言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『解つてたまるか!』と「わかりつこない」

2008年12月31日 17時09分31秒 | 福田恆存

 『解つてたまるか!』の初演は、昭和四十三年である。今から四十年前のことである。それから二年後、昭和四十五年は、大阪で万博が開かれたが、その年に三島由紀夫が自刃した。エリオットの「寺院の殺人」の演出中だつた福田恆存は、その死を新聞社からの電話で知り、そのコメントとして「わからない、わからない、わからない」と答へたといふことになつてゐる。その真意は、よく考へたが「わからない」のではなく、所詮自殺者の気持ちなど「わからない」といふことなのである。正確に言へば、「わかりつこない」である。

 この言葉、存外におもしろい。自ら死を選んだライフル魔・村木は「解つてたまるか!」と言ひ、自ら死んでいつた三島由紀夫には「わかりつこない」である。以前『解つてたまるか!』を観たときには、あの自殺がどうにも腑に落ちなかった。なぜ死ななければならないのか、村木のせりふを読み返しては理解しようと試みた。しかし、これは喜劇である。つまりは、自殺といふ事件を、人はどうにか理解しようと試みるが、その試みほど滑稽なことはないと言つてゐるのである。福田恆存は死の意味づけなど決してしようとはしてゐないのだ。三島の死といふ現実の事件に対しても、氏が「わかりつこない」と言つたところにその明確な思考が示されてゐる。自己の理解のうちに、他者を閉じ込める、これほどの誤解はあるまい。

 三島は、この芝居を観たであらうか。それを知る術は今のところないが、この辺りは評伝執筆中の金子光彦氏にうかがひたいところだ。もちろん、三島が『解つてたまるか!』を観てゐたとしてもその作品に自死の刺戟をうけたなどといふことはなからう。が、福田恆存が人の死をどう受け取るかといふことは、この昭和四十三年と四十五年の二つの言葉からは知ることができる。さうであれば、孤独に死んだ三島由紀夫の心情を正確にとらへると、「解つてたまるか!」といふことになるだらう。

 それにしても、今年は三島由紀夫のことが気になつた一年であつた。

 一年の御愛読に感謝いたします。

 前田嘉則

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『解つてたまるか!』いよいよ開幕

2008年12月21日 17時15分41秒 | 福田恆存

福田恆存戲曲全集〈第5巻〉 福田恆存戲曲全集〈第5巻〉
価格:¥ 2,500(税込)
発売日:2008-11
  本日、劇團四季・京都劇場で待望の『解つてたまるか!』が開幕した。初日とあつて入り口は混雜するほどの盛況で、公演關係者も一安心といふところのやうだつた。關西では有名な人達も來られてゐて、注目度は思ひの外高いやうだ。

  じつは、本日から數囘に分けて生徒たちに觀せることにした。事前指導では福田恆存の『戲曲讀法』を讀み、金嬉老事件を説明し、第一幕の冒頭部分を實際にやらせてみた。生徒たちは、ふだんの會話とは違ふ「せりふの發話」に興味津津で爆笑とともにせいりふを食入るやうに讀んでゐた。それは日頃はなかなか見られない光景であつた。さて、本番はどのやうな演出なのだらうか。生徒とともに樂しみにしてゐる。係の方が、初日のミーティングで役者にこのことを告げてくれたらしく、「緊張してしまひますね」とのことだつたさうだ。もちろん、そんなことはないだらうが、うれしいコメントだつた。さて、今日觀て來た生徒等はどのやうな感想を抱いただらうか。明日、率直な感想を聽いてみたいと思つてゐる。

 ちなみに言へば、觀劇が初めてといふ生徒もだいぶんゐるので、この際觀劇のマナーについても學習するよい機會となつた。福田恆存の芝居を、劇團四季の俳優によつて、しかも近隣の京都で上演されるといふ僥倖を個人的には非常に好運だと思つてゐる。一般的には、年末と正月を含んだこの時期に、かうした本格的な芝居の上演といふのはずゐぶん思ひ切つた設定だが、盛況のうちに終はればいいと思ふ。

