言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

映画「大河への道」を観る。

2022年05月30日 20時00分29秒 | 映画

 

 

 

 ストーリーは予想通りだが、その予想を裏切らないといふのが、映画そのものの魅力に繋がつたりする。それぐらゐ予想を裏切らないといふのは難しいのだ。

 伊能忠敬は日本中を歩き回り日本地図を描いた人物として知られてゐる。が、実は完成した時には既に亡くなつてゐたといふのだ。歴史に詳しい人なら、そんなの知つてゐるよと言はれさうだが、知らない私は驚かされた。

 忠敬の出身地千葉県香取市の地域振興策として、忠敬を主人公にNHKの大河ドラマを制作しようといふ市の職員達の会話からストーリーは始まる。担当職員役の中井貴一と松山ケンイチの軽妙な会話が面白い。役人として上長にたいしてきちんと仕事を成し遂げようとする中井の姿は「忠」である。また、原案企画を依頼するべく脚本家を訪ねるが、その偏屈な脚本家を橋爪功がまたいい。すつとぼけてゐながら史実に忠実に迫らうとするする姿は「敬」である。忠敬を描くにはかういふ趣向の二人を配置したのは、原作者立川志の輔の妙案であらう。

 地図が完成して将軍にその全容を見せる場面がある。忠敬は既に死んでをり、それでも地図を作らうとすることを面白くない、いや経費の無駄使ひであるとする勘定奉行からの詰問に、将軍が忠敬に会はせよといふシーンである。忠の男中井が演じる地図制作担当の長である高橋景保は嘘はつけない。そこで「奥の間に忠敬は控へてゐる」と申し上げたからである。

 このシーンは圧巻であつた。確かに忠敬はゐた。それを感じた。忠敬の使つてゐた草鞋を懐から出して将軍の前に置く。お上は、それを見てその労を慰め、ゆつくり休めと言ふ。景保が涙のうちに「恐悦至極に存じます」と語る姿には、この200年の間に私たちが失つてしまつたものを見たやうであつた。忠の志も敬の心構へももはや見つけることが難しい。

 コミカルなタッチであるが、落語家の描く物語には日本人の心情が滲み出てゐるやうに思へた。(112分)

 それからエンドロールに流れる玉置浩二作の主題歌「星路(みち)」が良い。

 玉に瑕は、北川景子。忠敬の最後の妻であるあの役は美形である必要はない。

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追悼 葛西敬之先生

2022年05月28日 20時39分14秒 | 日記

 

 

 元JR東海社長の葛西敬之氏が、81歳で亡くなられた。

 私が勤めてゐる学校の理事長をこの3月まで勤めていらしたが、最後の卒業式はお越しにならなかつた。肺の病気と闘つていらしたので、コロナ禍での移動を危惧されてゐたのだと思ふ。2016年から3期6年理事長を務められて、その任期を満了されて次の理事長にバトンタッチされたばかりだつた。

 個人的にお話をしたことは残念ながらなかつた。ただ、私信を一度頂戴したことがある。私の手紙への感想と学校への思ひを綴られたもので、ここで引用するやうなものはない、と思つてゐた。だが、今読み返してみると福田恆存への共感を記してあつた。現代の青年への思ひが書かれてゐた。ご本人の許可もいただくこともできないので、ここでは引用は差し控へる。ただ、その思ひを私も引き継いでいかうと思ふ。

 国鉄からJRへの変化についてや、新幹線技術の海外輸出、そして原子力政策などについては、私の書くことではない。一経済人を越えた視野の広い社会的使命の自覚と時代を超えた国家の役割の提言とは、どなたかがきちんと評論をしていただければと願つてゐる。

 私の、言はば上長としての理事長への追悼を記すばかりである。とは言へ、具体的なことはここでは書けない。ただ、感謝と申し訳なさとである。新しい学校を作るといふことは並大抵のことではない。そのことに押しつぶされさうになつてゐる。一教員としての私でさへさう感じるのであれば、理事長としては想像を絶する重荷を感じていらしたであらう。

