言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

機械の老朽化とそれに対する対策、それによるどうでもよい迷ひごとと、それゆゑに消耗する我が貧弱な精神

2016年07月24日 11時02分33秒 | 日記

 先日、『坊っちゃん』のビデオを見せようと教室にあるビデオデッキに入れたところ、テープが絡みつき映らないは、テープに傷がつくはで大わらは。やうやく取り出すことに成功して、一安心。そして家に帰つてテープの傷み具合を確かめようと我が家のデッキに入れるも同じ状態。踏んだり蹴つたりだが、これも試練。何とかしようとデッキを分解して、やつとの思ひで取り出したが、症状としては学校のものより悪い。もうこれは使ひ物にならない。テープをDVDに落とし込もうとしてゐたが、それもあまり活用しないままご臨終である。見れば2005年製とあるから、10年も経つと、機械も相当に痛むらしい。さう言へば、昨年あたりからこちらは25年ほど前に購入したサンスイのステレオであるが、CDの取り出し口が閉まつたり閉まらなかつたりといふ症状が出てゐる。25年とは物持ちがいいのかもしれないが、機械は形状が崩れずに機能だけ低下するから老朽化をあまり深刻に受け止めない。きつと新製品を買へば、もつと早くに買ひ替えればよかつたといふことになるのは分かり切つてゐるもののさうはできない。愛着もあるのかもしれながいが、機械の進化を無理やり取り入れる必要を感じないのである。

 しかし、録音機械や音声や録画の再生器機はどんどん変化してゐる。今更何を言ふかと言はれるかもしれないが、音声テープやVHSはおろか、MDもCDも絶滅危惧種のやうな状態である。かういふ進歩は必然的なものであるから、逆らふことは意味がないが、それでも何か腑に落ちないといふ気分は残る。保守的な気分であるが、嫌な感じでもある。

 その点、本はいい。電子書籍といふものもあるが、それがシェアの大半を占める時代は来ない。資料や辞書などの用途に限られよう。したがつて書庫としての図書館にはもつて来いの媒体であるが、思考の空間としての図書館、あるいは書斎などにはそれは不向きである。

 この夏も本の整理をし、本を読み、文章を書くつもりである。大阪と愛知に本が分散してゐるので、クラウド上に書庫を作り、それをどちらからでも読めるやうにしたらどうかと提案してくださる人もゐるかもしれないが、今はさういふ誘ひには魅力を感じない。増えていくばかりの本を整理し、性格上分散しがちな思考に、意識的に枠をはめていくのが私にとつて大事なことのやうに感じてゐる。さうであれば、電子情報として本が無限に増えていくといふ状況は、むしろ害毒である。ブレイクの詩にあるやうに「よどめる水に毒ありと思へ」よろしく「積み上げられた本に毒ありと思へ」を戒めとしたい。

 さて、その前にこの夏は、VHSをハードディスクやDVDに録画する機械を買ふかどうかに迷つてゐる。聞けば、VHSの再生機はこの7月で製造終了らしい。これから入手は困難、値段は上昇となる。2時間テープをDVDにするのを外注すると一枚1500円。機械を買ふか、デッキを買ふか、それも思案のしどころである。何事も決断力がない私は、いつも迷つてばかりだが、この夏もかうしたどうでもよい思案に無駄なエネルギーを消耗してしまふのであらう。呵々

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