言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の力が弱い

2020年12月31日 11時27分17秒 | 評論・評伝

 今年一年を振り返つて昨日は個人的なことを書いたが、今日は大きな構へで書いてみる。

 今年はなんと言つてもコロナ禍の一年であつた。欧米と比べればあまりの罹患者の少なさにも関はらず、その上を下への大騒ぎは極めて「日本的」で、それが印象に残る。あのアベノマスクはその象徴だらう。安倍総理だけがそれをしてゐた風景と記者会見でのあの不細工な姿とは、そのまま世界の中の日本の絵であり、日本人のありのままの鏡像である。

 その連想で言へば、志村けんや岡江久美子は大東亜戦争の末期に海に散つた特攻の戦士の姿と重なる。もちろん、彼らの意思によるものではないが、その命の散り方には凡百の平民である私たちにはない覚悟のやうなものを感じる。死して警告を発する姿なのである。

 かつて松原正先生が岸信介から聞いた話としてよく話されてゐたのが、「戦後の政治家はペンに弱くなつた」といふことである。「大衆に寄り添ふ」といふことを民主主義時代の政治家の理想像のやうに思ふ政治家が増えれば、それはさういふことにならう。なぜなら、ペンは大衆の武器だからである。

 与野党を越えて、今日の政治家は大衆の声を代表する存在になつた。もちろん、これは皮肉である。大衆が正しくなければ、政治もまた不正になる。民主主義の定義である。もしそれが嫌だと言ふのであれば主権者たる国民が正しくなるにしくはない。国民主権を選んだ上で国民自身に浄化の仕組みがないならば、主権を相対化する権利を誰かに譲渡する必要がある。なぜそんな当たり前のことが分からないのか。ジョン・アクトン卿の言葉として頭では「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する」といふことを知つてゐても、主権者である国民が「腐敗する」とは金輪際思はない。滑稽である。腐敗する国民を誰が質すのか。それが政治家の役割である。しかし、「大衆に寄り添ふ」政治家にそれは果たせない。つまり、「寄り添ふ」とは「迎合する」といふことであり、「次の選挙もよろしくね」といふゴマすりでしかない。さうなれば、民主主義は腐敗するのは当たり前である。

 今年は、さういふ一連の経過を早送りで見せられたやうな感じがする。しかも、この船からは降りられない。漂流してゐるのを見続けるしかないのである。私もまた漂流してゐる当人である。

 かういふ時代は、きつと今始まつたことではないのだらう。今年は、三島が自裁して50年である。彼の心境も同じであつた。そして、「言葉は空しい」と晩年もらした福田恆存もまたさうである。三島ほどに憂色は濃くはないが、絶望してゐた。日本人の語る言葉がどんどん弱くなつてゐる。明るくて軽い、その場だけに通用する、心地よい言葉が好まれる。暗くて重い、時代を超えた胸に突き刺さる言葉は嫌はれるのだ。さういふ言葉が、力のある言葉であることを忘れてしまつたかのやうにである。

 文学の文章もまた同じである。文学の言葉には力がなくてはならない。今年の小説のベストセラーは凪良ゆう『流浪の月』であるといふ。果たしてこの作品を読んだ人がどれぐらゐゐるだらうか。本屋大賞受賞作品といふことなので、書店員が選んだ本として大衆の好む面白い本なのだらう。本の紹介には「せっかくの善意をわたしは捨てていく。そんなものでは、わたしはかけらも救われない。愛ではない。けれどそばにいたい。新しい人間関係への旅立ちを描き、実力派作家が遺憾なく本領を発揮した、息をのむ傑作小説」とある。それで、この作品が50年後読まれるだらうか。いや5年後に読まれてゐるだらうか。言葉の力が弱いとはさういふことである。「私は淋しい人間です」と『こころ』に漱石が記したのは1914年、100年以上前である。今日の小説家がそれと同じ感慨を記すには深い精神の構へがなければなるまい。果たしてそれがあるのだらうか。言葉の力が弱くなつてゐる。このことはむしろ文学にこそ言へる。だから、私はある文藝評論家がひたすら安倍晋三を持ち上げてゐることを訝る。その営みは文学のものか。言葉を道具として使つてゐないか。彼もまた、相手を攻撃する力にばかり傾注し、その言葉に力がないことに気づいてゐない。曲がつた矢は相手に届かないのである。

 政治家にも文学者にも、そして教育者にもその発する言葉に力がない。それを嫌といふほど感じた。議事堂に書籍に、そして教場に力のこもらない言葉がふわふわと浮いてゐる。それが私たちの國の現状である。さうであれば、自己の責任未完遂を責める以上には、他者のそれを責めてはならない、さういふところから始めるしかないのではないか。正しさを他者に向けて発するのではなく、自分に向けて発する。そして、その声の響く先には理想がなければならない。その理想の響きさへあれば言葉に力がこもるはずである。「国民に寄り添ふ、読者に寄り添ふ、生徒に寄り添ふ」と言つて自己保身に汲々とする人の声(言葉)には響きがない。共鳴のない劇場には感動がない。

 

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今年を振り返つて思ひ出すこと

2020年12月30日 10時35分40秒 | 日記

 やうやく冬休みになつた。私が勤めてゐる学校は年末に入学試験を二回実施するので、試験運営や採点など年末まで仕事が続く。そして年明けにもさらに入試、続いて新学期の授業といふやうに慌ただしい。今の職場に来てから年末の感慨は仕事中の中休みといふ印象に近い。それでも、年の瀬の空気の賑はひのせいかやはり大晦日に近づく雰囲気は気持ちを切り替へてくれるので心地よい。

 今年の出来事についてのさして深い反省や、来年に向かつてのこれと言つて強い抱負を抱いてゐるわけではないが、目の前のことには一所懸命努めようといふ思ひでゐたいとは思つてゐる。今年はコロナ禍で予定が狂ひ四月五月は全く休みがなかつた。次々に情勢が変はり、その対応にスケジュールの変更を余儀なくされたからだ。近年は年を追つてこのやうな変更の機会が多くなつてきたやうに思ふ。激動の時代とはよく聞く言葉だが、そのことを実感した一年だつた。つまりは、こちらの意識や目標などは天下の大乱の前には何の足しにもならないといふことだ。むしろ、さういふものに拘ることが動きを鈍くし、対応を間違へるといふことにつながる。昨年半年かけて計画したことが三月に壊れ、四月に変更したものは今度は自ら壊し、五月に作り直したものは当初の目論見とは違つたものになつたが、やらないよりはよいと一人合点して上長の決裁を取り、職員全体に周知した。先生方は非常によく協力してくれ生徒にも成果があつたが、もう少し劇的であつてほしかつたといふ残念な思ひがある。しかし、昨年計画してゐなければ、今年の災難にどう対処できたかどうか。ここまで踏みとどまれたのは昨年の熟慮があつたからだと、自画自賛して今年を終へようと思ふ。抽象的な書きぶりであるが、具体的に記せば生々しくなるのでご勘弁を願ひたい。

 本は、あまり読まなかつた。教育関係の本や雑誌の記事はたくさん読んだが、それをここで書かうとは思はない。今、印象に残つてゐるのは、夏休みに読んだデカルト『方法序説』とオルテガ『大衆の反逆』。小説は三島由紀夫『午後の曳航』と村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』。いづれも再読だが、感想はそれぞれ。近代古典をもつと読まなければと思ふ。

 映画についても少しだけ。こんな状況なので映画館からは足が遠のいてしまつた。『FUKUSHIMA50』はこんな時代でなければ、もつと評判になつたと思ふ。渡辺謙はさすがである。『ミッドウェイ』も評判にはならなかつたがとても良かつた。今年は、知人に勧められてアマゾンのFire TV Stickといふものを購入し、Amazon Primeで映像を観た。テレビドラマ『SUITS』のシーズン1を見て、アメリカの法律家たちのオフィスの雰囲気がとてもオシャレに感じた。それに引き換へ日本の織田裕二版『スーツ』のオフィスのみすぼらしいこと。セットの張りぼて感は仕方ないとして、そもそもアメリカを模す必要を感じなかつた。それは台詞にも感じたが。収穫は映画『函館珈琲』。とても良かつた。小説家志望の青年がそれを諦めて函館に来て喫茶店を始めるが、再び筆を執ることを決めるといふ筋には特別な感慨もないが、映像のテイストが良かつた。ああいふ静かな映画が好みなのだと思ふ。又吉『劇場』は良かつた。主人公の同居人の女性を演じた松岡茉優は小説中の人物はかういふ女の子なのかといふことを知らせてくれた。主人公を演じた山﨑賢人は好みの俳優ではないが、彼女の力で役柄の荒んだ感じを見事に演じることができてゐた。助演の力を感じた。この冬休みも何本か観てみたい。

 山崎正和の死は、たいへん残念であつた。8月のことである。今月『アステイオン』が追悼特別号を出したが、それによれば山崎は暑いのが大層嫌ひだつたといふことだ。その季節に召されたといふのは、もう地上にはおさらばしたいといふことだらうか。しかし、『アステイオン』の最新号に載せられた絶筆を読めば、言語の発生とリズムについての考察を次号で述べるといふことを書いてゐたから、思考はまだまだ続いてゐたのである。病気を抱へながらもあれだけの論考を頭で描きながら筆を進めていくといふ集中力は尋常ではない。80歳を過ぎてなほそれが可能であるとはやはり奇跡の人である。私には山崎にたいする批判もたくさんあるが、残念である。山崎正和論を書くことができればと思つてゐる。

