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言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

ブログのお引越し

2025年05月10日 11時33分54秒 | 評論・評伝
読者の皆様へ

 この度、gooblogの閉鎖に伴ひ、ブログを引越すことに致しました。
 この際、止めてしまはうかとも思ひましたが、備忘録として、あるいは頭の体操として継続してもいいのではと思ひ、続けることと致しました。年々、更新の頻度が少なくなつてゐるやうに感じますが、フェードアウトの傾向は続くだらうと思ひます。
 時々は覗いてみてください。

 引越し先は、こちらになります。
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『松原正全集』第四巻 自衛隊よ胸を張れ  出来

2025年04月13日 15時06分02秒 | 評論・評伝
 
 松原先生の全集の第四巻が出版された。
 「自衛隊よ胸を張れ」である。
 「平和呆け」といふことを言はれて久しいが、今やそれが「呆け」であることを縷々述べたとしても、「平和以上に大事なことはないでせう」といふ大いに平和ボケである言葉を打ち負かすことはできないほど平和呆けである。
 ウクライナにロシアが侵攻しても、未だ憲法の改正の機運は高まらない。「何とかなるでせう」といふのがその気分である。
 気分とは対象がはつきりしないものへの感情であるとは、オットー・ボルノウの言葉であるが(対象をはつきりさせた時の感情は恐怖である)、恐怖を感じたくないために、対象をぼかしてゐるのではないかとさへ思はれる。その自己防衛本能が平和呆けの正体であらうか。
 本書の編者留守晴夫先生はその紹介文にかう書かれてゐる。
「自衛隊や軍事に纏はる驚くべき嗤ふべき『知的怠惰』の症例の数々を、『贋物のはびこる論壇から足を洗ふ覚悟』で痛烈に剔抉した、松原正渾身の自衛隊論」である。
 自衛隊を論じつつ、その本質はやはり道徳的であるとはどういふことか、といふことである。神のゐない私たちの国において「道徳的」であるためには知的であるべき、いや徹底的に知的であるべきであるといふのが松原氏の視座である。したがつて知的怠惰は道徳的怠惰、すなはち道義不在といふことである。
 その筆になるものを今の若者にも読んでもらひたい。
 本書の元になつた単行本は、1986年に出た。今から40年前である。その当時の販価は2,500円である。それが今日この全集で3,300円(税込)である。編者留守氏のその思ひは、出来るだけ多くの人に読んで欲しいとの願ひではないか。それに本全集には、原著にはない対談3本と講演1本、さらに41編のコラムが付されてゐる。
 是非ともご購入をと思ふ。

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今年の桜は万博公園

2025年04月05日 21時29分28秒 | 日記
 明日は大阪での仕事のため、早めに帰阪して万博公園に出かけた。
 人が多く、入口に至るまでが渋滞。公園駅の改札を出て左側の下りのスロープからすでに行列。こんな経験は初めて。しかし不思議に苛立つ気持ちは起きない。太陽の塔を眺めながらの牛歩と、隣の家内と不在の間の取り止めのない大阪での話を聞く時間とは、春の休日の過ごし方として大満足。
 持参したおにぎりとおかずとお茶を桜を見ながら食す。桜越しの太陽の塔の左後ろ姿はその時のもの。
 音に引き寄せられて行つて見た大道藝にしばし見入つた。ちよつと怪しいが自称22歳の青年のジャグリング藝は素晴らしかつた。しつかりお金を求めてゐた。それが良いと思つた。藝には金を払ふ。当然のことだらう。大道藝を軽く見てゐた自分の考への誤りに気づかされた。残念ながらその時の写真を撮り忘れた。
 最後に日本庭園に初めて行つた。これが良かつた。太陽の塔の周辺とは打つて変はつて静寂の相だつた。茶室に行つてお茶を一服いただいた。55年前の建物ださうで、和室の良さを感じた。
 今年も花見が出来た。有難い。
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白石一文『私という運命について』を読む