 華々しく社会に宣言して創立した学校である。その理想を抱きつつ、生身の人間が集ふ現実を乗り越えていくには、信念と協働とが頼りとなる。もちろん、時にはそこに亀裂が入ることもある。しかし、それでも前に進むには、尋常ではないエネルギーが必要とならう。

 その意味で、リニアの建設がぶつかつてゐる現状は、人間の行動の典型を見るやうな気がしてゐる。葛西理事長は、その二つの地平を同時に歩いていらしたやうに思へた。

 お疲れ様でした。そしてありがたうございました。

 

 

 

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時事評論石川 2022年5月号(第817号)

2022年05月27日 21時05分38秒 | 告知

今号の紹介です。

 当然だが、ウクライナ一色。月刊紙としては、少し距離を置いて今回のウクライナ侵略戦争を読み解く役割がある。深く人間論にまで及んだ論考もある。是非ともお読みいただければと思ふ。

  どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。  1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)
            ●   

人間不在の防衛論議 ウクライナ及びウクライナ人が日本及び日本人に教へること

        評論家 金子光彦

            ●

コラム 北潮(今年の十大リスク)

            ●

ロシア・ウクライナ戦争の「教訓」 明日の日本を見てゐる日本人

  麗澤大学国際問題研究センター客員教授 勝岡寛次

            ●

教育隨想  沖縄祖国復帰半世紀に想ふ(勝)

             ●

陰謀論に騙されるな

  ジャーナリスト 伊藤達美

            ●

コラム 眼光
   峯村氏に宿る朝日的独善(慶)
        
 
            ●
コラム
  「韓活」のためのハングル講座(紫)

  不可解なロシア軍の残虐行為(石壁)

  いま日本人は何を考へてゐるか(星)

  艱難汝を玉にせず(梓弓)
           

  ● 問ひ合せ     電   話 076-264-1119    ファックス   076-231-7009

   北国銀行金沢市役所普235247

   発行所 北潮社

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石川淳「焼跡のイエス」を読む

2022年05月16日 08時13分25秒 | 文學(文学)

 今週の金曜日、東京大学が主催してゐる「金曜講座」でこの作品を取り上げるといふので読んでみた(今調べたら先週の金曜講座が「焼跡のイエス」でした。間抜けな話でした)。

 石川にイエスを題材としたいといふ思ひがあるのかどうか。そしてあるのなら、それはなにゆゑなのか。それを考へながら読んだが、何も感じなかつた。掌編であるからすぐに読める。昭和21年に発表された作品だ。

 不潔で飢えた少年をイエスに見立てたアナロジーに、切実さを感じなかつた。

 「金曜講座」を聴いて、何か変化があれば、また書かうと思ふ(もうこれ以上のことは書けません)。

 

 一応、福田恆存の石川淳評を引いておく。

「石川淳において解體に瀕した自我の建てなほしといふ近代的なこころみが、新しい小説概念の探求といふ線にそつておこなはれたのであるが、このもつとも近代的なしごとが、もつとも古めかしい封建的色彩を帯びるにいたつたといふことである。」

 この作品は「古めかしい封建的な色彩を帯び」てはゐない。しかし、「解體に瀕した自我の建てなほしといふ近代的なこころみ」として「新しい小説概念の探求といふ線にそつておこなはれた」ものであるかどうか。私には今のところディレッタントにしか見えない。

 

 

 

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ヘッセ『クヌルプ』を読む

2022年05月15日 10時44分03秒 | 本と雑誌

 

 

 知り合ひのFacebookのタイムラインでこの本が紹介されてゐたので読んでみた。新潮文庫の新版で字も大きく160頁足らずの本であるが、正直すらすらと読めるものではなかつた。

