言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

時事評論石川 2024年6月20日(第842)号

2024年06月19日 20時39分00秒 | 告知
今号の紹介です。
 先日、台湾に留学希望者のお手伝ひを仕事とする若き青年にお会ひした。昨年に引き続き二回目で、札幌からやつて来られた。一時間半ほど話したが、じつに清々しい気分になつた。さう言へば、去年もさうだつたなと思ひ出した。かういふ気分になれる人は、あまり日本人にはゐないなといふ気がした。北海道大学に留学生としてやつて来て、修士号を取つたあと、今度は日本人で台湾に留学したいと思ふ人を支援したいといふやうになつたらしい。私が高校生ならこの方を頼つて台湾に留学してみたいなと思ふほどであつた。

 日本人の欧米志向は、今もまだ強い。アメリカ経済に陰りが見えてインドを含めたアジアの世紀はすぐそこに来てゐるといふことを頭では分かつてゐるのに、やはりアメリカに留学したがる。そこには今も魅力があるからなのだらうが、アメリカに全振りせずとも留学希望者のせめて三分の一の人間ぐらゐはアジアに行つてもいいのではないかと思ふ。あまりにも欧米志向が強すぎる。
 今年は、昭和99年、明治157年。まだまだ欧米崇拝の気分は強い。

 さて、一面は、蔡英文台湾前総統へのオマージュである。「比類なき覚悟」をもたれたこの宰相を戴く台湾を羨ましく思ふ。刃を向く相手を持つた国ならではの「人物」の出現なのかもしれないが、それは我が国の状況も同じである。にもかかはらず、日本の宰相の体たらくと来たら如何。悲しく思ふ。
 一面コラムの「北潮」に加藤かけいの句が引用されてゐるが、それにならへば、奴ごときが日本国の舵を取り、である。

 ご関心がありましたら御購讀ください。 
 1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)
            ●   
「比類なき覚悟」をもった宰相―—蔡英文前台湾総統が歩んだ道
    日米台関係研究所理事 梅原克彦

            ●
コラム 北潮(葱ごときが九頭竜川を流れをり)
            ●
慰安婦問題に終止符を打て‼ 火をつけた不始末は日本人自身の手で消せ
    麗澤大学国際問題研究センター客員研究員 長谷亮介
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教育隨想  元寇七五〇年目の日本(勝)
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トランスジェンダー「汚染」された東京大学
    コラムニスト 吉田好克
            ●
コラム 眼光
   空疎な「外国人との共生」(慶)
        
            ●
コラム
  日中韓首脳会談の意味(紫)
  要人の危ない空の旅(石壁)
  佐渡金山の世界遺産登録(男性)
  選挙と我々(梓弓)
           
  ● 問ひ合せ     電   話 076-264-1119  
         ファックス   076-231-7009
   北国銀行金沢市役所普235247
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いとうみく『夜空にひらく』を読む

2024年06月11日 21時27分48秒 | 評論・評伝
 
 ネットで児童文学を探してゐて見つけた本である。読み終はつて、いい本に出合つたと感じてゐる。
 母に捨てられた少年が主人公。複雑な生ひ立ちが災ひしたのか、心が張り詰めるとつい手が出てしまふ。職場で嫌がらせを受けたことで、その職場の先輩を殴つてしまふ。傷害罪で訴へられて家庭裁判所に送られた。そこでの審判は、試験観察といふ処分になつた。
 そんな少年を迎へたのが花火制作の工場(正確には煙火店といふらしい)であつた。その家の主人もまた、複雑な経験を持つた人である。長男を無免許でバイクを運転してゐた少年にひき逃げされてゐたのだ。家族でスーパーに買ひ物に来た時に、車から奥さんが長男を下ろして少し目を離してゐた瞬間のことであつた。罪ある少年に息子を殺されたのに、罪ある少年を迎へ入れる試験観察の引き受け手になるとはどういふことか、妻と夫との間に亀裂が入る。そして三年後夫婦は離婚する。さういふ経験を経ながらも、主人は試験観察の引き受け手を続けてゐる。
 そこへ来たのがこの主人公の少年である。

 「夜空にひらく」といふタイトルにあるやうに、少年は次第に心を開いていく。夜空であるから、まだ影があるのかもしれない。読み終はつてもこの少年の心が解き放たれたとは感じられない。しかし、それでよいのではないか。傷は癒されても無くなりはしない。その傷跡が、その人物を大きくしてくれることもある。この少年の未来にそんなことを予感して、しばらくは続く葛藤、憂患と付き合つていつてほしいと願つた。

 在り来たりの成長物語なのかもしれない。しかし、私にはよい読書経験だつた。
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『大人のための公民教科書』を読む

