言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

伊井直行といふ作家

2018年08月22日 16時51分17秒 | 日記・エッセイ・コラム

 『さして重要でない一日』に収められてゐる別に一篇「パパの伝説」を読んだ。「パパ」といふある田舎の資産家の下にひよんなことから居候するやうになつた「僕」が記録した「パパ」とその家族の話である。どこかしら不気味な感じがあつて、いろいろなエピソードで構成されていく仕立ては「さして重要でない一日」と同じである。こちらの方が先に書かれ、その5年後に「さして重要でない一日」が書かれたやうだ。私には後者の方が面白かつた。

 後書に「宮崎県延岡市」で両者とも書き上げたと書かれてゐた。私が以前住んでゐたところでもあるので、びつくりして調べると、延岡高校出身とあつた。そしてその恩師に当たる人は私の知人であつた。不思議な感じがした。今は記憶にはないが、もしからしたその方との話からこの作家のことを知り、古本屋で購入したのかもしれない。この本を購入した日付が2003年7月12日であり、その時は延岡に住んでゐたからである。今はまつたく覚えてゐないが、たぶんさういふことだらう。

 それを今にして読む。何とも拙い読書経験だが、読めて良かつたと思つてゐる。

 伊井氏は、今は東海大学文学部の教授のやうだ。

さして重要でない一日 (講談社文庫)
伊井 直行
講談社

 

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『さして重要でない一日』を読む

2018年08月20日 11時51分57秒 | 本と雑誌

 6月の地震で崩れた書棚の本を整理すべく、ここのところ本の分別をしてゐる。事前に本を段ボール6箱取りに来てもらふことになつてゐたので、期日までにいるもの、いらないものに分ける。それが昨日終はつたので今日は朝から少し落ち着いた気分で本を読んでゐる。

 整理してゐる途中で目に入つたのがこの『さして重要でない一日』であつた。何だか今の気分にぴつたりに感じたからかもしれない。作者の伊井直行といふ人もよく知らない。小説読み巧者ではない私は、現代作家の贔屓はほとんどゐない。この本もたぶん誰かの書評で知つたのか、古本屋でタイトルに惹かれたかで購入したものだらう。購入日は2003年7月12日となつてゐる。本の発行日はそれより10年前の1993年7月15日である。今から30年ほどの前の新人作家の書き方とはかういふものだつたんだな、といふのが第一印象であつた。

 話の中心は、ある会社の営業部門で働く青年の話。会議に出す資料がコピー機の調子が悪くて乱丁があり、それに気づいて回収に回るが、どうもすべてを見つけることができない。慌てていろいろなところを訪ね歩く。その途中でいろいろな話に巻き込まれていく。中心的な話題もミステリアスな終はり方で結論は見えない。途中の話にも結論はない。迷宮を歩きながら行き止まりにぶつかり、それで道を戻るが、結果的に出られなかつた。そんな物語である。

 何かの事を成し遂げるわけでもないが、それでも一日中仕事をしてゐる。それこそ「さして重要でない一日」なのであらう。その気分はとてもよく伝へてくれる。だが、決して心地よくはない。この本の初版は1989年に出てゐるが、バブル崩壊の直後の日本の気分はかういふもやもやした気分に似てゐたのか、と思はれた。が、私の1989年を思ひ出しても何も思ひ出せない。

 今の日常も「さして重要でない一日」である。さういふ日常しかない私には、かういふ小説は心の解放にはつながらない。嫌な時間ではなかつたが、結論も出ず、そして手応へも感じず、それでゐて時間だけが過ぎていく生活を小説にすると、かういふ物語になるのかと考へても一向に見えてくるものはなかつた。

 伊井直行といふ人は、かういふ生活をどう過ごしてゐたのか、それだけに関心がある。

さして重要でない一日 (講談社文芸文庫)
伊井 直行
講談社

 

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戦争を「太平洋戦争」だけで語るな。

2018年08月16日 11時06分07秒 | 国際・政治

 昨日、テレビを見てゐて、ヤフージャパンが戦争についての取り組みをしてゐることを知つた。

 元NHKのディレクターだつた人を招き、戦争の記憶を未来に残すといふプロジェクトを始めた。昨日のテレビでは、高校生数人がヤフー本社を訪れ、くだんのディレクターが展示物を案内するシーンが流れた。高校生は制服、ディレクターはラフな格好である。そして、次のシーンでは、戦争体験者にインタヴューに行くそのディレクターと同僚一人が映し出された。相手は80歳を過ぎた老婦人である。酷暑の夏に上着を着、胸にはネックレスをしてゐた。いかにもお待ちしてをりましたといふ姿である。しかし、向かつたその二人はポロシャツである。

 私は、その姿が嫌だつた。戦争の悲惨を集めに来たのである。そして、語る人とその語りを聴く人との差、展示を観る人とその展示をする人との差、前者は正装で後者は非正装。服装で何を語らせるな、それはいちゃもんだと言ふかもしれない。しかし、さういふところにその人の思想が出てくると考へるのが私の批評のスタイルなので、お許し願ひたい。ディレクター氏が大事にしてゐるのはコンテンツなのである。だから、ホームページを見ても、コンテンツの収集に余念がない。だから、ポロシャツであつても数多く人に会ひ、数多くの資料を集めた方がよいのであらう。もちろん、それも大事である。しかし、語る内容よりも語り方の方が大事ではないか。

