言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

讀了『つぎはぎ仏教入門』

2011年10月30日 15時24分05秒 | 本と雑誌

   呉智英の『つぎはぎ佛教入門』を讀了した。最後まで面白かつた。

 中學生の頃、近所に運慶作の佛像がある御寺があつた。その御寺は頼朝が平家追討を祈念したところでもあり、由緒ある寺で境内は決して靜謐といふわけではなかつたが、歴史を感じるところであつた。そこは高校への通學路沿ひの場所でもあつたからよく通つてゐた。また、同じく中学生の修學旅行において、はじめて訪れた東大寺三月堂の不空羂索觀音を見たときの印象も壓倒的であつた。暗い御堂のなかで觀たその姿は忘れられない。美術部に屬してゐたが、寫生や靜物畫にはあまり興味がなく、ひたすら佛像の繪を描いてゐた。今もどこかにその頃の繪があるはずだが、佛教の教へそのものよりも佛教美術が私の關心の入り口であつた。龜井勝一郎の影響もあつたかもしれない。

 しかし、五年程前に三月堂を訪ねた時には、まつたく違つた感想を持つてしまつた。木造の乾き切つた感觸の輕さだけが傳はつて來て、かつて感じた重厚さ嚴肅さはなく魂の脱け殼のやうに感じてしまつたのだ。これはこれで衝撃的であつた。相手は變はつてゐないのであるから、こちらが變はつたのである。さうとしか言ひやうがない。今そのときの内情を言葉にすれば、釋迦の教へはここにはないといふことになるだらうか。大事なものの缺落といふ印象が心のなかに滲み出て來てしまつたのである。

 ずゐぶんと滑稽で、幼くて、生意氣な感想ではある。門外漢の單なる思ひつきでしかない。しかし、かういふ思考を頼りに生きて來て三十年にもなれば、さういふ自分に附合つて行くしかない。日本佛教へのこの違和はどうしてなのだらうと考へるのが今後の道である。

 そして、本書を讀んだ。大乘佛教、小乘佛教といふことで言へば、釋迦の教へは、小乘佛教に近い。自己の悟りをいかに果たしたかが釋迦の教へであり、もつと言へば、さういふ悟りを獨り占めにしたかつたのが釋迦である。「天上天下唯我獨尊」とは、さういふ意味である。私だけがこの悟りを得たのであるといふ誇りがそこにはあるといふのだ。たまげた。そして納得した。さうであらう。さうであるはずだ。自利の道が釋迦の教へである。悟りとは一人よがりであるはずだ。佛とは釋迦一人である。然りである。大乘佛教の言ふやうな利他の道は、釋迦の教へではなく佛教徒の教へである。

 もちろん、佛教徒の教へにも釋迦の教へは入つてゐる。だから、現在の佛教は否定すべくもない。しかし、釋迦の教へを知りたければ、なるたけ古い御經を讀むにしくはない。これでしばらくはすつきりとしよう。日本佛教徒の附合ひ方が分かつたやうな氣がしたからだ。

 手始めに、私は『日本の名著』シリーズの「富永仲基」を讀まうと思ふ。佛典の考證的批判研究を日本で最初に始めた仲基は大阪に生まれた學者である。

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「諦」は「あきらめる」か。

2011年10月21日 12時52分15秒 | 日記・エッセイ・コラム

つぎはぎ仏教入門 つぎはぎ仏教入門
価格:¥ 1,470(税込)
発売日:2011-07-23

 呉智英の『つぎはぎ仏教入門』を面白く読んでゐる。仏教についての私の疑問がつぎつぎと解けてゐる。マルクスがマルキストでなく、イエスがキリスト教徒でないやうに、どうやら釈迦も仏教徒ではないやうだ(考へてみれば当たり前だけど)。それで腑に落ちることが多くなつた。あんなこんなの仏教にたいする疑問が生まれるのは、後から釈迦の言葉にいろいろと付け加へられ解釈が付き足されて変化したゆゑであると知れば、納得がいくのである。そもそも釈迦はさうは言つてゐなかつたのかといふ感慨は、なかなかに爽快である。なるほどさういふことであつたか。例へば、輪廻転生。あんなこと言ふはずがない、インドの伝統的な考へにすぎない、さう思つてゐた。果たしてその通りであつた。釈迦が言つたのは解脱だけである。

 ところで、「諦」についての理解もこの書で知つた。一般に私たちは「諦」は「あきらめる」といふ意味で使つてゐる。しかし、仏教で言ふ「四諦」、つまりは苦諦、集諦、滅諦、道諦の「諦」は、「明察する」といふ意味である。さうでなくては意味が通らない。四つの諦めでは、何やらニヒリズムである。仏教の「苦諦」とは、人生を迷ひ苦しむとはどういふことかを「明らかにする」といふことである。なるほど、さうかと思つて、漢和辞典で調べると、何のことはない、明確に①つまびらかにすることと書いてあつた。②として(国語では)あきらめること、とあつた。どこでどうやつて変化したのかは分からないが、そもそも漢字のなかには「あきらめる」などといふ意味はないやうだ。

