言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

狂乱メディアの思ふツボーーフィルターバブル

2022年08月21日 09時26分14秒 | 日記・エッセイ・コラム

 テレビやネットニュースは、定期的にあるテーマを流し続けてゐる。

 コロナ禍、ウクライナ戦争、統一教会、どれもこれも同じことばかりで、一向に真実に迫つてゐるやうには思へない。ウクライナ戦争だけは、専門家が分からないことは分からないと言つてくれるが、それ以外の場合には、「専門家」が真実めかして語つてゐる。その論法は「一事が万事」である。自分の診た患者や相談に来た被害者が言つてゐることが事の全てであるやうに語る。そして、次の段階では自分の直感に合致する内容だけを集めるから、その「万事」が真実となつていくのである。

   一事  →    万事   →  真実

 コロナの感染流行がが第七次だといふ。もはやインフルエンザと同じではないか? といふことで、諸外国は対応が変更してゐるが、私たちの国の施策は変はらない。といふより変へられない。

  フィルターバブルといふ言葉がある。メディアリテラシーを身につける際のキーワードである。自分に入つてくる情報には既にフィルターがかかつてゐるのではないか。そのフィルターにかけられた「居心地の良い」情報の中(バブル)にゐるのではないか。さう疑つてみよといふ戒めである。

 特に今やマスコミも大衆もネットから情報を得ることが多いから、この戒めが重要になつて来る。なぜなら、検索エンジンのA Iによつて、自分に都合の良い情報が寄つて来るやうになつてゐるからである。

 フィルターバブルを疑へ。

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姫路散策

2022年05月06日 07時59分44秒 | 日記・エッセイ・コラム

 昨日は朝から姫路に行き、1日散策で過ごす。

 10年以上前、まだお城が工事中だつた頃両親が大阪に来てくれた時に、城が見たいと言つていゐた父の願ひで訪れて以来(今調べると2007年7月16日でした)、城があの修理直後にテレビで見た真つ白い状態である時に来たかつたが、もはや普通の白鷺城で少し残念。だが、その威容は変はらず、美しかつた。

 以前の記憶とは違ひ、天守閣まで随分と遠く感じた。月並みながら城を巡る道のうねりに警備の巧みさを感じた。

 城を出て近くの文学館に足を伸ばした。出てから左手に回り、ちゃうど城の裏側をぐるりと弧を描いて歩くとたどり着いた。山田風太郎展をやつてゐたが、それには関心がない。姫路の歴史と、和辻哲郎に関心があり、何より館長が藤原正彦といふので行くことにした。

 この地にゆかりのある作家や詩人がこれほどゐるのかといふことに驚いた。やはり文化が人を生むのである。その他、この地を舞台にさまざまな作品も生まれた。播州皿屋敷から色々と妖怪話も作られ、泉鏡花が城に棲む妖怪を描いた「天守物語」も確かにこの街である。

 

 それから江戸の末期、藩の生き残りをかけて佐幕か尊王か、攘夷か開国かで揺れる譜代藩の動きも今回初めて知ることができた。その緊迫した時代の舵取りがこの街の歴史に傷をつけ、それを治すために出来たかさぶたが街に豊かさをもたらせたのであらう。そこは駿府とは異なつてゐる。

 ところで、和辻哲郎文化賞に山口謡司『日本語を作った男 上田万年とその時代』が選ばれたことには(2016年度)残炎な気持ちがある。それはその作品が内容として誤りが多すぎるからだ。だいたい、日本語を作るといふ語感が、この種の学藝に相応しくない。国語が一人の人物によつて「作られる」ことはあり得ないが、もしさういふ表現をする以外にない状態があるのだとすれば、それは国語にとつて不幸な時代であつたといふことにほかならない。さうであれば、それを称揚するといふ視点で書かれた作品が果たして「文化賞」的であるのかどうか。疑問がある。

 城のある街はとてもいい。住んでみたいと思つた。

 帰りに駅ビルにあるポールスミス に立ち寄つた。店長が知り合ひで、こちらに異動で来たのを聞いたからである。話を楽しみ、ネクタイを一つ購ひ、家路に着いた。楽しい1日であつた。

 