 一つだけ言へば、ディレクター氏も戦争の悲惨さを言ふテレビ番組も、その戦争はいづれも「太平洋戦争」でしかない(しかも「大東亜戦争」ではなく)。それはなぜか。そのことが「語り方」を決めてゐるのではないか。あの戦争は負けた戦争である。だから、戦時中の国民も戦後の私たちも、等しく「被害者」として語れる。断罪一辺倒。悪いのは国家であり、政府である。国民は被害者だから、その声は正義である。さういふスタンスで語り口が決まつてゐる。気楽なものだ。全く緊張感がない。だからラフな格好になつてしまふ。しかし、それは本当か。この夏、私は宮崎県の飫肥(おび)にある小村寿太郎記念館を訪ねた。もちろん、日露戦争の終結に尽力した人物を記念したところだ。そこには戦争の悲惨さを述べたものは見つからない。戦争を賛美したものもないが、日本の近代化に必要だつた悲劇を最小にしようと尽力した人物の偉功をささやかに顕彰したものだつた。

 あの戦争に勝つてゐたら、今日のやうなお気楽な気分で戦争を断罪できるだらうか。私が問題にしたいのは、そのことである。戦争の悲惨者を言ひ募るその姿勢にまつたく緊張感がない。つまりは今の時代に生きてゐる難しさを当時の人も同じやうに持つてゐたといふ当たり前の当事者意識がないといふことである。さういふ人が作る「戦争の記憶」も「物語」も、事前に準備されてゐたものの塗り絵でしかない。決められてゐるパーツに色を塗つてゐるにすぎない。だから彼らの行動は、まだ塗られてゐない部分に色を載せるだけだ。コンテンツ収集作業に熱心なのは塗り終はつてゐない部分があるからである。

 私の言葉は厳しいだらう。しかし、あの正装した婦人の前にポロシャツ姿で堂々と出てきた二人の非礼がどうしても許せないのである。戦争に勝つてゐたら、ディレクター氏はそれでもこの婦人を訪ねただらうか。その疑念が拭えない。彼らの姿勢は二重に非礼である。

 戦争を語るなら、せめて近代の戦争すべてについて語れ。戦争の悲劇を言ふなら、せめて日清戦争から語れ。私はそれを感じてゐる。

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『学校は何をするところか?』を読む

2018年08月11日 14時26分03秒 | 本と雑誌

 

学校は、何をするところか?
苫野 一徳,菊池 省三
中村堂

「学校は何をするところか?」といふ問ひだけは共有できたが、結論には共感が出来するところなかつた。

  苫野一徳氏はこれまでにも何冊か読んでゐるので結論は分かりやすい。氏の教育目標は生徒自身の相互承認による共通了解の達成である。承認といふ言葉が今回は非常に具体的に説明されてゐたので、それは勉強になつた。褒める、称賛するから、存在だけは認めるまでが承認ださうだ。ニーチェの「愛せない場合は素通りせよ」といふ言葉を引いて承認の最低レベルを示してくれたのは、極めて実践的な内容である。哲学者は実践家でもあつた。

  一方、菊池省三氏は私の最も苦手なタイプである。生徒の自主性を重んじ、授業中も立ち歩けと指示するらしい。失敗感を与へない。ほめ言葉のシャワー。などなど、見えない権力構造が透けて見えるやうである。もつとも授業そのものを見てゐるわけではないので、実際の場面は本当に生徒たちが生き生きと活動してゐるのかもしれないが。ただ、次のやうな生徒の感想は私には「協同」的とは思へなかつた。

ーーーーなにも書けなかったけど、立ち歩いてまわりの友達に聞いて文書は書けました。

ーーーーほかの人の意見が聞けたから、この子は、こんな考えをしたんだなと思えた。

 

  これに対して菊池氏は、「協同的な学びに踏み込んでいる」と評価してゐる。それには強い違和感がある。これは依存的と評していいのではないか。そもそも立歩きも対話も、本人の知の開発が目標であらう。楽しさ、がそこに繋がつてゐなければ、ストレスレスなだけではないか。そんな気がする。

  今日は、日本中で宮崎県の県北地区だけ土砂降りの雨。外に出られず、読書に集中。収穫は、……

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小村寿太郎と明治の精神

2018年08月10日 21時07分46秒 | 旅行

  宮崎県の日南市に小村寿太郎記念館がある。先日そこを訪ねた。20年ほど前に生徒の引率で来たことがあるが、引率であるからゆつくりと見学することができなかつたが、今回は旅行でもあるのでゆつくりと訪れた。

  小村は日露戦争の処理のためにポーツマス条約締結に尽力した。日本国内は戦勝の気分に高揚してゐるから大幅な戦利を期待してゐる。しかし、実態は薄氷の勝利である。一日も早く条約を結んで戦争を終はらせたい。小村の役割もその一点にある。

  身長156cm、当時としても小さい体の双肩にかかつた重荷は如何ばかりであるか。記念館には実物大の写真と本物のフロックコートがあつた。現在の東京大学を出てハーヴァード大学に留学した秀才は英語に通暁してゐるのはもちろん、何より語る言葉を持つてゐた。だからテーブルの上で相手に怯むことはない。今の私たちとは決定的に違ふことである。

  記念館には、彼の言葉が展示されてゐた。うん、この言葉に出会ふだけで今回の旅は成功であつた。かういふ人物がゐた。そのことを知らせてくれた幸運に感謝した。

 

  その後飫肥城を見学し、帰りに鵜戸神宮を参詣した。折しも台風が列島に近づき波は高かつたが、コバルトブルーの海の荒々しさが心地良かつた。地元の医学部に入学した教へ子を連れて行つたが、何かを感じたらうか。それをいつか聞いてみたい。

ポーツマスの旗 (新潮文庫)
吉村 昭
新潮社
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