言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『「学び」で組織は成長する』を読んで。

2017年05月30日 14時07分06秒 | 本と雑誌

 教師といふのは一人でコツコツと修練を重ね、知識を重ね技術を磨き、それらを統合する人格によつて行はれる仕事だと理解してゐた。だから、できるだけ視線を内に向かせ内省によつて陶冶することを課してきた。

 もちろん、それが前提であるとは今も変はらない。しかし、しだいにそれだけでは駄目ではないかといふことを感じるやうになつてきた。

 なぜか。その契機は何か。

 今の職場には、さういふ前提を持たない「教師」がたくさんゐるからであつた。知識が広く社会につながつてゐるものである以上、実のところ知識を重ねていくといふこととは、社会に深く通じていくといふことと同義であり、私自身が内向きになつてゐたと思つてゐたことは実は外にも通じてゐたといふことであるのに、真の意味で知識が一切の外部を拒否して孤立した言語空間を作り出しそこに安住してゐる人がゐることを知つたのである。それも一人二人ではなく、かなりの数である。

 さういふ人の多くは、高学歴の人である。もしかして大学の教授会とはかういふ人たちの集まりなのかといふことがうかがへた。

 しかし、かういふ人と「中等教育」といふ仕事をしていかなければならない。だから、最近になつて、この種の組織論、会議の精神論、コミュニケーション論を立て続けに読むこととなつたのである。

 本書の中身は、タイトルとはちょつと違つてゐて、メンバー同士はどういふ関はりを持つことで成果を挙げていくかといふことがテーマである。私には会議の運営の仕方がとても参考になつた。

 「出席者の参加の度合いをより均等に保つためにも、もっと『書く』ことを会議で有効に活用することをお勧めする」

 この言葉が印象に残り、実戦してみた。会議とは話し合ふことと思つてゐる人が多いが、話すための練習をする機会も私たちの世代はこれまで持つたことがなく、正直上手くない。だから、「書く」ことが有効だといふのはその通りであらう。

 会議のための会議ではお話にならないが、手段としての会議をうまく実践できれば、もう少し組織はまともになるのではないか。そんなことを考へて生きてゐる。

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大学入試のたそがれ

2017年05月27日 09時36分12秒 | 日記

 先日、ここでお知らせした、新しいセンター試験の概容について、大手の受験情報企業の方と話す機会があつた。

 昨年すでに一部の高校生を対象にした試行試験も今回のやうな形式であり、今回見切り発車的な印象もあるが、ここまで明確にしたのだから大幅な変更はしないつもりだらうと語つてゐた。

 今はパブリックコメントを求めてゐる時期であるといふが、これについての異論をいくら書いても変へるつもりはないのであれば、今後は別の形で真の国語力とは何かを追求していく以外にない。

 それは全国国立大学協会(国大協)の意向である。

 つまりは、個別入試を充実してもらふ以外にないといふことだ。

 件の受験情報化企業の方も、あのやうな国語の出題形式ではこれまで培つてきた模試データはほぼ使へないことになるとのことだつた。したがつて0から作り直す必要があるのだが、それが間に合ふかどうかといふ不安が大きいとも語つてゐた。

 また個別大学入試を充実させると言つても、これまでの二次試験型のやうになるとは限らず、高校の側が大学の個別の変化に対応できるかどうかといふことも危惧してゐた。

 文科省の意図とはほぼ180度異なる状況を生み出してゐる、それが率直な感想である。

 昨日も前事務次官のほとんどスキャンダルと言つても良いやうなリンチと報復といふやうな醜態がテレビで報道されてゐた。その他、森友問題、天下り問題などなど、教育を司るには相応しくない機関になりつつある文科省には、すんなり御退室を御願ひしたいところだが、今さら大学入試センターといふ巨大な下部組織(天下り先)を解散させることなどできまい。

 そして学校教育が崩壊していく。まあそのときこそ私学の好機なのであるが、さうやつて国力が衰退し、強者と弱者とに二分されるといふのは決して望ましいことではないとも思ふ。

 文科省のオウンゴール、その愚かさに気づいてほしい、切なる願ひである。

 

 

 

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『勉強するのは何のため?』を読む。

2017年05月22日 21時11分49秒 | 本と雑誌

 熊本大学の苫野一徳准教授の本、三冊目である。あと何冊か買つたので機会があれば紹介したい。

 もうだいたいこの方の主張は分かつてきた。

 「勉強する」のは自由になるためである。しかし、その自由は他者の自由を否定するものであつてはならないから共通了解を造り出す必要がある。そのためには、対話の方法が必要である。それが「哲学」である。

 問題を抱へる人同士で話し合ふ場合に、決してしてはならないのは「問い方のマジック」である。正義の二者択一はたいがい間違つてゐる。教育において褒めるのがいいのか褒めない方がいいのかといふ場合、その問ひ方自体が間違つてゐるから議論をしてはならない。それが「哲学」の作法である。

 絶対的に正しいことなどないけれども、相対主義に陥らないやうにするためには、共通了解を見出すことである。そのためには互ひに「承認」と「信頼」とが必要である。

 この著者の本で今まで読んだなかでは一番読みやすかつた。書いたのか口述記録なのか分からないが、一文か二文で改行するといふ作り方が軽い感じを与へてくれたからであらう。内容が薄いといふわけではなく、とにかく読みやすかつた。

