教師といふのは一人でコツコツと修練を重ね、知識を重ね技術を磨き、それらを統合する人格によつて行はれる仕事だと理解してゐた。だから、できるだけ視線を内に向かせ内省によつて陶冶することを課してきた。
もちろん、それが前提であるとは今も変はらない。しかし、しだいにそれだけでは駄目ではないかといふことを感じるやうになつてきた。
なぜか。その契機は何か。
今の職場には、さういふ前提を持たない「教師」がたくさんゐるからであつた。知識が広く社会につながつてゐるものである以上、実のところ知識を重ねていくといふこととは、社会に深く通じていくといふことと同義であり、私自身が内向きになつてゐたと思つてゐたことは実は外にも通じてゐたといふことであるのに、真の意味で知識が一切の外部を拒否して孤立した言語空間を作り出しそこに安住してゐる人がゐることを知つたのである。それも一人二人ではなく、かなりの数である。
さういふ人の多くは、高学歴の人である。もしかして大学の教授会とはかういふ人たちの集まりなのかといふことがうかがへた。
しかし、かういふ人と「中等教育」といふ仕事をしていかなければならない。だから、最近になつて、この種の組織論、会議の精神論、コミュニケーション論を立て続けに読むこととなつたのである。
本書の中身は、タイトルとはちょつと違つてゐて、メンバー同士はどういふ関はりを持つことで成果を挙げていくかといふことがテーマである。私には会議の運営の仕方がとても参考になつた。
「出席者の参加の度合いをより均等に保つためにも、もっと『書く』ことを会議で有効に活用することをお勧めする」
この言葉が印象に残り、実戦してみた。会議とは話し合ふことと思つてゐる人が多いが、話すための練習をする機会も私たちの世代はこれまで持つたことがなく、正直上手くない。だから、「書く」ことが有効だといふのはその通りであらう。
会議のための会議ではお話にならないが、手段としての会議をうまく実践できれば、もう少し組織はまともになるのではないか。そんなことを考へて生きてゐる。