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ヘンリ・ライクロフトの私記 (岩波文庫) 価格:¥ 756(税込) 発売日:1951-01 |
南イングランドの片田舎に隠棲して一人古典と田園の世界に心豊かに生きる人物「ヘンリ・ライクロフト」の私記に仮託して書かれたギッシング(1857~1903)の作品である。
その「春 二一」にかうある。全文である。
今日は庭のまはり一帯に、鳥がさえずつてゐる。あたりの空いつぱい鳥の鳴き声でみたされてゐると形容したところで、ときとして意気高らかな斉唱となり、奔放な協和音となつて点に響く、あの絶え間ないさまざまなさえずり声の模様を正しく伝へることはできない。狂つたやうな喜びのあまり喉も張りさけんばかりにさえずり、ほかの鳥を歌ひ負かさうとしてゐる小柄の鳴鳥も一羽ゐるらしいのがときをり耳につく。地上の生ける者のうち、他のいかなる者の声も心も発することのできないやうな賛美のコーラスなのだ。私は聞いてゐるうちに、崇高な恍惚状態に襲はれるのである。私の存在は激しい喜びの情感に浸つて溶けてゆく。なんとも表現できない深いありがたい感じに私の目はうるんでゆく。
やうやく取り戻した日常の豊かさにまさに恍惚としてゐる気分が時代と場所を越えて伝はつてくる。少々過剰にも感じるこの喜びの表現に、この主人公の心がかなり傷ついてゐることを感じ取るのはさして難しくないだらう。それはもちろん、ギッシングその人のものでもあるはずだ。事実、ギッシングは不幸な人生を生きた。
しかし、次のやうな健全な精神を持ちあはせてゐるのを見ると、健全であるためには時に鳥のさえずりを聴きながら精神の安らぎを得る時間が必要なのかもしれない。社会はそれほどに不健全である、ことなのか。同じく「春」の十九である。
もしイギリスが危地におひこまれたならば、イギリス人は必ず起つて戦ふであらう。そのやうな危急存亡の秋、他に選ぶべき手段はないからである。だがさし迫つた危険もないのに、国民皆兵の呪詛にわが国民が屈するとすれば、暗澹たる変化がわが国民の上にもたらされることは必至とみなければならないのだ。たとへ不謹慎のそしりを招いても、わが国民があくまでその人格の自由を守るであらうことを私は信じたい。
この言葉を、今の私たちの世風の上に浮かべてみると果たしてどう解釈されるであらうか。右傾化する日本への警告と解釈する人もゐるだらう。「国のために戦ふ」など、なんと時代錯誤かと言はれるに違ひない。もちろん、私はさうは考へない。しかしながら、人格の自由を求める気概や努力もないままに、世論に耳をそばだててゐる憲法改正論者にも違和感がある。「個性の喪失は私には全くの恥辱と思へた」と書くヘンリ・ライクロフトであるが、私たちには、喪失することによつてそれが恥辱と感じるほどの個性があるだらうか、その欠落こそが問題なのである。