言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語263

2008年04月28日 07時32分31秒 | 福田恆存

(承前)

 言語と人間との關係は、言語發生の状況を手がかりに考へるべきだといふのは、いかにも本質論から述べてゐるかのやうである。が、さう語つてゐる背景をよくよく考へて見れば、それほどには學問的良心に基づいてゐるといふのではない。傍目八目よろしく自分だけが假名遣ひ論をめぐる表音派、表意派の對立を正しく客觀的に見てゐるといふ自負心がさう言はしめてゐるのである。しかし、「自己表出」といふキーワードでそれらの對立は解消すると言ふのは、じつは何も言つてゐないのと同じである。言語發生の状況を手がかりにしては「假名遣ひ」といふものの本質はつかめないからである。

文字とは何かといふことを少なくとも福田恆存は考へてゐるし、日本語の文字とは、たとへ自己表出であらうとなからうと、表音化はできないのであるから、假名遣ひといふ現象が招來するのである。吉本氏は、どうやら言語の本質を話し言葉においてゐるやうだが、そして、それはソシュールの受け賣りのやうにも思へるが、言葉の發生がさうであるからと言つて、文字が誕生した後において、どちらが本質であるかといふことを主張することに意味があるとは思へない。そのことの根據は、今まで縷縷述べてきた通りである。

「假名遣ひ」はその意味で、音と文字との關係性の總體であり、その「書き樣」にこそ本質があるのである。そして、それこそが福田恆存の言語觀であり、言つてよければ私たちの國語の姿なのである。

  吉本氏は、「言語の意味とは意識の指示表出からみられた言語構造の全体の関係である」と定義し(七〇頁)、「意識の自己表出からみられた言語構造の全体の関係を価値とよぶ」とも定義してゐる(八一頁)。しかし、その「意味」も「価値」も、単語として絶對的に表はされるものではなく、あるいは個人が單獨で作り出したものではない以上、文章化し、歴史性をおびた文法の影響を受けるのであるから、「書き樣」の中にしか表はれて來ないと定義すべきである。吉本氏が戰前生まれでありながら、歴史的假名遣ひを使はずに「現代かなづかい」を用ゐるといふところに意圖せぬ「意味」や「価値」が表はれてゐるといふことを見れば、このことは明らかであらう。

 自己表出といふときの「自己」とは何か。何を根據にしてゐるのか。また、「言語にとって美とはなにか」といふときの美の根據はどこにあるのか、そのことをこそ問はなければならないのである。それに答へずして假名遣ひ論爭は、簡單に解消するなどと言ひ張るのは、暴言か妄言かはたまたはったりか虚言かのいづれかである。

『言語にとつて美とはなにか』といふ本は、きはめて難解である。私の讀解力の無さに起因するのであらうが、それを一端棚にあげて考へても、引用の多用が論理の流れをとどめてしまつてゐる。これは時枝誠記も言つてゐることである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言葉の救はれ――宿命の國語262

2008年04月26日 11時11分07秒 | 福田恆存

(承前)

言葉は、自己(「存在」)のものである以上に「關係」のものである。これが、福田恆存の言語觀である。言葉は自己のためにあるといふことが、最も重要な性質であるとは考へない。

「私」が使ふ言葉は、「私」を組み立て、「私」を説明し、「私」の思ひを明らかにするためにあるととともに、他者へと意志を傳へ、共感したり反撥したりするためのものである、といふ程度の役割しかないのであるなら、言葉の歴史性はどこにあるのか。

言葉が「自己」や「指示」の道具でしかないのなら、歌に遊ぶ日本の歌會の傳統や、ギリシャ悲劇のコロスの文化や、あるいは神への祈り、佛への聲明は、いつたい何だと説明するのか。吉本隆明氏のやうに「自己表出」と「指示表出」といふ言葉で、人間と言葉との關係をとらへやうとすることに私は、あまり重要な意義を見出すことができない。したがつて、吉本氏の福田恆存批判は批判になつてゐない。福田恆存を吉本氏は見てゐるやうであるが、あまりに距離がありすぎて、吉本氏の劍は福田に屆いてゐない、さういふ結論を持つてゐる。

  もちろん、文學作品を言葉の次元でとらへ直さうといふ吉本氏の試みは、印象批評を越える批評のスタイルを作り出すきつかけになつた(これにも異論がないわけではないが)ことは多とすべきことである。しかし、それとても「文學理論」といふ言葉の上に「吉本流」といふ冠詞をつけなければ流通しないものだと思ふ。

