先日の研究会で、日本語には主語はいらないといふ話題になつた。それ自体には異論はない。「昨日本を買つた」と言へば、買つたのが私であるのは誰も分かるから、いちいち「私は」を入れる必要はない。
あるいは、「昨日本を買つたぜ」「買つたわ」で性別も分かる。「買ひましてな」「買ひましてよ」で年齢も分かる。
つまりは、日本語は述語の方が大事であるといふ話になつた。
このことを私は修士論文で書いた。西田幾多郎や田邉元を援用して「述語的論理」と命名した。初出がどこかにあるかどうかも分からないので、コピーライトはないが(あるわけが無い)、ここから福祉の哲学を展開するアクロバットは強引だが魅力ある思考ではないかと勝手に思つてゐる。もちろん、だれも評価しないし、いや評価も何も社会に広めようといふ努力もしてゐないのだから勝手な被害妄想であるが、思はぬところで「述語的論理」といふことを話せたのは嬉しかつた。
昨日の「ある」「ない」問題において、「ゐない」を「無」としてしまつたから存在論が分からなくなつたといふ人がゐた。しかし、「空」と「無」との違ひも不分明のまま、無と「ゐない」とを考へても概念のズレだけが強調されてしまつた。
無とは、映像の映されてゐないスクリーンである。スクリーンは「有」る。つまり、映像がないのである。映像とは何か。それは述語である。述語である映像が映れば、主語であるスクリーンはいらない。あるいは映像が映されてゐればスクリーンがあることは明瞭である。あへてスクリーンが「ある」「ない」を問題にする必要はない。
ハイデガーの存在論が日本人にピンと来ないのは、日本人はスクリーンを問題にしないからである。それこそが「日本語には主語はいらない」といふことの本質的な問題なのである。