 少年が初恋を抱いた年上の少女に裏切られたことから始まる漂泊の人生に共感が抱けぬままに、それでも読み続けたといつた感想である。

 しかし、この少年クヌルプが聖書を頼りに自分の生き方を尋ね歩く生き方は、『デミアン』や『車輪の下』に通じるもので、さういふ言葉に出会ふと上質なヨーロッパ人の生き方を感じることができた。

「だが、ね、仕立屋さん、きみは聖書に注文をつけすぎるよ。何が真実であるか、いったい人生ってものはどういうふうにできているか。そういうことはめいめい自分で考えだすほかはないんだ。本から学ぶことはできない。これが僕の意見だ。聖書は古い。昔の人は、今日の人がよく知っていることをいろいろとまだしらなかったのだ。だが、だからこそ聖書には美しいこと、りっぱなことがたくさん書いてある。ほんとのことだってじつにたくさんある。」

 さう悟つたかに見えるクヌルプだが、そんなことはない。人生をどんなに美しく生きたとしてもそれは誰かと共有できるわけではない。死んでしまへばそれで終はりだと考へるクヌルプにたいして、時にこんな言葉を投げかけられる時もある。

「それはおもしろくない話だね、クヌルプ。人生には結局意味がなければらない。だれかが、悪い人でなく、敵意を持たず、やさしく親切であったとすれば、それで値打ちがあるということを、ぼくたちはたびたび話しあったじゃないか。だが、いまきみの言ったとおりだとすれば、何もかももともと同じことになる。盗みをしたって人を殺したって同じようにいいことになる。」

 クヌルプは考へる。悩んでゐると言つた方が正確かもしれない。しばらく経つた場面で、こんな言葉が記されてゐる。

「人間はめいめい自分の魂を持っている。それをほかの魂とまぜることはできない。ふたりの人間は寄りあい、互いに話しあい、寄り添いあっていることはできる。しかし、彼らの魂は花のようにそれぞれその場所に根をおろしている。どの魂もほかの魂のところに行くことはできない。行くのには根から離れなければならない。それこそできない相談だ。花は互いにいっしょになりたいから、においと種を送り出す。しかし、種がしかるべき所に行くようにするために、花は何をすることもできない。それは風のすることだ。風は好きなように、好きなところに、こちらに吹き、あちらに吹きする。」

 風とは何か。それについてクヌルプは答へてゐない。魂の孤独を記すばかりである。

 第三部は、「最期」と名付けられてゐる(一部は「早春」、二部は「クヌルプの思い出」である)。雪降る街に疲れ果ててクヌルプは眠つてしまふ。神との対話に安堵してゐるかのやうである。神の言葉が記されてゐる。

「わたしが必要としたのは、あるがままのおまえにほかならないのだ。わたしの名においておまえはさすらった。そして定住している人々のもとに、少しばかり自由へのせつないあこがれを繰り返し持ちこまねばならなかった。わたしの名においておまえは愚かなまねをし、ひとに笑われた。だが、わたし自身がおまえの中で笑われ、愛されたのだ。おまえはほんとにわたしの子ども、わたしの兄弟、わたしの一片なのだ。わたしがおまえといっしょに体験しなかったようなものは何ひとつ、おまえは味わいもしなければ、苦しみもしなかったのだ。」

 かういふ境地は、もちろん孤独ではないのだらう。ただ、その感じも味はひも「風」がない限り知らせることも受け取ることもできない。ヘッセは、この小説を書き、それに「風」の役割を持たせた。クヌルプといふ人を私たちは知ることができたのはその小説のおかげである。

 神と私。その単独者同士の対話がキリスト教の真髄である。しかし、それが同じく隣の人とも対話を可能とする、いやすべきであるといふことの知らせのために文学がある。この小説の優しい印象は、静かにそれを伝へてくれた。冒頭に記した「上質」とはさういふことだらうと思つてゐる。

 

 

 

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