小林秀雄の批評は印象批評に過ぎないと、丸谷才一氏や山崎正和氏からは嚴しく批判されるが、その一方で「近代批評の確立者」として評價され、「小林流」と限定されて理解されるといふことはない。その意味で、吉本氏の文學理論は、御本人が考へてゐる以上に、個人的な見解にすぎないのである。

『言語にとって美とはなにか』は、文學作品を多く引用し、自己の言語理論を驅使して説明してゐるが、我田引水を免れてゐない。

  ただし、吉本氏以上にそれらの作品を讀込んだとは言へない私には、これ以上「批評」めいたことを書けば、嘘が入るから、彼の言語論全體についての評價については留保する。

  やはり、中心は「歴史的假名遣」についての吉本氏の考へに對する檢討である。

 言語發生の状況を手がかりに、言葉と人間との本質的な關係を考へようとする吉本氏が、それこそ言語の歴史性と考へるのなら、それは見當違ひである。無文字社會でならいさ知らず、今日では文字と音とが成立してゐる以上、また私たちの國語において「假名遣ひ」が成立してゐる以上、「自己表出」の一語で、歴史的假名遣ひの問題を考へるのは無理である。

  吉本氏は假名遣ひ論をめぐる對立は、兩者が文字とは何かといふ本質論に向はないところに生じた問題であり、文字が言語の自己表出といふことの過程に生まれるものだといふことを知れば、解消してしまふものであり、その後にどのかなづかひを用ゐるかといふ議論は、その人の趣味であるかのやうに言つてゐる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時事評論石川  4月號

2008年04月23日 21時03分36秒 | 告知

○最新號の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。編輯長は、長く「月曜評論」の編輯長を務めてをられた中澤さんです。「諸君!」「正論」では取上げられない話題と、鋭い視點を毎號讀者に提示する得難い新聞です。1部200圓、年間では2000圓です。

福田康夫・小沢一郎両氏の退場を勧告す

    ――素人VS大根の三文芝居――

                  評論家・拓殖大学教授 遠藤浩一

"笑止"な偏向判決を如何にして克服するか

  ――沖縄戦集団自決――

          明星大学戦後教育史研究センター  勝岡寛次

政治家と言葉

                        文藝評論家  前田嘉則

奔流            

国政は機能不全に

  ―民主党の政略優先が問題―    (花)

コラム

        登山家・野口健の慧眼  (菊)

        「圓」と「円」を考へる (柴田裕三)

          「生き方がない」時代の教育 (星)

        学習指導要領改訂と朝日(蝶)            

  問ひ合せ

電話076-264-1119    ファックス  076-231-7009

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言葉の救はれ――宿命の國語261

2008年04月22日 21時29分00秒 | 福田恆存

(承前)

定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫) 定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)
価格:¥ 700(税込)
発売日:2001-09
定本 言語にとって美とはなにか〈2〉 (角川ソフィア文庫) 定本 言語にとって美とはなにか〈2〉 (角川ソフィア文庫)
価格:¥ 680(税込)
発売日:2001-10

  吉本隆明氏の『言語にとって美とはなにか』の引用を續ける。

「しかし、福田の歴史かなづかい論の基礎となっている言語観は、福田が自負するほど正しいとはいえない。歴史かなづかい論者と、現代かなづかい論者との論争は、こっけいでまた悲惨なことに、言語は社会的交通手段か、または自己表出か、というわたしがすでにとりあげてきた論争とわだちをひとつにした通俗的な対立にすぎないのである。

(中略)

 文字の成立によってほんとうの意味で、表出は、意識の表出と表現とに分離する。あるいは、表出過程が、表出と表現との二重の過程をもつといってもよい。言語は意識の表出であるが、言語表現が意識に還元できない要素は、文字によってはじめて完全な意味でうまれるのである。文字にかかれることによって言語表出は対象化された自己像が、自己の内ばかりではなく外に自己と対話するという二重の要素が可能となる。

 書き言葉は、福田恆存のいうように語につかえるのではなく、言語の自己表出につかえるほうにすすみ、語り言葉は指示表出につかえるほうにすすむ。かなづかいの歴史的な変遷は、文学を頂点とする書き言葉の進化と、生活語を頂点とする語り言葉との対立と、滲透の複雑な過程がきめるのであり、また、書き言葉の専門家である文学者といえども、生活語の世界に生きているという内的な矛盾をもち、この矛盾に内発されて自らの文学的な語法をきめざるをえないのだ、というところにしか、かなづかい問題の本質は存在しないのである。歴史かなづかい論と現代かなづかい論の対立は、まさに、それぞれの論者の言語観の対立であり、また言語と何か、文字とは何かを本質的につかみださないところに論争の空しさはあらわれている。