 しかしながらである。諦めるためには、明らかにする必要があるといふのは結構意味深長ではないか。例へば、娘を殺された父親が、「どうして娘がこんな目にあつたのか知りたい」といふことがあつたとする。もちろん、知つたからといつて娘が帰つてくるわけではない。しかし、私たちの人情として頷けるのは、原因を知りたい、せめて原因だけは明らかにしたい(明らめたい)といふ気持ちである。原因さへ「明らめられ」れば、心理的に「諦めら」れる。「明らかにする」ことができれば、「諦める」こともできるのである。さうであれば、明らめると諦めるとは心理的には連続してゐるといふことも理解できる。

 もちろん、こんな小難しいことを言はずとも、言葉自体がそれを示してゐるとも言へよう。漢字が入つてくる以前から、「あきらめる」といふ言葉はあつたのであるから、「明らかにする」と「諦める」とは同じ言葉の範疇に入つてゐたのである。和語の世界では同じである。

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「一命」を觀る。

2011年10月19日 23時11分39秒 | 映画

一命 (講談社文庫) 一命 (講談社文庫)
価格:¥ 500(税込)
発売日:2011-06-15
 悲劇はどうやら時代劇でしか描けないやうだ。それを實感する作品であつた。切腹を見届けることは武士としての真つ当な生き方である。そのことが儼然とあるからこそ、家族のために狂言を使つてしまつた者が自害せざるを得なくなつたことが本当の悲劇になり得たのである。もしそこで「おぬしはそれほど生活が苦しいのか」と情けをかけて美談にしたのでは、あまりに「現代的」である。これは確かに悲慘な話である。救ひはどこにもない。かういふ悲劇は、同情と微温的な共感とにあふれた現代では決して起こり得まい。だから、かういふ映畫は現代劇では作れない。さうであれば、かつてはかうしたことが「常識」であつたといふことを思ひ出させてくれただけで、現代の映畫としては十分に意味があると思ふ。見てゐる者に刃を突きつける、さういふ作品であつた。

 役者が良かつた。音楽が良かつた。ただ、一点の不満は、井伊家の屋敷が暗すぎた。あの陰鬱さは過剰であると思ふ。

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『猿の惑星:創世記』を觀て

2011年10月17日 22時23分44秒 | 映画

猿の惑星:創世記(ジェネシス) [DVD] 猿の惑星:創世記(ジェネシス) [DVD]
価格:(税込)
発売日:
  先日、映畫『猿の惑星:創世紀』を觀た。觀始めて、どうしてこんな映畫を觀ることにしたのだらうと後悔した。理由は、二つ。

   一つには、生理的に受け付けなかつたこと。氣持ちが惡いのだ。猿が人間のやうに振舞ふこと。そして、出てくる人間の中に實に不快な言動をする者がゐて、それがたまらなく嫌だつた。

   もう一つは、猿が人間のやうになれば、感情もまた人間のやうになるはずなのに、そこだけは猿のままであつて、野生をむき出しにしてゐるのが興醒めであつた。有體に言へば、人間から銃を向けられれば、猿だつて恐怖を感じるはずなのに、彼等にはそれは無かつた。恐怖心など一切なく、人間をやつつけに行くのである。人間への敵對心が恐怖よりも優つてゐたと言ふのかもしれないが、あの猿たちにそれほどまでの人間への敵意がある必然性を、映畫は描いてゐなかつた。

   先日、朝日新聞で沢木耕太郎がかなりの分量を使つてこの映畫を論じてゐたが、私にはずゐぶんとその評が甘いと感じられた。「瑕はある。しかし、その瑕以上に、見てゐる私たちの心を昂揚させてくれるシーンがいくつもある。」と書いてゐたが、そのやうな「快感」はなかつた。感性の違ひと言へばその通りであるが、もつと辛口であつても良いと思ふ。

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卵は温めたら雛になるか。

2011年10月16日 22時15分22秒 | 日記・エッセイ・コラム

 誰かの話を聞いたのだつたか、それとも本で讀んだことだつたか。「質を上げるには量をこなさなければならない。量をこなさなければ質は上がらない」といふ内容のことが記憶に殘つてゐる。

  隨分と亂暴なことを言ふなと思つた。必要條件と十分條件との差がまつたく示されてをらず、荒つぽい話だといふのが率直な感想である。

   多作の作家が、寡作の作家より好い作品を書くなどといふことなどあるまい。もちろん、その逆も眞實ではない。向上心とセンスと蓄積とがあつて、その上ではじめて書くといふ努力が成果を擧げていくのである。もちろん、それとても絶對的な保證をするものではない。

   量をこなせば質が上がるなどといふことを氣樂に書いたり、話したりできる人は、きつとさういふ努力をして來なかつた人であらう。もつと人間つて殘酷なものだらうよ。努力しても努力しても結實しない、さういふ事實にいかに附合ふか、さういふことを私なら書く。もちろん、これは努力しないことの免罪符にはならない。しかし、である。事實は、やはり事實である。

   レーニンであつたか。鷄の卵は、21日間あたためれば孵化して雛がかへる。これこそ量から質への轉換だと書いてゐた。勞働價値説である。唯物思想の持ち主なら、量は質へと轉換すると言ふのだらう。

  皮肉を言へば、受精卵ではない卵なら21日もしないで腐つてしまはう。これもまた質への轉換と言ふのなら、その強情さは買ふ。

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