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ドラマ「しずかちゃんとパパ」が面白い

2022年04月27日 20時56分04秒 | 日記・エッセイ・コラム

 ドラマを観るのが息抜きの一つである。

 今期のドラマの随一(といふかこれ以外は見てゐない。あとは大河か。あらら2つともNHKだ)は、NHKBSの「しずかちゃんとパパ」である。

 初めから観てゐたわけではない。ほかの番組を観てゐるときに出てきた宣伝を観て一度観てみようと思つて観たのがきつかけだ。鶴瓶が好きなのと、吉岡里穂がいいし、「SUITスーツ」で観た中島裕翔がよかつたからである。もちろん、ドラマはまづは本。それが駄目ならいくら役者がよくてもいいものにはならない。この確信を揺るがす芝居やドラマに出会つたことはない。しかし、オリジナル作品の場合には、役者でドラマを選ぶほかはない。

 それで観たのが、一ヶ月ぐらゐ前だらうか。いいなと思ふほどでもなかつたが、悪くはないから観続けてゐた昨日、第7回「パパの深い海の底」が良かつた。

 そのことに振れる前に、まづは全体のあらすぢ。ホームページから。

「舞台は父一人娘一人の父子家庭。 父は生まれながらに耳が聞こえないろう者。 父の耳代わり口代わりを務めてきた娘が、 ひょんなことから出会った男と恋に落ち、 結婚するまでの親離れ子離れのてんまつを 明るく温かく描くホームコメディです!」

「ひょんなこと」とは、中島が演じる男が所属する開発業者が、この父子の住む町の再開発に乗り出した。当然ながら地元住民と対立するが、この「男」はやや発達障害のある感じで、周囲の気持ちが分からないことが幸ひして徹底的に町の人の意見に耳を傾けようとする。そこに好感を寄せる娘と恋仲になる。耳の聞こえない父と離れて、男と一緒になるかどうかに悩むのが今回の話。タイトルでもある「パパの深い海の底」とは、娘が感じる父親の世界である。

 番組がまとめた第7回のあらすぢは次の通り。

「圭一(中島裕翔)から「東京に戻るときは一緒に暮らしたい」と言われた静(吉岡里帆)だが、まだ返事をできずにいた。圭一のことを話そうとすると純介(笑福亭鶴瓶)がそっぽを向くためだ。一方、圭一は海外赴任のチャンスが巡ってきたことを静に相談できずにいた。静が純介を一人にすることを心配しているのが痛いほどわかるためだ。お互いが相手を思いやり身動きできずにいると、圭一の母(宮田早苗)が野々村写真館を訪れる…。」

 このすれ違ひに伴ふ、人人の心の向き合ひ方が美しかつた。

 静に話さうと思ひながら、父親のことを考へる静にどうしていいか迷ふ圭一。圭一を慕ひながら、一緒に海外に行くことになれば「お帰り。行つてらつしやい。いただきます。御馳走様。」を言ふ相手を失ふ父の悲しみを痛いほど感じる静。自分のせいで嫁に行くことを躊躇する静への申し訳なさと、それでも別れることに込み上げる悲しみとに引き裂かれる父。圭一の母親は、どんな娘と出会つたのかを知るために誰にも言はずに純介の営む写真館を訪れる。そこで筆談を交はしながら、障害のある子供が生まれる可能性を知らされる。しかし、そんな時は「お父さんに、どうしたらそんなに明るく生きていけるのかを相談したい」と語る。

 ここには、誰一人自分には真似のすることができない人物はゐない。したがつて、親近感を持てる人物は一人としてゐないけれども、それでも言葉に力があるのが不思議だつた。しらじらしい感じは一切なく、人が生きてゐるといふことを感じた。

 ドラマはあと1回で終はつてしまふけれども、もうこの回で終はりでもいいやうにさへ感じた。

 最終回は、5月1日(日)夜10:00。いかがか。

 

放送予定 - しずかちゃんとパパ

放送予定 - しずかちゃんとパパ

「しずかちゃんとパパ」の今後の放送(再放送を含む)予定一覧です

しずかちゃんとパパ - NHK

 

 

 

 

 

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学校には「門」がある。

2021年08月25日 21時23分17秒 | 日記・エッセイ・コラム

 

 

 夏休みが終はり、全国的に二学期の授業が再開されてゐる。コロナ禍にあつて開始時期を遅らせる地域もあるとのことだが、果たしてそれは妥当か。ゼロコロナを求めれば、家にじつとしてゐるのがいいのだらう。政府も分科会もそれを求めてゐるやうだ。しかし、果たしてそれでいいのか。学校が閉ぢれば、その経験が児童生徒学生の記憶に残る。ことが起きた時には問題の解決を図るよりは問題を回避するのがいいのだなといふ感覚が、じわりと浸透する。しかし、それは不作為の伝播といふことである。