 

 三浦春馬の死も残念である。合掌。

 

 

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時事評論石川 2020年12月号

2020年12月25日 10時07分13秒 | 告知

今号の紹介です。

 一面は、宮崎大学の吉田好克先生の今年一年の「腹立ち三題噺」。明快だ。中国大好きな人の話が二つ、日本大嫌ひな人の話が一つである。融通無碍な日本人の心性が、不当であつても「志」を持つた人々の言説をはびこらせてしまふ。これが実に厄介だ。宿痾だから、きつと来年も、そして次の年もそのまた次の年も日本大嫌ひな人による日本攻撃や中国韓国礼賛は続くのだらう。吉田先生には、毎年この三題噺を続けてほしい。

 どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。  1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)
                     ●   

令和2年 腹立ち三題噺 ー中共、媚中派、学術会議ー

  宮崎大学准教授 吉田好克

            ●

コラム 北潮

            ●
対中外交を再考せよ――安倍長期政権「負の遺産」

  拓殖大学教授 丹羽文生 
            ●
教育隨想  旧皇族に対する、昭和天皇の思し召し(勝)

             ●

池田勇人、田中角栄 名宰相を支えた母

  東京国際大学教授 福井雄三

            ●

「この世が舞台」
 『黒衣の僧』 チェーホフ
        早稲田大学元教授 留守晴夫
 
            ●
コラム
  米中対立のもう一つの意味(紫)

  感染・経済対策に意味のある数値(石壁)

  教育は長いトンネル(星)

  「みなさまのNHK」は本当か(白刃)
           

  ● 問ひ合せ 電話076-264-1119  ファックス 076-231-7009

   北国銀行金沢市役所普235247

   発行所 北潮社

 

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『ベートーヴェン 一曲一生』を読んで

2020年12月13日 11時43分47秒 | 評論・評伝

 

 

 新保祐司氏の新著である。

 音楽と文明との関係を永年書き続けてきた氏が、このコロナ禍の中で迎へたベートーヴェン生誕250周年に書いたものである。

 目も耳もその能力を失つたベートーヴェンが、ピアノ(チェンバロかもしれないが)に耳を当てて、伝はつてくる振動をたよりに自分の音楽を確かめる。そんな姿ほどに、私たちには求めてゐるものがあるだらうか。ベートーヴェンの音楽が私たちの耳には聴こえてゐるが、それが本当の音かどうか、いぶかしく思つてゐた。

 新保氏は、冒頭にさういふことをある対談を引きながら直言する。吉田秀和と武満徹との対談である。武満は、かう述べる。

「日本における西洋音楽は、いままでは本当には西洋の影響、それはぜんぜん受けていなかったんじゃないかという気が、近頃してならないんですよ。」

 この一言に、私の思考が動き出した。すでにこのブログでも書いたことだが、この夏私は山田晶と遠藤周作との対談(中公『世界の名著 アウグスティヌス』の付録)を読んで遠藤が「そうか、まだ日本にはキリスト教ははいっていないわけか」と語つてゐたことを思ひ出した。

 キリスト教でさへさうであれば、日本の近代が近代ではないのは当然で、武満のうへのやうな感慨も、新保氏が本書で示された内村鑑三の批評も中原中也の呟きも河上徹太郎の弱音もまつたく正しく日本の近代をとらへてゐたといふことになる。なかでも驚きなのは、なぜ小林秀雄がベートーヴェンではなくモーツアルトを書いたのかといふ問ひである。小林の美に対する感性・審美眼の鋭さは日本文化の優れた成果であるが、その一方で「堅苦しい」(徹太郎)、「深淵の底より湧き出る喜と悲と怒とのなき」「浅い」(内村)日本近代の欠点と裏腹であるとの示唆は、「小林信者」にとつてはなかなか受け容れがたいものかもしれない。しかし、私には極めて正しい批評だと感じられた。そして福田恆存の愛読者である私には、福田恆存もその例外ではないとも思ふ。福田はさすがにその入り口は指し示すことはできたが、「浅さ」の中に両足を入れたままあるべき方向を眺めてゐたといふことに過ぎないのかもしれない。「結局、平板な日本を平板な日本のままにし続けて来た」日本近代を痛撃しようにも、日本人が塹壕に籠つてしまつてゐてはどうしやうもないとの諦観が晩年の福田にはあつたのかもしれないが。

 この一年を締めくくるには最高の思索書である。「一曲一生」とあるが、新保氏が100日の間に毎日一曲づつ聴き続けた感想が書かれてゐる。それをこの年末年始に試みることは私には手に余るが、所有するCDを聴いてその感想を味はつてみようと思つてゐる。

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