言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

君はいいな。 彼らは走っているのに、君は走っている人間を、散歩しながら眺めているような男だ。

2024年11月03日 08時25分55秒 | 評論・評伝
 
 この文は、小川国夫全集の第3巻の「編集後記」の中にある。小説仕立てなのか、随筆なのかは分からないが、「後書に代えて」と題された文章の中の一節である。
「私」は、「妙な誤解だが、そう見えたのなら、そうとしておけばいい」と記してゐる。
 得てして人は自分の姿を他人に映してしまひやすい。この友人も「私」が毎日散歩してゐる姿を羨ましいと思ひ、それが募るあまり「私」への非難を口にしてしまつたのであらう。「散歩できない(仕事に追はれゆつくりできないことへの)不満」を抱へてゐるのである。それは「眺める」といふことに「人間の本質を見極める」といふ意味があることを知らず、楽をしてゐると見てしまつたのである。つまり、友人にとつての仕事とは「眺める」ことではなく「走る」といふことであり、「走る」ことをしてゐない人間は「仕事をしてゐない」といふことなのである。
 仕事にはさまざまな位相があることを知らず、自分の仕事観でしか捉へられない。それは自他にたいして平等に差し向ける「評価」であるから、友人にとつての「私」の姿は、「仕事をしてゐない」といふことになる。しかし、それは「私」の姿ではない。「自分の姿を他人に映す」とはさういふ意味である。「眺めてゐるだけの人」は友人にとつては「仕事をしてゐない人」である。その友人は「走る」ことでしか「仕事」を理解できないのである。そして、さういふ「評価」で自分も見てゐるから、自分が「散歩する」「眺める」ことを許さないのである。
 
 小川国夫の文章を読みたくなつた。
 
 
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追悼 西尾幹二先生

2024年11月02日 08時40分33秒 | 評論・評伝
 西尾幹二が亡くなられた。長年、愛読して来た「西尾幹二のインターネット日録」の11月1日には

令和6年、11月1日午前4時2分
西尾幹二先生が永眠されました。

と書かれてゐた。享年89
 最晩年の著作は読まなくなつてしまつたが、30年前、私の人生の危機とも言ふべき時期を支へてくれた文章家の御一人であつた。今手元にある『智恵の凋落』を繙くと、昭和45年ごろに日本は「未曽有の激変期」を迎へたと記してゐる。私は昭和39年生まれで、その「智恵の凋落」を書かれたのが昭和60年である。
 整理すれば、
 1945年 大東亜戦争敗戦
 1965年~1970年 未曽有の激変期  
 1985年 「智恵の凋落」執筆

 私は、西尾幹二の見立てによれば、「激変期」直前に生まれたことになる。時代は1991年にソ連滅亡を経て、左翼勢力が衰退していくが、私の大学時代はその共産主義勢力の最後のあがきの時期と重なり、自治会を支配し、生協と組んで大学を包み込んでゐた。教室で論争をしたことも懐かしく思ひ出すが(西尾さんは私の卒業した大学の講師もしてゐた。時代は異なるが)、「敵」は明確だつたので、「日本の未曽有の激変期」はとうに過ぎてゐたことを感じなかつた。
 それが1995年には世の中も、私自身も「混沌」として来てゐた。その頃に読んだのが「智恵の凋落」である。西尾さんが執筆されてから実に十年が経つてゐた。何といふ鈍さであるか。
 敵はもはや左翼ではなく、文明の危機なのであつた。
 この論考は、次の文章で終はる。

「高度産業社会の達成とともに、日本人も好むと好まざるとに拘わらず、神なき地平で自分が試されるこの不安、無限の自由の中での自由喪失の境位に放り出される日を迎えつつあるように思える。」

 私の危機もまさにその通りであつた。しかし、そこから40年経つた今日の状況は、「不安」すら感じない、「自由喪失の境位に放り出され」たことさへ感じてゐない。
 かういふ時代においてどう生きるべきか。それが「神なき地平で自分が試され」てゐると自覚することから始めねばならないと考へてゐる。
 
