言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

追悼 佐伯彰一

2016年01月05日 22時00分21秒 | 日記

佐伯彰一氏が亡くなられたことを知つた。93歳であつた。ここ十年ぐらゐはあまり活動をされてゐなかつたやうに思ふ。私は、直接お会ひしたことはないが、拙著『文學の救ひ』について、その元になつた文章を連載してゐた折に眼を止めてくださつた先生からお葉書が届いた。「貴兄の主旨に賛同」との内容に、意を強くした。大岡昇平を批判したくだりについてだつたが、いはゆる「歴史論争」での論敵でもあつた大岡氏への意趣返しといつたところもあつたのであらう。その時すでに大岡氏は冥界に旅立たれてゐたので、安心して批判ができたといふことかもしれない。拙著は福田恆存論が主であるので、その流れでの大岡批判であつたが、それでも、学者でもあり、評論家でもある方からの唯一の賛意であつたので、嬉しかつた。

孤独な私の福田恆存論は、今も孤独なままであるが、私にとつては大事な礎石である。その礎石に銘を記してくださつたやうな気がしてゐる。

以来、佐伯先生とは何度か手紙を交はした。九州にゐた頃のことである。大型の書店に行くのに、車で二時間ほどかかつた。文藝春秋は発売日が一日遅れる、そんな場所であつたが、何か志を立てなければと意気込みつつ書き続けた日々を懐かしみながら、先生の暖かい言葉に励まされたことを今また思ひ、感謝の言葉を捧げたい。

御冥福をお祈りする。合掌

 

以下は、時事通信が配信したものを引用。

日米の文化を国際的な視野から見詰めた文芸評論家で日本芸術院会員の佐伯彰一(さえき・しょういち)さんが1日午後1時48分、肺炎のため東京都目黒区の病院で死去した。93歳だった。富山県出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は長男泰樹(やすき)さん。
 東京帝大英文科卒。ヘミングウェーら米国文学の研究・翻訳を手掛け、東京大、中央大教授を歴任した。同時代の文芸についても批評活動を展開。1960年代には米ミシガン大ほかで日本文学を講義するなど、日米双方の文学・文化への幅広い知見で知られた。
 80年「物語芸術論」で読売文学賞、86年「自伝の世紀」で芸術選奨文部大臣賞を受賞。99年、山梨県に開館した三島由紀夫文学館の初代館長を務めるなど、三島研究の第一人者としても知られた。 

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いかなる自我が創り出されるのか

2016年01月02日 09時52分42秒 | 日記

 紅白を見てゐて感じたのは、その歌ひ手の名前(殊にグループの場合には)も、その歌のタイトルも、覚えられないといふことである。そして何より歌詞が心に残らない。元来、物覚えのいい方ではないので、昔からだと言へばそれまでだが、どうにもそれだけではないやうにも思ふ。彼らの名前もタイトルも、そして歌詞さへも、それは便宜的に付けられただけであり、そもそも聴き手を意識して作られたものではないのではないかといふ疑問である。それはそれで良いのだらう。現に彼らには熱狂的なファンはゐるし、それをよしとする人々がゐるのだから。今どき大衆全体に気に入られやうとする姿勢自体、時代錯誤である。

 さういふ「他者」を意識しないところがファンには好まれ、言つてよければ「格好よい」と思はれるのである。青年とはさういふ孤立に憧れ、孤立を通じて自立を果たしていくものであるから、あながち否定すべきものではなからう。しかし、気になるのはその「孤立」が大衆の目の前で行はれ青年の位相を巻き込んで「共感」を呼んでゐるといふ事態である。いやいや何を古いことを言つてゐるのか、大衆社会とはさういふものだ、若者が都市に集まり、情報化した近代社会においては「普通」のことであると非難されよう。なるほどその通りである。

 歌を歌つてゐる本人は、自我を表出して他者からの拒絶に合ひ、なほも自立を果たすべく努力を重ねて年相応になれば大人になつていく。今回の紅白で言へば、レベッカのNOKKOはさうであつたし、ベースの高橋氏は音楽活動も15年ぶりださうで普段は運送会社の支店長だと言ふではないか。「フレンド」を懐かしさうに歌ふ彼女の哀愁は、人生そのものの懐かしさであり、かつての歌ひぶりには友情の亀裂に傷つきながらもそれを乗り越えていく力強さがあつたが、さうした「熱」はなかつた。そこにはもつと柔らかくて重いものがあつた。解散し、アメリカに行き、過去の自分と闘ひ、敗れ、自分を見出すまでに20年を要した。その過程で醸し出されたものであらう。

 しかし、彼女にはさうした20年があり、その再結成を望んでゐたファンがゐたが、今回の名前もタイトルも歌詞さへも残らない歌ひ手にはその20年があるだらうか。ファンである彼女彼等は、つぎつぎに歌ひ手を変へ、消費し、忘れ去つていくばかりではないか。さう思はれてならない。今の感性に合ふ歌ひ手を探しまはり、自我の上に塗り重ねていく。その過剰に自我が耐えられるかどうか。私の疑問はその一点にある。自我は自己の力ではどうにもならない「他者」による拒絶に合ひ、孤立することによつて創り出されるものであるのに、自己の正当化に都合のよいものだけを受け取り他者からの拒絶を拒絶することで創り出される自我とはいつたい何であるのか。

 結構真剣に取り組むべき課題であると思ふ。徐々に崩れてきた社会なのであるから、徐々に築いていくしかないのであらうが、さてどこから手をつけるべきか、それだけは明らかにしておくべきであらう。

(以下は引用)

 劇作家であり美学者でもある山崎正和が敗戦後の満州で受けた教育のことである。外は零下二十度という極寒のなか、倉庫を改造した中学校舎は窓ガラスもなく、寄せ集めの机と椅子しかない。引き揚げが進み、生徒数も日に日に減るなかで、教員免許ももたない技術者や、ときには大学教授が、毎日、マルティン・ルターの伝説を読み聞かせたり、中国語の詩を教えたり、小学唱歌しか知らない少年たちに古びた手回し蓄音機でラヴェルの「水の戯れ」やドヴォルザークの「新世界」のレコードを聴かせた。そこには「ほとんど死にもの狂いの動機が秘められていた。なにかを教えなければ、目の前の少年たちは人間の尊厳を失うだろうし、文化としての日本人の系譜が息絶えるだろう。そう思ったおとなたちは、ただ自分一人の権威において、知る限りのすべてを語り継がないではいられなかった」(「もう一つの学校」、山崎正和『文明の構図』所収)。

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