないといふ時間の一点に立たずむ近代人の孤独な存在の意味を問うた実存的問ひを、私たちが克服してゐるとはとても思へない。

 本書の要約は不可能だ。こまかい言葉の一つ一つの語源は実際に読んでもらふしかない。しかし、かういふ本を読みながら語り合ふのはとてもいい時間だつた。

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図書館では声を出してはいけない。

2017年01月29日 08時50分53秒 | 日記

  漱石の『こころ』を読んでゐる。

 Kが恋の相談を先生にするのだが、先生もまた同じやうにお嬢さんへの恋こころを抱いてゐる。二人の間には気まづい空気が流れてゐて下宿での会話が滞る。そこで漱石は二人を図書館に連れ出す。

  洋書の雑誌を漁りながら課題のテーマを探す先生と、その先生に近づくKと。二人は再び話を始めようとする。

 

   その時、漱石は先生の口を借りて、「図書館では」といふことを書く。「ご承知の通り」と書いてゐるが、どれほどの人が図書館といふものを知つてゐただらうか。そして、本を声を出して読んでは行けないこと。あるいは声を出して話をしてはいけないといふことをどれぐらゐの人が知つてゐただらうか。

  漱石は、かういふ形で、日本の近代化を伝へてゐたのだらうと感じられた。

  読むべき本が洋書にあるものの、それはまだ手にするには及ばない。心の解決には届かないのである。漢籍なら家にある。しかしそれは新しい時代の人間関係を捉へてゐない。

  今回の読みの中で、この図書館の場面はこれまでにない印象を与へてくれた。

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早稲田大学の国語が横書きだつた!

2017年01月28日 09時59分03秒 | 日記

 昨日ご紹介した外山先生の『乱談のセレンディピティ』のなかに驚くべきことが書かれてゐた。

 今から五十年ほど前に早稲田大学で国語の入試問題を横組みで出したことがあると言ふのだ。さすがにその非をマスコミも感じたらしく、一斉に批難して一年で取りやめになり、元の通り縦組みになつた。

 公文書は横組みになり、世の中全体に横組みになるだらうと「進取の気性」に溢れる早稲田大学当局は思つたのであらう。なんといふ不見識であるか。文科省の役人の天下り先として教授職を準備する気質は、かういふところにも見え隠れする。早稲田の在野の精神とは聞いてあきれる。

 新聞は今のところ縦組みである。これは不思議である。横へ横へと意識が広がり、精神が平板化することを標榜する大マスコミも縦組みを捨てない。小説も横組みにするのは異例である。

 それに引き替へ漢字を失つた隣の国韓国の新聞はすべて横書きになつた。本も横組みである。儒教の精神が縦書きによつて保持されるといふことは文明史的問題である。書家の石川九楊氏がつとに言ふところであるが、ますます能率主義化する韓国の国民性はかういふことに現象化してゐると感じる。憂うべき問題である。

 国語は縦書きである。本は縦組みにすべきである。

 

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『乱談のセレンディピティ』を読む。

2017年01月27日 10時44分03秒 | 日記

 外山滋比古先生の前作に続く「セレンディピティ」ものである。

 セレンディピティとは、「思はぬ発見」といふことで、前作は「乱読」による新しい発見を取り上げてゐたが、今作は「乱談」といふことを契機に起きる新発見を取り上げてゐる。「乱談」といふのは造語であるが、専門家同士の話や、しやちほこばつたシンポジウムといふのとも違つて、気の置けない、多種多様な人との雑談といふことである。

 専門家同士だと揚げ足取りだつたり、知識の競ひあひだつたりして批判会になつてしまふ。それに対して乱談だと言ひたいことをそれぞれが言ひ合ふから新しい知見が生まれる可能性が高い。

 日本人は概してさういふ「サロン」を作るのが下手であるが、さういふことを作る人が上手い人がゐれば身近で作るべきだと言ふ。へえ、さういふものかなと思ふ。

 英語には、次のやうな言葉があると言ふ。

「All work and no play makes Jack a dull boy.」

 勉強ばかりしてゐると馬鹿になる、といふ意味らしいが、遊びの必要性を強調してゐるとのこと。学ぶことが本を読むことばかりになりがちな私たちには大事な教訓だらう。

 しかし、何度も言ふが、かういふ教訓を上手く引き出せたイギリス人や外山先生が、十分本を読んだからである。そのことを知らないでおしゃべりばかりしてゐては、本当に「愚かなジャック」になつてしまふだらう。

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