  ぜひ、機會があれば御出かけください。

劇団四季のホームページ

http://www.shiki.gr.jp/applause/wakatte/index.html

京都劇場(JR京都駅構内)

 12月21日(日)~明年1月11日(日)

 上演時間 約2時間55分

 一般料金=S7,000円 A5,000円 B3,000 (A学生料金3,000円)

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言葉の救はれ――宿命の國語 番外篇3

2008年12月21日 09時42分03秒 | 福田恆存

佐藤健一氏の『本格保守宣言』で知つたことであるが、「破壊と粛清の連続としての側面も持つ」フランス革命直後の祭典に「理性の」と冠してゐたとは示唆的である。理性に基づけば、自ずから歴史や傳統を破壞するものとなるといふことである。語るに落ちたこの「命名」が、この時代の(そしてそれ以降の近代の)理性重視の風潮を見事に語つてゐる。理性とは怪しむべきものである(ついでながら言つて置きたいが、保守思想家として知られる埼玉大學教授の長谷川三千子女史は、『民主主義とは何なのか』の「結語」に「理性の復權」を掲げたことについてである。あれほど西洋への違和感を表明し、西洋を買ひかぶるなと仰つてゐる方が、この期に及んで「理性」に信頼を寄せるとはどういふことなのだらうか。民主主義の問題點がたとへ「沒理性」にあるとしても、その對案として「理性の復權」を掲げるとはあまりにも安易である。理性がそれほどに信頼できるものなのか。沒理性を理性が選んだとしたら、どう考へるのか。私には氏もまた保守主義者ではないのではないかと思へたのである)。

  そして、今そのシステムが崩れようとしてをり、この二百年あまりの理性萬能の亂癡気騷ぎを止め、「立ちどまる」ときが來たのである。

もちろん、それは單なる復古を意味しない。そして、また佐藤氏が主張する「本格保守」といふものにも、私は説得されなかつた。時に政治的文脈で、時に文學的文脈で、時に經濟的文脈で語られる「本格保守」とは、何だかあまり魅力的ではない(一言だけ言ひ添へれば、「経済の分野では自由主義志向、社会・政治の分野では国家主義志向、ゆえに全体では改革志向にして現状維持志向」といふのが、氏の批判する「公式保守の方法論」であるが、それにたいして對抗軸として言はれるのが「本格保守」なのであるが、果たしてそれを凌駕するものが當該書の中に提示できてゐるかどうか疑問である)。ただ、ここでは、これ以上はその詳細に立ち入る場所でもないので、それについては別の機會に讓る。

 私の「保守」にたいする考へを言へば、それは何かの復古といふのにはやはり同意しかねる。妙な言ひ方かもしれないが、今こそ保守が表出されるのである。山崎正和氏は、これまでの歴史において「アジア」といふものは存在せず、近代化を通じて、この西太平洋に位置するそれぞれの國家は連繋し協力する間柄になり、この地域に歴史上初めて「アジア」が誕生すると言つたが、それと同じやうに、「近代化」を通じて私たち國民が自國の歴史を考へ、自らの國柄を問ふやうになり、「保守の精神」が表れてくるのである。

かつて文藝批評家の新保祐司氏が言つた比喩を借りれば、人がしやがむときに腰のあたりの普段は見えない骨が見えるやうに、保守骨ともいふべき精神のありやうは今こそ出てくるときなのである。もちろん、その實體は歴史的假名遣ひである。佐藤氏がそのことに觸れずに、「本格保守」なるものを言ふが、それがどうにも魅力的に見えない原因である。