 ただ、この本を読むことで、無気力になつた生徒が眼の色を変へるかといふ視点でみると、それはないかなといふ思ひも拭ひ去ることはできなかつた。この切り口では決して迫れないところにゐる生徒たちがゐるといふことである。

 更なる実践論を期待したい。

 ところで、本書で知つたのだがロシア文学の文豪トルストイは自ら学校を作つてゐたさうである。こんなことが書かれてゐた。

「子どもたちがつかみ合いをしたりはげしい口論をしたりした時、教師は多くの場合、すぐに二人を引き離し、仲直りさせようとする。でも、思う存分ケンカをさせてもらえなかった子どもたちは、かえってお互いに恨みをつのらせることになる。」

 これは苫野氏の要約であるやうだが、なるほどといふ思ひと、現実にはこれは無理だらうなといふ思ひがある。「相互承認」を自らできるやうになることはとても大事であるが、「その場にゐた教師は何もしなかつたのですか」といふ声を打ち消すほどの信念が教師に共有されるかどうか疑問である。でも考へてみたい話題であつた。

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『ワクワク会議』を読む。

2017年05月21日 17時35分43秒 | 本と雑誌

 堀公俊氏の『ワクワク会議』を読んだ。

 会議の進め方、合意形成の仕方、いづれも今の職場では重要なスキルである。無手勝流に正論を主張し、意見が合はなければ決裂、その後は平行線を続けるといふのが、私の見たり聞いたり行つたりしてきた会議である。あるいは、上意下達の連絡会形式の会議も多かつた。しかし、それでうまくいく時代でもない。

 正解のない時代の集団の進路選択は、メンバーの知の総合によるしかないだらう。そして、その総合の過程において互ひに敬意が生まれ、活動の水準を上げていくといふことが必要である。

 誰かが「俺のやり方でやれ」と言ふことが全体最適の道を探ることにならないと断言はしないが、それが得てして個人最適の正当化であることが多い、いや多くなつてしまふのが現代である。

 「成功の復讐」とは、1990年ごろに言はれた経営コンサルタントの大前研一氏の言葉であるが、その意味はかつて成功したやり方が現在では通用しないことを分からない経営者がいつまでもそのやり方に固執してしまふが故に経営難を呼び寄せてしまふといふことであつた。

 その過ちから学ぶためには、会議の質を上げていくことが必要であらう。「プロセスデザイン」といふ言葉で集約できると思ふが、会議や組織をデザインする力が問はれてゐるのである。

 

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時事評論 5月号

2017年05月19日 11時39分32秒 | 日記

 「時事評論」5月号のお知らせ。

 今月号の内容は次の通り。 どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。
 1部200圓、年間では2000圓です。
(いちばん下に、問合はせ先があります。)

 1面島田氏の論は、まさに時論である。北朝鮮の飛躍的技術革新は脅威といふほかはなく、私たちの日常に暗い影を落としてゐる。もちろん、それは顕在化されることはあまりなく、何もなかつたかのやうな日常を送つてゐる。政府はきつと何か対策をしてくれるだらうといふ楽観と、それよりも景気だと言はんばかりの積極的勘違ひが、私たちの現在である。

 そんななか、金正恩こそ大量破壊兵器とし、その除去無しには問題の最終解決はないとする島田氏の主張は慧眼である。もちろん、殺害せよと単純に言つてゐるわけではなく、宮廷クーデターを画策せよといふ主張も、その可否はともかくなるほどと思ふ。武力による威嚇と経済制裁しかないとする、産経新聞の「正論」の主張よりは合点がいく。しかし、いづれにしても日本は蚊帳の外であるといふのは本当である。アジアにおいて果たす役割がいつまでもキャッシュディスペンサーであるといふのは、問題である

 3面は拙稿である。火の無いところに煙は立つ、これは長年感じてきたことである。人は自分の見たいやうに自他を見る。そこには火は必要ない。煙を立てれば、火があるやうに思へる(自動思考)からである。だから、人は煙を好む。それがうわさ話である。

 うわさで人を見る。さういふ過ちから私だけが免れてゐるわけではない。しかし、さう明言することによつて自己の言動に制限がかかる。だから、自己の分析を精緻にしようと思ふ。私の作法である。

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 朝鮮有事 トランプはオバマではない、ならば安倍は・・・

          福井県立大学教授 島田洋一

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戸別訪問解禁で政治家の室の向上を

  多すぎる「メッキ議員」「ニセ議員」

       アジア母子福祉協議会常務理事  寺井 融

   
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教育隨想

 教育勅語をタブーにするな(勝)

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「この世が舞台」

 『狐』D・H・ロレンス

       早稲田大学元教授 留守晴夫

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火の無いところに煙は立つ

     文藝批評家  前田嘉則

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コラム

  記憶の共有 (紫)

  頼るべき「他力」(石壁)

  AIには負けない(星)

  軍事同盟の空論(騎士)

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問ひ合せ

電話076-264-1119
ファックス 076-231-7009

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