 文字には、時枝、福田のいうように表音文字と表意文字の区別があるのではない。このような区別は、<さらさら>というのは水の流れる擬音からうまれた表音文字であり、<死>というのは、生きものが死ぬことを意味する表意文字であるというような、つまらぬ区別からうまれたものにすぎない。

 言語には、自己表出にアクセントをおいてあらわれる自己表出言語と、指示表出にアクセントをおいてあらわれる指示表出語があるように、言語本質の表記である文字にも自己表出文字と支持表出文字の区別があるだけで、これが本質的なのだ。」

 以上を見れば、吉本氏の言語論のキーワードが「自己表出」と「指示表出」であることは明らかである。そして、言語の本質は「自己表出」であるといふのがその主張の骨子である。

  しかし、この「自己表出」や「指示表出」といふものが一體何を意味するのか、そしてそれがそれほど言語といふものの本質をとらへてゐるものであるかどうか分からない。いや分からないといふ言ひ方では不徹底であらう。言語本質から派生的に生まれた性質であると見るのが、福田恆存や私の言語理解である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言葉の救はれ――宿命の國語260

2008年04月19日 07時17分10秒 | 福田恆存

(承前)

  次に、吉本隆明の福田恆存批判を取り上げたい。吉本隆明は、大正十二(一九二四)年生まれである。福田恆存は大正元(一九一二)年生まれであるから、一囘り違ふ。同じく東京に生まれてゐる。

  吉本と福田とを論じたものはそれほど多くはないだらう(小學館發行の『昭和文學全集』の第二七卷に、福田恆存と吉本隆明とが收められてゐる。このことはこれまでの文學全集にはないことで、「戰後思想史」を考へる上で重要である。編輯が一種の批評行爲であることを思へば、大した批評眼である。福田恆存と保田與重郎や中村光夫とではなく、吉本や花田清輝と組み合せるといふのも面白い。また、第三文明社が出した『現代思想家論』の中では、その三人を論じてゐるが、これも重要な仕事である。さらに附け足せば、近年出版された丸谷才一、鹿島茂、三浦雅士三氏による『日本文学全集を立ちあげる』では、福田恆存は山本健吉と一卷をなしてゐるが、吉本隆明の卷はない)。

なぜ、吉本と福田と同時に論じたものがないのか。それは二人を同時に讀むといふことは、精神を自ら引き裂くといふことでもあつて、難しいからである。吉本は紛れもなく左翼である。それほど讀んでもゐないのにどうしてそんなことが分かるか、と言はれれば困るが、少なくとも氏の作品の讀まれ方は左翼的である。つまり、氏の讀者の多くは左翼である。吉本は社會批判の道具になつてゐる。

  事象を追ひ求め、その本質を見極めようとするのであるが、殘念ながら吉本はいつでも結論を持つてゐる。視點をずらしたり、新しい觀點を持ち出して面白い論じ方をするけれども、どうにもごまかせないのは、彼が言葉の歴史性に關心がないといふ「結論」である。もちろん、氏は個人の、現在の感性を大事にする詩人である。さういふ人物に「歴史性」などといふことを持ち出すと話がいよいよ混亂してしまふだらうが、觀念の操作を樂しんでゐる稚気をおびた男の子のやうな姿にしか、私には見えないのである。その言葉は「記號」としか目に映らない。レッテル張りと言つても良いかもしれない。少少嚴しい言ひ方かもしれないが、觀念操作は巧みだが、その説明が實體を正確にとらへてゐないやうに思へるのである。

『言語にとって美とはなにか』といふ大著を讀むと、その歴史性の無さに辟易させられる。論理的であるといふことが、これほどに説得力がないものなのかといふことを痛感するのである。

  もちろん、私は吉本の愛讀者ではない。愛を以て接しない讀者に作家はその眞實を明らかにしないのであれば、私のこの感想も虚空に映し出された蜃氣樓のやうなものかもしれないが、それを承知で續ける。

  まづ、吉本の引用から。以下の引用は、『言語にとって美とはなにか』である。

「福田恆存の文字論の本質的な部分は、時枝誠記が『国語学言論』で展開した文字論が、つかわれているというよりも、言語哲学として論の基礎となっている。この考察はこのかぎりで正当なのであり、書記行為としての文字は、意味、音声の表現としての文字の部分的な過程をなすという時枝のかんがえは、よく展開されている。(以下、次囘に續く)」

(引用文のゴチック體は、本文のまま。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする