言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

今年の三冊(2021年版)

2021年12月31日 10時39分33秒 | 本と雑誌

 今年もあまり本を読まなかつた。それで貧しい読書生活からの三冊なので、その程度のものとご了解いただきたい。

1 吉田修一『国宝』上下巻(朝日新聞社)

2 林房雄・三島由紀夫『対話・日本人論』(番町書房)

3 白石一文『一瞬の夏』(角川文庫)

 以上はいづれも新刊ではない。新刊本では小川榮太郎氏や吉田好克先生のものを読んだが、こちらを優先した。新刊では京大の先生がが書かれた『日本の教育はダメじゃない』も面白かつた。以下の新刊三冊は番外とする。

4 小川榮太郎『國憂へて已マズ』(青林堂)

5 吉田好克『續・言問ふ葦』(高木書房)

6 小松光『日本の教育はダメじゃない』(ちくま新書)

 最初の三冊は、いづれも夏休みに読んだ。近年は夏休みに本を読むことが習慣になつてゐる。日頃は帰宅して食事を摂るともう睡魔との闘ひで読書も仕事も手につかない。読書欲が満たされないのを補ふかのやうに夏休みに読める。そして、この時は小説がいい。十年ほどの前に有吉佐和子『恍惚の人』を読んで以来、夏の小説は精神の安定に寄与してくれることが分かつた。子供には読書感想文が夏休みの宿題として出されることは辛いことでしかないだらうが、さういふことなのではないかと今頃思つてみたのである。

 『国宝』は良かつた。今はコメントする言葉もないが、良かつたといふ印象が残つてゐる。

 二つ目は、林房雄がヤスパースを読み込んでゐることを知れたのが良かつた。『歴史の起源と目標』はなかなか手に入らないが探して買つた。「大衆は一様かつ量的である」と言ふ。それに対しては、特殊で質を持つたものが現れなければならないと考へる林と三島が議論を交はす。大衆の横の量に対抗するには、歴史につながる縦の質が大事だ。しかし、それにも量が必要ではないか、と考へる三島。「縦の筋」を「押し通す」林。二人は別々のことを言つてゐるのではないが、緊張した討議である。私は初版の番町書房版で読んだが、夏目書房から出てゐるのを今知つた。

 三つ目は、タイトル通りの書。データを基に欧米の教育方法を唯一無二の目標とするやうな「教育改革」はやめるべきといふ主張(だつたと思ふ)。たいへん痛快なお話だつた。ただ、その後芦田宏直氏がフェイスブックで「データの解釈が甘い」と書かれてゐて、さうなのかなと言ふ思ひも出てきた。

 いい本に出会ふと幸せな時間が送れる。これは真実だ。

 

 

 

 

 

 

 

 皆様、佳いお年をお迎へください。

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時事評論石川 2021年12月号(第812号)

2021年12月20日 08時48分27秒 | 告知

今号の紹介です。

 1面の「令和三年『腹立ち三題噺』」は必読。今年といふ時代の問題点をくつきりと浮かびあげてゐる。世の中、知性主義や理性主義が浸透し、日本人はインテリの言葉に弱いが、左翼インテリといふ、いかにも冷静で岡目八目的なもの言ひのお説には殊に弱い。媚中派≒「科学的」思考≒人権派は、今年に限らず日本人を惑はすが(私は不快になるが)、今年ほどそれがはびこつたのも珍しい。ウイグル人虐殺への政府の黙殺、コロナ対応の非科学性、人権意識による皇室の伝統軽視、それらは日本のダメさ加減を否応もなく印象付ける結果となつた。

 何が正しいことなのか、それを迷ふのは当然のことだ。正解を生き続けることは私達にはできない。しかし、何が正しいことなのかといふことを問ひ続けることはできる。そして、それをしなければならない。絶えず迷ひつづけることは、絶えず自分を否定することになるので生きづらいことでもある。選択肢はいくつあつても行動は一つしか取れない。だから、ある行動を選択するときには決断が必要だ。しかし、その決断が正しいとは限らない。その決断を下した足元は安定した地面に立つてゐるのではない。針の上に立つてゐるやうな不安定さに耐えなければならない。その不安定さに耐えながら、次の行動を選択しなければならない。その不安定のなかに私たちの生があるといふことの自覚があるかないか。知性主義や理性主義にはそれがない。知性や理性で「正しさ」に到達できると思つてゐる。私はさういふ思考の塊である連中が嫌で嫌でたまらない。「どうしてあなたにはそんなに世界が分かるのですか」と言つてやりたくなる。もちろん、彼等は分かつてゐるはずがない。分からないといふことは分からない連中には、すべてが分かつてゐるやうに見えるだけだ。

 来年もまた、「世界が分かる」連中に日本が引き裂かれていくのであらう。予言をするつもりはないが、さうさうこの状況は変はりさうもないからである。その結果「腹立ち三題噺」をまた読ませていただくことになるだらう。

 どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。  1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)
            ●   

令和三年「腹立ち三題噺」

  対中非難決議不採決、非科学的な専門家たち、眞子さんの結婚

       コラムニスト 吉田好克

            ●

コラム 北潮(アイザイア・バーリンの『反啓蒙思想』について)

            ●

日本の生命線は海洋ルートの維持に

 中国の海洋進出阻止にはロシアも組み込め

   ノンフィクション作家 小滝 透

            ●

教育隨想  「こども庁」論議に欠けてゐるもの(勝)

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立憲民主党が問われていること――共産党の本音を忘れるな

   アジア母子福祉協会監事 寺井 融

            ●

コラム 眼光
 与野党問わない士気の緩さ(慶)
        
 
            ●
コラム
  自分の物語を自ら語る(紫)

  何でも「テロ」と呼ぶなかれ(石壁)

  「政治・好色・花鳥風月」讃(星)

  やはり「医は算術」なのか(梓弓)
           

  ● 問ひ合せ     電   話 076-264-1119 

                               ファックス   076-231-7009

   北国銀行金沢市役所普235247

   発行所 北潮社

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三たび『バッシング論』

2021年12月14日 22時02分53秒 | 本と雑誌

 みたび『バッシング論』を引く。

 先崎氏は、小川榮太郎氏の文章についてかう書く。

「文章には、全く『他者』が存在しない」「小川氏は論争しているつもりで、言葉を書きなぐったのかもしれない。しかしこれは論争でもなんでもない。」「自己の意見を相手に『説得』するための技量がありません。怒りを叩き付け、自分の感情を赤裸々に曝けだしているだけです。これでは文章の内容を読み込む前に、聞き手は文体から響いてくる罵声にまず驚かされ、暴力性に耳を塞いでしまうのではないですか。相手にたいする否定という病しか、聴き取れないからです。」

「他者を否定し、溜飲をさげる雰囲気が、日本全体を雨雲のように覆いつくしている」と見る先崎氏の目に映る小川氏の論文は、その典型なのであらう。私は、当の小川氏の文章を読んでゐないから、その当否は言へない。しかし、その言葉が一定の支持を得てゐるといふことが持つ日本の雰囲気については考へたい。

 つまり、他者を否定することで自分の不快な気分を解決し、溜飲をさげるといふ雰囲気が蔓延してゐるといふことである。先崎氏は、言はないが、もし小川氏がその雰囲気を打ち払ふために、あへてその相手の手法に則つた文体を用ゐたのだとしたら、どうなのだらうか。そこまで先崎氏の筆が触れて、その当否を問ふのであればより収穫の多い指摘になつたであらう。それを言はずに小川氏の「罵声」や「暴力性」を批判すれば、先崎氏の文章にも「全く『他者』が存在しない」ことになつてしまはないだらうか。

 何度も言ふが、私はこの「他者を否定し、溜飲をさげる雰囲気」が問題であると思つてゐる。それを「バッシング」といふのであれば、それを論ふ意味はある。ただ、先崎氏の文体にはどこか他人事のやうな感じがして温もりを感じない。自身の血が流れてゐないからである。具体的に言へば、小川氏に直接論争を挑めばよかつた。それで自分の言論がどの程度通用するのかを試して欲しい。

 これで、終はりとする。

 

 

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もう少し『バッシング論』

2021年12月13日 22時12分58秒 | 評論・評伝

(承前)

「辞書的基底」といふ言葉が頻繁に出てくる。まさに私たちが意味の分からない言葉に出会つたとき、辞書を頼りにその言葉の意味を知り、文の運用を試みるやうに、社会の価値に一定の共通理解があることを辞書的基底と先崎は名付けた。ところが今日のやうな情報化社会においては、その参照すべき辞書的基底がないといふのである。

 うまいことを言ふなといふ思ひと共に、「違和感」もあつた。意味は果たして辞書の中にあるのであらうか。先崎は一見保守的な思考の持ち主のやうに見えるが、実は縁遠いところにゐると感じたのである。天皇への親近感も何だか文化の本質は過去にあるといふ思考であつて、それは保守的に見えて実は過去主義といふやうな思考の持ち主に見えた。

 言葉は、人人の対話の中にあるのであつて、その人人とは過去の人と過去の人、過去の人と現在の人、現在の人と現在の人といふ多元的な交感の中に滲み出て来るものである。もちろん、言葉は過去からやつて来る。だから、辞書には過去の言葉の使ひ方が載つてゐる。しかし、ここからが重要だが、辞書は意味だけで構成されてゐない。それが良い辞書であればあるほど「用例」が載つてゐる。かつて井上ひさしが名著として挙げてゐた辞書『新潮国語辞典』には、その言葉の最も古い用例が載つてゐた。井上はそれをして「言葉の履歴書」と称したと記憶するが、まさに使ひ方は変遷するものだのである。さうであれば、今日問題なのは、辞書的基底といふ固定的な価値観にあるのではなく、人人がどう物事を理解しそれを使つて来たかといふ過去の人人との対話をしないといふことである。その相互作用を拒否し、今生きてゐる人人だけで物事の価値を考へてよいとする態度こそが問題なのである。

 「言葉が暴力性を帯び」、「互いに悪のレッテルを投げ合い、どんどん社会が窮屈になっている」のは、「今生きてゐる人人だけで物事の価値を考へてよいとする態度」から生まれるのではないか。それは辞書的基底の喪失ではなく、「現代人の自己肯定感の強さ」にあると私は見てゐる。一般には、自己肯定感の喪失が問題になつてゐると言はれてゐるが。

 

 

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『バッシング論』を読む

2021年12月12日 20時22分17秒 | 本と雑誌

 

 

 先崎彰容氏の旧著であるが、読んでゐなかつたので読んでみた。これに先立つ『違和感の正体』よりは、やや読みにくかつたが、それはたぶん天皇を巡る言説だらう。

 平成の最後に先帝はご高齢を理由に譲位を望まれた。それに対して保守派も革新派も反対し、先崎氏は先帝のお心を無視した「饒舌だが心貧しい」言論であると一蹴する。ここに私は違和感があつた。辞めたければ辞めればいい、それが人間天皇のお気持ちであるとは、結局、日本は天皇の国といふことなのだらう。もちろん、天皇を戴く国であることは間違ひないことではあるが、その在位は生涯であるといふことが否定されれば天皇は職能であるといふことになる。体力的にきついといふのであれば、その職能部分は皇太子に担つていただけばよいのではないか。生きてあることが天皇であることの証しであり、その身体は御霊を受けつぐ御神体である。

 私がこの『バッシング論』に違和感を感じ、その正体を見極めバッシングするのは以上のことである。

 ただ、次の言葉は深く同意する。

「時代全体が屈折した現在では、伸びやかな思考は難しい。結果、他者を否定し、溜飲をさげる雰囲気が、日本全体を雨雲のように覆いつくしている。これをどうにかできないものか」

 あるいは「辞書的基底」といふ造語を使ひ、社会の根底にあるべき価値基準が失はれたことこそ、時代全体の屈折や不安定さを生み出す原因であるといふ分析も鋭いと思ふ。

 しかし、そのことの処方箋のとばくちに「五箇条の御誓文」を置くといふのは、どうにも贔屓の引き倒しの感はぬぐへない。天皇を戴く国の解決にはそれしかないといふ直観なのだらうが、それが「辞書的基底」になり得ると考へてゐるとすれば、その辞書的基底なるものも地割れした現代を接ぐ弥縫策に過ぎないのではないかと感じてしまふ。

 先崎氏の頭にある現代の青年たちは、きつと天皇とのつながりを求めてゐるのであらう。ロマン的な、あまりにロマン的な社会評論である。

 

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