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時事評論石川 2024年10月20日(第846)号

2024年10月21日 21時02分14秒 | 評論・評伝
今号の紹介です。
 やうやく涼しい季節がやつてきた。一昨日、エアコンが壊れた。運よくといふのだらうか。苦しまずに残暑を送ることができた。
 四面コラムの「死刑制度」についての議論は、たいへん面白かつた。日本はもちろん死刑存置国である。それに対して世界の潮流は死刑廃止論だといふ人がゐる。果たしてさうだらうか。以前、テレビで竹田恒泰氏が語つてゐたが、フランスでは凶悪犯罪者で警察に対して発砲したり、人質を殺害しさうだったりしたときには、その場で射殺する権利があると言ふ。さういふ国で死刑制度がないといふのは分かる。しかし、それもなく、殺人者の人権だけを論ふ日本の死刑廃止論には私は与せない。「冤罪に苦しむのは死刑囚だけではない」から死刑制度は維持するといふのは理屈にもなつてゐないが、死刑制度の存置に異存はない。
 
 ご関心がありましたら御購讀ください。 
 1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)
            ●   
「背信の石破」首相が誕生してしまった
    福井県立大学名誉教授 島田洋一
            ●
コラム 北潮(福田和也『人間の器量』)
            ●
共産党にとっての「野党共闘」はわが身を太らせるための方便
    元共産党板橋区議 松崎いたる
            ●
教育隨想  中国日本人学校児童の相次ぐ受難
       ――石破首相は中国に謝罪させよ(勝)
             ●
アメリカにおける政治と宗教 すべてキリスト教の中で
    麗澤大学准教授 モーガン・ジェイソン
            ●
コラム 眼光
   「保守」「安倍」を遠ざける自民党(慶)
        
            ●
コラム
  日韓の核武装(紫)
  安易な死刑廃止論を排す・冤罪に苦しむのは死刑囚だけではない(石壁)
  石破新総裁は北朝鮮拉致被害者全員の記憶を目指せ(男性)
  嗚呼、石破茂!(梓弓)
           
  ● 問ひ合せ     電   話 076-264-1119  
         ファックス   076-231-7009
   北国銀行金沢市役所普235247
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平和について

2024年10月20日 09時45分45秒 | 評論・評伝
 NHKの朝のドラマは、たいがい終戦記念日を取り上げる。あたかもそれを抜かしてはいけないといふコードがあるかのやうである。
 そして、そのトーンはいつも「二度と戦争は起こしてはいけない」といふものである。そのことについて異論はない。しかし、である。
 いつもそれは「戦争を起こしたことへの糾弾」と「戦争は平和の敵であるといふ確信」に貫かれてゐる。
 そこに私は「いい気なものだな」といふ残念な思ひを抱く。これが日本人の多くの人が抱く「平和観」だとすれば、疎外感すら感じるのである。
 第一に、朝ドラ的平和観が間違つてゐるのは、「私は戦争を起こすことはない」といふ自信の根拠の薄弱さである。第二に、「戦争は平和の敵である」といふ思考の根拠の貧弱さである。
 戦争といふものが起きてゐる理由を、今日のロシアやハマスの例で考へれば分かりやすい。戦争の動機は絶えず「正義」にある。自分の考へに正義を感じるからこそ、人は他者に対して攻撃的になれるのである。これは個人対個人に対しても言へる。身近なところにそんな人はいくらでもゐよう。正しい考への所有者は唯一「私」だけであり、その考へに対する異論はすべて「愚論」「邪論」「不正義」である。したがつてそれらは攻撃すべきといふ思考に導かれてしまふのである。私はさういふ攻撃をこれまで何度となく受けて来た。しかし、それを仕方ないと諦めてゐる。人が正義を掲げる存在である限り、「戦争はなくならない」からである。松原正がつとに論じてゐた通りである。さうした「自己」に対する厳しい省察がない戦争否定論は、お気楽なものとしか思へない。
 戦争は、平和の敵であるか。その考へも極めて幼稚である。もちろん、平和
とは戦争のない状態ではある(福田恆存)。しかしながら、戦争の対義語は平和ではない。戦争の対義語は=無防備といふことである。つまり、平和を維持するには戦力が必要である。その考へを放棄することが、戦争を招くといふことである。ロシアが、ウクライナがやすやすと降伏はしないだらうと踏んでゐれば戦争は起こさなかつた。ハマスはイスラエルがあそこまで報復をして来るとは思はなかつたからあのやうなテロを起こしたのである。つまり、戦争は平和を維持しようとしないところに訪れるのである。ここでも「自己」に対する厳しい省察が足りないから、戦争は平和の敵などといふ極めて貧弱な等式を信じてしまふことになる。
 9月までやつてゐた朝ドラ「虎に翼」を視聴し続けたが、場面場面では心に残るものがあつたものの、「戦後平和主義」の岩盤に支へられてゐる幼稚な学芸会を見せられてゐるやうな不快さがあつた。
 戦後80年経つて深く傷ついてゐる自我(だからこそそれに正対して省察をすることができてゐないのだらう)の修復にはまだどれぐらゐの時間がかかるのであらうか。
 