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言葉の救はれ――宿命の國語 番外篇2

2008年12月17日 20時46分52秒 | 福田恆存

本格保守宣言 (新潮新書) 本格保守宣言 (新潮新書)
価格:¥ 714(税込)
発売日:2007-08
再び、福田恆存の聲を聞けば、かうだ。

もし、ぼくたちの近代史にもつとも根源的な弱點を指摘せよといふならば、それは明治以來現在にいたるまで、ぼくたち日本人が靜止の瞬間をもたなかつたこと――したがつて精神が自由をかちえたときをもたなかつたことであらう。ぼくたちが眞に自己の現實のうちに閉ぢこもつたときは一度もなかつた。國粹主義すらそのやうな形で現れはしなかつた。すべては他動的に、あるいは過去や未來の幻像にひきずりまはされて今日にいたつた。ぼくたちは自分のうちに、そして現在にたちどまつたことが一度もなかつたのである。いままたそれをあへてしなければ、日本は永遠に――いや、預言者的な身ぶりはぼくのこのむところではない――すくなくとも、ぼく一個の精神がどこまでいつても救はれないのである。ぼくは頑強に立ちどまることしか知らない。

  昭和二十二年、福田恆存三十六歳の文章である。

いま讀んでゐるこちらの方が恥づかしくなるほど純粹で、率直で、まつすぐに日本をとらへ、自分自身の問題として正面から取り組まうとしてゐる初初しさを感じとることができる。「ぼくは頑強に立ちどまることしか知らない」といふ一節をとらへて、保守の權化=反動右翼の面目躍如であると皮肉を言つても、言つた方がかへつて恥をかくことにならう。なぜなら、敗戰直後のあの疲弊しきつた時代に、これほどまでに物事の本質を、つまりは「ぼくたちの近代史」の最大の問題點を、正確にとらへてゐたことへの驚きの前には、政治的な意圖を持つたさうした批判はどうでも良いことだからである。

  ついでながら、このことに關聯して昨年面白い本を讀んだので紹介したい。佐藤健一の『本格保守宣言』(平成十九年・新潮新書)である。そこにはかうある。

  物事の大枠が崩れ、あらゆることに見当のつけにくくなった世界で、どうにかベストを尽くしてゆくのが、今後の時代を生きる唯一の現実的な選択肢となる。このための重要な指針を与えてくれるのが、ほかならぬ「保守」の概念なのだ。

「立ちどまる」ことが今の私たちにとつて「生きる唯一の現実的な選択肢」であり、その態度が「保守」と呼ばれるものであれば、堂堂と私たちは保守の道を歩まなければならないのである。

  佐藤氏が引いた文章には、面白いものがあつた。ルーマニアの歴史學者ルチアン・ボイアの説であるが、社會や文明は進歩するものだといふ考へは、せいぜいこの二百五十年程度の歴史しか持つてゐないといふのである。したがつて、「保守」とは何か特別な(特殊な)考へ方なのではなく、むしろこの近代の社會のあり方の方が異常なのであつて、「立ちどまる」ことは當然すべき私たちの態度なのである。

  では、いつたい「崩れた」「物事の大枠」となにか。佐藤氏はそれをずばり、理性的な認識のみが眞の認識だとする合理主義にもとづいた社會システム、と定義する。その象徴的な事件として採上げられるのが、一七九三年の、つまりはフランス革命直後の、その名も「理性の祭典」と呼ばれた儀式である。

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不評だつたのか――ラトル指揮のブラームス

2008年12月12日 20時18分54秒 | 日記・エッセイ・コラム

THE PREMIUM~サイモン・ラトル&ベルリン・フィル名演集 THE PREMIUM~サイモン・ラトル&ベルリン・フィル名演集
価格:¥ 2,000(税込)
発売日:2004-09-23
 今日の朝日新聞の夕刊に、サイモン・ラトル指揮によるベルリンフィルの東京公演についての音楽評が載つてゐた。それがまれにみる酷評。かういふ評が新聞に載るといふことに驚いたが、別の人の評価も聞きたいところ。私はその四万円の値段に断念したが、良かつたのか悪かつたのか、と今さらながらに思ふ。いつかは聴いてみたい。

 もし手にとれる人がゐたら今日の夕刊(大阪版)を読んでみてほしい。演奏は、ブラームスの交響曲の三番と四番。新しい試みが、演奏者にも観客にも(評者は作曲家にもと言ひたげであるが)支持されなかつたといふことらしい。

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