 パンデミックの状況下で、我が国はいち早くこの問題を解決して未だ呻吟する国を救ひにいかうといふ声は皆無である。その意味では中国は凄い。文字通り凄い。国家意思の力は歴然だ。解決と回避との懸隔は甚だ大きい。

 初期診療をなぜ全国の開業医にさせないのか。感染症の分類が邪魔をしてゐるといふのであれば、そんな人為的な「壁」は人間が壊せばよい。それをやるのが政府である。わざわざ早期治療をさせないやうにして、その結果感染者を重症化させて、それでは病院をさがしませう、おいベッドが足りないぞ! と叫んでゐる。マッチポンプである。

 閑話休題。

 学校には門がある。それは容易には越すことのできない高さがあつて、外敵の侵入を防いでくれる。逆に言へば、中にゐる者を守るものである。中には圧力がかかるから、それが学習の成果を上げる働きをする。

 オンライン学習に果たしてそれがあるのか。

 授業が情報の伝達の場であるといふことは事実である。しかし、それは映像においても可能であるとするのには飛躍がある。それは家には「門」がないからである。この場合の外敵とは、ゲームであつたり漫画であつたり、眠気や食欲であつたり、圧力がかからない場では情報は伝達しにくい。有り体に言へば、「気安く学べる」は「気安く学びを放棄できる」といふことである。

 学校は再開しなければならない。コロナ禍でこそ、その意思を示すのが国家の役割である。

 名古屋大学の教育学部に坂本將暢先生といふ方がゐる。教育方法論を研究されてゐるが、今年になつて何度か「授業のあり方」について相談にうかがつてゐる。極めて大きな示唆を受け、行くたびに課題が解決されてゐる。その先生が『教育と医学』(慶應義塾大学出版会)7・8月号に寄稿されたのが「オンライン教育の効果と課題」である。

 そこにかうある。

「学校の『門』は、それを越えられない児童生徒がいるくらいのハードルである一方で、世界や領域を切り分ける口でもあることがわかります。」

 学びは誰でもか可能だが、その「誰」に自分が入るかどうかはまた別の問題である。そこを切り分けるのも「門」である。教師も保護者も、そして文科省も、学校の敷居を低くしよう低くしようとしてゐるが、それは根本的なところで間違つてゐる。「門」が低くなれば、それだけ「気安く学びを放棄できる」ことになるからだ。

 やれやれといふ思ひの中で、二学期が始まる。

 

 

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光明徧照十方世界 念仏衆生摂取不捨

2021年08月23日 09時54分20秒 | 日記・エッセイ・コラム

 

 

 この夏は、父の納骨式があつた。四十九日の法要と併せて新盆の法事もしていただいた。

 久しぶりに西念寺を訪ねた。山梨の夏の涼しさが殊の外気持ちよく、法要の間境内には風が入り静かな時間が流れてゐた。祭壇の横の柱に刻まれてゐたのが、標題の言葉である。

 調べると「観無量寿経」の一節であると言ふ。「こうみょうへんじょうじっぽうせかい ねんぶつしゅじょうせっしゅふしゃ」と読む。その意味は「阿弥陀様の慈悲の御心である光明は、いつもすべての世界を徧(あまねく照らし、念仏を唱へる私たちを見捨てず、必ずお救ひくださる」といふ意味であると言ふ。

 かういふ意識によつてこの宇宙が作られてゐると考へることが、宗教の本質であらうと思つた(仏教のことなど何も知らない私がかういふことを書くことに何のためらひもないわけではないが、半可通なのはいつものことだからいつものやうに書かせていただく。ご寛恕あれ)。私が私の思惟によつて救はれるのではなく、絶対他者の一方的な愛によつてすでに救はれてゐると考へるところが原点になければならない。自己の肯定も否定も、その絶対他者を介在しなければ単なる思惟の産物となつてしまふ。その意味でも「自己肯定感」といふ言葉には重大な欠陥がある。それが自己の認知活動でしかなければ極めて空しいものとなる。

 大事なことは、近代の日本が絶対(他)者を発見できなかつたことだ。自己過信と自己卑下とに引き裂かれてゐることに、現代の問題の根本がある。

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