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時事評論石川 2024年9月20日(第844・845)号

2024年09月23日 15時59分09秒 | 評論・評伝
今号の紹介です。
 久し振りの更新。
 今朝はやうやく涼しい風が立つてゐた。エアコンをつけずに過ごせたのはいつぶりだらうか。暑い夏がやうやく終はつたかのだらうか。
 私が愛読してゐるこの時事評論石川は、その名の通り金沢市に発行元がある。加賀も能登も昨日までの雨で年始の地震の避難場所が再び災害に襲はれてゐる。何といふことだらうか。何の理由もなくかうした災害に襲はれるといふのが自然災害なのだけれども、それでもどこかにその理不尽さへのやりきれない思ひをぶつけたくなる。その思ひを共有することはできないけれども、その思ひが未来への蓄積になることを祈るばかりである。

 さて、三面の照屋氏の論考が光る。マッシウ・アーノルドの「Culture and Anarchy」を『文化と教養』と訳してゐらしたところ、今に至つて一般に訳されてゐるやうに『教養と無秩序』と改めたとのこと。それ自体、興味深い変更であるが、つまりは「教養」といふものが曖昧なものではなく「ごまかしのきかないものが存在と行動の基底に据えられたときにはじめて発揮される力、人間としての実力と称せられるべき力のこと」と思へたからであると言ふ。
 さういふ観点で見ると、教養といふものの前に立ちはだかつてゐるのは、まづはデジタル化の進化と発展である(これについてはあまり論じられてゐない)。二つ目は、「事物をあるがままに見ないことが武器化されてゐること」である。その具体例がプーチンや習近平である。
 私たちは物事を「あるがままに見る」といおふことが果たしてできるのかとの疑問はある。主観を通じてしか対象は捉へられないからである。さうであるからこそ、偏見と悪意とに満ちた武器としての「誤解」をただすことは重要である。プーチンや習近平や、彼らを称揚する一部日本人の輩の目は「事物をありのままに見る」意識はなく、事物を恣意的に見ることに徹してゐる。それが反教養主義である。自分は間違つてゐるかもしれないといふ意識は微塵もない存在を「権威」として奉る権威主義国家とは、21世紀の鬼子であらう。
 さういふなかで、私たちの国はどうあるべきか。今週末には自民党総裁が決まるが、さういふ意識に貫かれた人物が選ばれることを期待してゐる(投票権はないけれども)。
 
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 1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)
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国家百年の計を語り、日本を守れ
  権力を持ったリーダーにしかできぬこと
    韓国研究者 荒木信子
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コラム 北潮(ロマン・ロラン「ミケランジェロの生涯」)
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新首相は歴史戦で確固たる態度を
    麗澤大学客員研究員 長谷亮介
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教育隨想  早田ひな選手とアンドレ・マルローの言葉(勝)
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反教養主義の大波 教養の前に立ちはだかるプーチン・習近平
    早稲田大学名誉教授 照屋佳男
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コラム 眼光
   何が問題なのか(慶)
        
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  観光立国でよいのか(紫)
  命名に御用心・「名前落ち」と「名前負け」(石壁)
  祝 佐渡金山世界遺産登録(男性)
  外交音痴と茶番(梓弓)
           
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