言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

失はれた百五十年――偽りの国づくりの限界が見えた

2019年03月12日 20時51分09秒 | 評論・評伝

 以下に最近書いた評論を載せる。御高覧いただければ幸ひです。

 

 

 明治十八年の年末、日本で初めて内閣制度が創設された。伊藤博文が総理大臣に就任した年だが、当時は藩閥政府であつた。民主的な手続きではなく維新の功績を基に、薩長などが輪番制で政権を担つてゐた。そして後には元老がそれを受け継ぎ、普通選挙が行はれる大正期になつても、属人的な性格は変はらなかつた。

 では、今日はどうか。確かに形式的には主権在民の精神にのつとり、国会議員は公正な選挙によつて選ばれ、彼らの互選によつて首班指名がなされ内閣は構成されてゐる。しかし、実態はどうか。平成の総理大臣は十六名ゐるが、その内の十名は父親も衆議院議員である。実に六割超。これだけでその属人性を語ることは無理とは言へ、政権担当者が「ある家系」によつて占拠されてゐる事実は深く記憶されてよい。それが、「英才教育の賜物」か、「選挙に勝つための手段」かはともかく、「世襲」的性格を帯びてゐるのは事実である。

 総理大臣の選び方が、この百五十年の間に維新の功績から投票者の数に変化し、非民主的なあり方から民主的な制度へと一大変革を果たしながら、皮肉なことに属人性といふ非民主的な性格を帯びてしまつたといふ逆説には、私たちの近代に大きな欠陥があるといふことではないか。

 

「偽物」でしかないものを「本物」として崇めてしまふ

 ことは表層の問題ではないから人々に意識されることも、直ちに問題になることもない。しかし、どうしてこの社会はつまらないことに時間を取られ、いつもいつもどうでもよいことに時間を奪はれ、無駄に資金と人材が投入されてしまふのか。そこに根本的な欠陥があるやうな気がしてならない。憲法、国防、教育など根幹に関はる問題について何一つ進展してゐない原因もそこにある。

 それは何か。仮に名付けるとすれば「偽物信仰」だ。偽物を本物のやうに信じ、それを崇め続ける。しかもその経験を無にしたくない意識が、なほ一層その偽物を信じる傾向を強める。しかし、偽物は偽物であるからしだいに綻びは出てくる。そのときに「これは偽物だ」と思へれば立ち直るきつかけも見つかるが、その綻びを繕ふやうにしか信仰バイアスはかからない。

 かういふことを続けて来たのが私たちの近代であつた。その意味では、漱石でさへ真実から目を背けてゐたとさへ言へる。大正三年に書かれた小説『こころ』の主人公である「先生」は友人を裏切つたことを後悔し自殺をするが、その遺書に「明治の精神に殉じる」といふ言葉がある。漱石自身がその精神が失はれた淋しみを感じたからだらうが、果たして本当に「明治の精神」なるものはあつたのだらうか。

 また、明治の精神を体現したやうな西郷隆盛を論じた書『未完の西郷隆盛』が近年話題になり、その著者先崎彰容はその中で「近代社会のなかでどう生きればよいのか、どう死ねばよいのかを考えるとき、日本人の心のなかに西郷はその魔術的な魅力で大きな姿を現してくれるのではないか」と書き、西郷の死生観に近代日本人の生き方を問ひ続けてゐると告白してゐる。しかし、一人の人間の死生観に近代日本人の生き方を問ふといふ態度が既に偽物である。さういふことを問へる人物がさうさう現はれるはずがない。

 なぜなら、さういふ人物はこれまでに数人しか生まれてゐないからである。ぎょつとする話かもしれないが、世界を見渡せばそれが常識であらう。つまりは三大宗教の教祖たちである。私たちが古事記の神話を持ち出して、世界に対抗しようと本気で考へるのなら、中世のない日本がどうして近代化できるのかを説明する必要がある。宗教が絶対権力を握り人々を現世においても来世においても支配する時代を生きずに、そこから脱出することによつて個人の誕生を図る近代化を経験できるのか。それも説明せずに世界に対して「日本文明」の優越性を称揚するのはどう控へ目に言つても驕傲であらう。

