今号の紹介です。
久し振りの更新。
今朝はやうやく涼しい風が立つてゐた。エアコンをつけずに過ごせたのはいつぶりだらうか。暑い夏がやうやく終はつたかのだらうか。
私が愛読してゐるこの時事評論石川は、その名の通り金沢市に発行元がある。加賀も能登も昨日までの雨で年始の地震の避難場所が再び災害に襲はれてゐる。何といふことだらうか。何の理由もなくかうした災害に襲はれるといふのが自然災害なのだけれども、それでもどこかにその理不尽さへのやりきれない思ひをぶつけたくなる。その思ひを共有することはできないけれども、その思ひが未来への蓄積になることを祈るばかりである。
さて、三面の照屋氏の論考が光る。マッシウ・アーノルドの「Culture and Anarchy」を『文化と教養』と訳してゐらしたところ、今に至つて一般に訳されてゐるやうに『教養と無秩序』と改めたとのこと。それ自体、興味深い変更であるが、つまりは「教養」といふものが曖昧なものではなく「ごまかしのきかないものが存在と行動の基底に据えられたときにはじめて発揮される力、人間としての実力と称せられるべき力のこと」と思へたからであると言ふ。
さういふ観点で見ると、教養といふものの前に立ちはだかつてゐるのは、まづはデジタル化の進化と発展である(これについてはあまり論じられてゐない)。二つ目は、「事物をあるがままに見ないことが武器化されてゐること」である。その具体例がプーチンや習近平である。
私たちは物事を「あるがままに見る」といおふことが果たしてできるのかとの疑問はある。主観を通じてしか対象は捉へられないからである。さうであるからこそ、偏見と悪意とに満ちた武器としての「誤解」をただすことは重要である。プーチンや習近平や、彼らを称揚する一部日本人の輩の目は「事物をありのままに見る」意識はなく、事物を恣意的に見ることに徹してゐる。それが反教養主義である。自分は間違つてゐるかもしれないといふ意識は微塵もない存在を「権威」として奉る権威主義国家とは、21世紀の鬼子であらう。
さういふなかで、私たちの国はどうあるべきか。今週末には自民党総裁が決まるが、さういふ意識に貫かれた人物が選ばれることを期待してゐる(投票権はないけれども)。
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