2025年03月30日 07時45分24秒 | 本と雑誌
 
 
 久しぶりに白石の本を読む。やはりいいなと思つた。入試の対策に追はれて面白くもない文章をこれでもかといふほど読み続けて来たが、春休みにやうやく読む楽しみを経験できた。
 1人の女性が主人公。職業人として活躍する女性である。恋愛を重ねていく中で、この人と結婚することになるだらうと予感しながら、さまざまな出来事が起きて破談になる。時々に出会ふ友人や知人との会話には、気の利いた雑学やら箴言やらがあつて、これが好きか嫌ひかで、きつと白石文学の評価が分かれるのであらう。私は明確に好きである。
 実際の私たちにおいて気の利いた会話や人生の真理を俯瞰するやうな言葉を交えた会話を日常的に出来るかと言へば、それはほとんど出来ないだらう。したがつて、こんな小説の会話はリアルではないのかもしれない。しかし、さうであるからこそ日常には倫理も論理も鋭く差し込まれて、時間の長い視野で語る言葉が必要だと認識させる小説があつて良いのではないか。白石文学は私にとつてはさういふ理想に気づかせる言葉の劇である。

 女主人公は最後には運命の人に出会ふ。それは10年前に本来なら結婚すべき人であつた。運命とは自分の努力や意志を超えたところに設定される人生の予定表である。それをヒリヒリとした感触で味ははせてくれた。
 それにしても、本作品の展開は悲しい予感がいつになく強く作用してゐる気がした。運命とは悲しい予定に兆されてゐるのであらうか。運命を予感した人々が語る言葉が「別れ」を予想し、強くも弱くも主人公はそれに抵抗してゐるやうに感じたのであつた。それを切に感じるだけに、読んでゐて今日はここまでにしておかうと読むのをやめることが何度もあつた。
 腐つた日常には、かういふ冷たい味はひが必要である。私の読書生活にとつてありがたい白石文学である。
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「教皇選挙」を観る

2025年03月29日 08時46分00秒 | 評論・評伝
 
 
 
 
 
 家内の実家の整理のために宮崎に来てゐる。
 最後の日は市内のホテルに宿を取り、観たい映画があればそれを観る。さういふことにしてゐる。といふのは、宮崎駅周辺の再開発で食事も映画も楽しめる場所が出来たからでもある。
 都会の生活に慣れてしまふとかういふ環境にむしろ親しみを感じる。田舎暮らしは私には向いてゐない。
 さて、今回はレイトショーで「教皇選挙」を観た。楽しみにしてゐた。映像も音楽も演出も2時間弱の時間が短すぎると感じさせるほど一体となつて観てゐる者を惹きつける。カソリックの伝統は、儀式と衣装と建築に凝縮されてゐるやうに思はれた。言葉の意味はよく分からないが、そこに2000年といふ時間の堆積を感じる重みがあつた。そしてそれがいかにも形式でしかないといふことも同時に感じさせるのである。
 といふのは、枢機卿と呼ばれる世界カソリックの大幹部たちのなんと俗人であるかがこれでもかこれでもかと示されるからである。ある者はタバコを吸ひ、ある者は酒を飲み、ある者は女と寝る。選挙であるから買収有り、ネガティブキャンペーン有り、政治的な駆け引きが繰り返される。これらが取材を元にした「真実」なのかどうかは分からないから、あくまでも映画のカソリックであるが、聖なる衣装と建物と儀式の環境にゐる人物が俗人であるといふのは真実らしくは見えた。
 先日、あるカトリック信者の親子と話す機会があつたが、息子がかう言つた。「神様つてゐるんでせうか」。すかさず父が「日曜日に教会に行つても神様を信じてゐる人はほとんどゐないですよ。皆んな政治的な動きをしてゐて、嫌になつてしまつてゐるんです」と語つた。それでも信仰を持ち続けるのは信じたいといふ気持ちがあるからであらう。どこまで深刻な問ひなのかは分からないが、息子の方には「ゐるよ」と言つておいた。イエスとその弟子との繋がりを見れば「ゐない」と言ふ方が難しい。

 さて、この映画の核心も、またこの神への問ひである。主人公は「教皇選挙(コンクラーベ)」を取り仕切る大枢機卿である。彼は神の不在を問うてはゐない。しかし、神への祈りに確信が持ててゐないのである。いやむしろ、確信こそ対立と闘争とを生むげんきょうではないか。確信を捨てよとさへ演説で話す。一言で言へば、相対主義への誘ひであつた。キリスト教でさへ相対主義を主張するとは危機的な状況であると思ふが、それが現在の「キリスト教の進歩」なのださうだ。多様性と言ふ音調で全編が貫かれてゐた。
 さて、誰が教皇に選ばれたのか。それは観てのお楽しみであるが、上に書いたやうな音調で最後の調べが奏でられてゐる。
 面白かつたが、「教会」の反応が気になつた。
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