 

偽物で誤魔化す先は「隷従への道」である

 話を元に戻す。中世もなく、したがつて近代もないはずの日本が、これだけの経済大国になり先進国の一員になれたのは、下駄を履いてゐたからに違ひない。それも相当の高下駄である。天狗の履くやうな下駄だから、羽根のない私たちは非常に不安定でもある。しかし、どうにかそれを凌いできた。下駄を履いてゐるのではない、しつかりと素足で大地に立つてゐると自分で自分をだまして凌いだのである。

 そのやうな欺瞞を自分たちの真実であるとしてゐるうちに、皮肉なことに「偽物」は自分たちでは制御できないほどの「実体」になつてしまつた。そして、それに隷従することを強いられるやうになつた。いや、強いられるのではなく、進んでそれを求めてしまつた。生き方の理想を失ひ、その実現のために闘ふ自由を失つてしまへば、考へることを、正しいとは何かを考へることを誰かに任せてしまふことになる。勘の鋭い人は思ひつくだらうが、ドイツ人が全体主義に接近していつた過程は、まさにその実践であつた。全体主義国家の体制に近づかなければ、あまりに不安定で無秩序で無定見な社会を維持することなど到底できなかつたからである。ハイエクが第二次大戦時に弾劾したやうに、それは「隷従への道」であつた。そして私たちの現在もその道に通じてゐる。

 どうだらう。この活力のない私たちの現状は。東京はオリムピツクを目前にして建設ラッシュである。その変化に目を瞠るが、その一方で活力を全く感じない。流れてはゐるが躍動してゐない印象なのだ。それは有島武郎が『或る女』で描いた女の姿を彷彿とする。その女は再婚相手を求めてアメリカ行きの船に乗る。しかし、下船することなく帰国する。アメリカでの自由を夢見たものの船の事務長に惹かれて恋に落ちてしまつたからだ。帰国後の生活は悲惨で、女は子宮の病で苦しむことになつた。行きの船の中では社交の中心であつたその女は、限られた空間の中では自由を満喫してゐたが、それは虚飾の世界の出来事だつた。実は帰国後の不幸の始まりは、行きの船の中にゐた別の女の嫉妬による策略であつた。浮かれて幸福を味はつてゐる中に不幸の種は隠されてゐたのである。

 東京の活況は、行きの船の中の「或る女」と二重写しになる。

 

知性や理性の万能主義を捨てよ

 今日、教育にさへPDCA(plan-do-check-action cycle)などといふ方式が理想的な学習計画法として提案されてゐる。そもそもこの言葉は工場の品質管理の用語であり、人間を工業製品と同列に考へることが愚の骨頂だ。しかも日本以外では生産管理用語としても使はれてゐないといふのだから笑止である。伝統や慣習、あるいは偶然的な出会ひに基づいて教育はなされるものであり、それは教師‐生徒の相互依存関係の中で醸し出される現象である。カリキュラムが計画され、実行され、確認され、改善されることはあつても、それは均一化を目指して意図的に設計されるものではない。このやうに、偽物信仰は合理主義を身にまとひ浸透してゐる。

 では、どうすべきか。答へはじつに明確だ。それは知性への過信を捨てること。知らないことは知らないと言ふことである。理性を尊重しすぎる知性主義は、個人の教育や社会の統治を合理的に設計しようとする。しかし、知性は嘘をつくし、合理性は真実の確証と関係ない。だから、それらを過信してはならない。をかしいことにはをかしいと言はねばならぬ。直観の力だ。それを涵養するのは伝統や教養、そして本物の信仰である。

 昨年は明治百五十年でありその偉業を讃へる文章がたくさん出たが、畢竟それは虚飾(偽者)の讃美であり、恥の上塗りである。

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