2024年06月10日 16時40分33秒 | 本と雑誌
 
 今日も本の紹介である。高木書房刊の新著である。
 著者は、新しい歴史教科書をつくる会の理事をされてゐる小山常実氏である。

 現代日本には数々のウソ話があると言ふ。その中でも特に問題なのが、次の五つ。
1 日本は侵略戦争を行い、数々の国際法違反を行った戦争犯罪国家である。
2 「日本国憲法」は憲法として有効に成立した。
3 「新皇室典範」は皇室典範として有効に成立した。
4 日本政府が発行している大量の国債は借金だから日本は財政破綻する。
5 人間活動により地球温暖化問題が生じている。

 そして、本来「公民」の教科書は、それらのウソ話を排し、日本人のあるべき姿を示すものである。それが著者の訴へである。全くその通りである。
 にもかかはらず、それは多くの人々に共有されてゐない。日本国民は市民の集合であつて、公民ではないといふことである。
 しかし、私人がいくら集まつても公民ではない。砂をいくら集めても塑像にはならないのと同じである。さうであれば市民に公民教育をせずに、「私」はいつ「国民」になるのだらうか。共同体は自然発生的に生まれるものだ。親子関係、家族、親族、それらは生まれた瞬間に決まる(もちろん、だからと言つて何もしないでいいといふことにはならない。著者が1章を使ひ、その維持と健全化に費やしてゐる通りである)。しかし、国家は人為によるものであるから、「あるべき姿」を伝へなければ維持発展はできない。さういふ当然の手続きを疎かにしてしまつた結果、「国家」は蔑ろにされ、政治家は国民に丁寧語を使ふやうになり、国防は自衛隊といふ公務員の仕事といふ「役割分担」で片を付けてしまふやうになつた。それが戦後社会の正体である。
 著者は、そこにやり切れない怒りを抱いてゐる。そして、その怒りを感情にして流すのではなく、理路整然と何が間違つてゐるのかを記述していく。この労作は、その集大成である。
 なほ、恥づかしながら私は本書によつて井上孚麿(いのうえ・たかまろ)の憲法無効論といふものを初めて知つた。自分の無知を恥ぢると共に、その学恩に感謝する。

 この見ゆる雲のはたてに君ありと思ふ心はたのしかりけり  井上孚麿
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『日本が闘ったスターリン・ルーズベルトの革命戦争』を推す

2024年06月09日 10時21分26秒 | 評論・評伝
 

 版元の高木書房の斎藤信二さんから送られた書籍である。著者は、国際近現代研究家の細谷清氏である。知つて見ると、社会工学者の故目良浩一氏と共に「歴史の真実を求める世界連合会」を設立された方であつた。
 現代の戦争は、弾薬と戦闘によるものであるよりも前に、歴史観によつて行はれてゐる。現今のウクライナ戦争も、きな臭い台湾へのシナの戦略も、朝鮮半島の南北の対立も、いづれも歴史観闘争が水面下では繰り広げられてゐる。
 その暗渠は、日米戦争にもつながつてゐる。著者は「なぜ、どの様に、戦争は起きたのだろう」といふことを調べていくうちに、さう確信を得るやうになつた。米国が傍受解読した電報はルーズベルトによつて内容の変更が許可され、スターリンに渡ることも許してゐたのではないか。ルーズベルトの陰謀と、スターリンの野望に、当時の日本政府は無知であり過ぎた。
 さういふ怒りも著者の根底にはあるだらう。昭和99年。来年は100年である。この時期にさうした真実を明らかにし、二度と同じ過ちを繰り返したくない。さういふ覚悟が伝はつて来る。
 
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村田沙耶香『信仰』を読む

2024年06月08日 08時52分57秒 | 評論・評伝
 村田沙耶香と言へば『コンビニ人間』(2016年 芥川賞)であるが、1979年生まれのこの作家(つまり、現在45歳)にとつて、『しろいろの街の、その骨の体温の』(2012年)が今のところの代表作と言へるかもしれない。
 この2022年に書かれた『信仰』も、全く真実味を感じられない。「原価いくら」が口癖の主人公が、現実志向でブランド物や飲食店の値段のつけ方に違和感を抱きながら、友人が始めたカルトに惹かれていくといふのが筋立て。理性的な性格の持ち主が、一週回つて反理性に行きつくといふのは、人間の逆説としては面白いが、そこには「本当さ」がない。言葉遣ひの誤りと言つてもよい。つまり、これは「信仰」の物語ではなく、「詐欺」の物語であり、どう控へ目に言つても「信じる心」を弄んでゐる者の物語ぐらゐであつて、「信じて仰ぐ」といふ精神の営みにはなつてゐない。たぶん、作者自身が信じたこともなく、懐疑するだけの理性を「信じ」てゐるからだらう。
 この短編集から感じるのは、知の遊戯、知の迷宮であつて、信じることの葛藤や現実による引き裂かれるほどの焦燥を体験したことがないといふ冷静さである。かつて大江健三郎が「信仰のない者の祈り」といふことを言つたが、それと同じである。一言で言へば「いいきなものだ」といふ感想しかない。
 星新一の短編集に漂ふ気持ち悪さ、不吉さ、それと同じ印象を受けた。これが現代文学だといふ自負が作者にあるのだとすれば、「ああ、さうですか」と言ふしかない。
 


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