言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

高校野球観戦

2013年08月23日 21時59分56秒 | 日記・エッセイ・コラム

 確か、福田恆存は掛川中学を高校野球(当時は中学か)に出場する選手への成績を大目に見てほしいとの依頼を拒んだゆゑに馘首されてゐる。

 福田が高校野球を好きではない理由は分からないが、私もあまり好きではない。高校野球は高校総体にも所属してをらず、会場も毎年甲子園と決めてゐて、他のスポーツとは区別した特別の待遇を受けてゐる。学校といふ少なくとも建前上は公正を重んじる場所で、これほど大ぴらに差別が許されるのも、どうかしてゐる。しかもあらうことか、春は毎日新聞が、夏は朝日新聞がといふ、戦後民主主義を高らかに謳ひあげる二大マスコミが後援するといふ構図が、どうにもたまらなく嫌なのだ。

 そんな私が、関西に来てから何度か高校野球を見に行く。それはいづれも自分がかかはつた学校が出場したときである。情に掉さして流されてゐるわけだが、まあ仕方ない。

 それで、今年は準優勝した延岡学園の応援に行つた。こちらの都合で、行けたのは準決勝の試合である。とにかく暑かつた。相手のチームどころか、応援した当のチームのことも分からない。とにかく、打てば喜び、点が入ればもつと喜ぶ、それを炎天下の中、二時間ほど繰り返しただけだ。結果的に勝つて、一緒に校歌を歌ひ、少し涙ぐんで、アルプススタンドを出て行つた。会場外でたたずむ校長先生と偶然出会ひ少しく話ができた。生徒の一戦一戦ごとの変はりやうを驚きをもつて伝へてくださつた。勝つことによつて自信をつけていく生徒らの変化に、校長自身が驚いていらした。目の前をかつての教へ子が通りすぎて行つたが、声をかけられず、一人で勝利の余韻に浸りながら、電車に乗るまでの長い行列の中を、ぬるくなつたペットボトルの飲み物を飲みつつ歩いてホームに向かふ。汗だくになりながらやうやく電車に乗り、梅田でやうやく一息ついて、文藝春秋を買つて帰宅した。

 彼らの甲子園での初戦は、義母の新盆で帰つてゐた宮崎で見てゐた。それがあれよあれよといふ間に準優勝するまで上り詰めた。そして、準決勝だけであるが目の前でその試合を見ることができた。うれしかつた。

 優勝できなかつたのは、彼らにとつては悔しいことだらう。宮崎県の代表はまだ優勝してゐない。私がゐた頃も、「宮崎が先か、長崎が先か」と優勝してゐない二つの「〇〇サキ県」を揶揄する言葉があつたが、今回もその目標は先延ばしだ。まあ、また長い低迷があるのかもしれないが、また来いよ。その時には応援に行けたら行くから。

 準優勝、おめでたう。

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「爪と目」を讀む

2013年08月22日 11時00分42秒 | 文學(文学)

文藝春秋 2013年 09月号 [雑誌] 文藝春秋 2013年 09月号 [雑誌]
価格:¥ 890(税込)
発売日:2013-08-10
 芥川賞を受賞した、藤野可織「爪と目」を読んだ。ここのところ、だらだらとして朦朧体ともいふべき文章によるもの(丸谷才一も絶賛してゐたから、それなりの書き手ではあるのでせうが、私の好みではありませんでした)や、淫らな生活を誇らしげに書いた私小説や、気を衒つたとしか言ひやうのない横書きの小説などが続いてゐたので、読むのをやめてゐた。芥川賞だけは読み続けようと自分に課してゐたが、あつさりと音をあげてしまつた。

 それで、久しぶりに読んだ。それでも、これでまた「受賞作を読む」といふ課題を再度実行しようといふ気にはならなかつた。不気味な内容で、女同士の恐ろしいやり取りに、おののくやうな印象もあるが、それは小説の世界であつて、こんな世界がそのまま日常にあるほど、私たちの世界は荒んではゐまい。ホラー映画を見て、それが日常だと思ふ人がゐないのと同じである。そして、「3.11」の悲惨さにたいして同情するのが当然といふ空気のなかで、「怖いと言った。言っただけだった。恐怖はつるつるとあなたの表面を滑っていった。」と書けるのは、日常の観察としては正確だと思ふ。作者が受賞の言葉として「小説は情報だということをいつも意識している。」と書いてゐるが、この挑発的な言葉の正否は措くとしても、自らの作品で実行してゐるについては認めていいと思ふ。

 選評については、あの池澤夏樹がやめたから、とんでもない勘違ひがなくなつて、読み物としては面白くない。が、それだけ現実的な批評が読めていい。小説とそれに対する批評が、同じ媒体のなかで読めるといふのは、芥川賞の存在価値の一つである。

 宮本輝が、かう書いてゐる。「過度な深読みなしではただの文章の垂れ流しでしかないという作品が芥川賞の候補作となるようになって久しい。新しい書き手のなかには、読み手に深読みを強要させる小説にこそ文学性の濃さがあると錯覚している人が、ひとむかし前よりも増えてきたと思う。」といふ言葉が面白かつた。私は、勝手に、それが「きことわ」「abさんご」への批判に読んで、一人溜飲を下げた。一人よがりであらうか。

 

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暑い、けれども猫はもつと暑い。

2013年08月19日 09時16分18秒 | 日記・エッセイ・コラム

吾輩は猫である (新潮文庫) 吾輩は猫である (新潮文庫)
価格:¥ 662(税込)
発売日:2003-06
 夏になると、『吾輩は猫である』を思ひ出す。夏休みの宿題に読ませたことがあるが、すこぶる評判が悪かつた。それやさうだらう。猫の、あの暑苦しい毛を想像するだけで、本を読む気がなえる。しかも分厚い。分からない言葉が次々と出てくる。汗を垂らしながら読むも、眠気が襲つてくる。たいへんだつただらう。それでも感想文の提出を全員が果たした。読み終はつてゐるはずはない。読み終へましたよといふやうな、きれいなウソは明白ながら、こちらもそれは不問にして、集められた感想文の束を眺めて、「御苦労さん」とつぶやくのみ。心に残るのは、あらすじではない。ましてや主題などではない。読まされたといふ経験である。それでいい。さういふ経験を求めた。私の高校時代には、大岡昇平の『俘虜記』と井上靖の『天平の甍』がそれに当たる。何も覚えてゐない。タイトルと読まされた経験とが残つてゐる。大岡はその後関心を持ち、井上の『氷壁』を知つた。それでいいと思つてゐる。生徒らのその後に漱石とどういふ出会ひがあるのかは分からない。あるいは、これで終はりの人もゐるだらう。ただ、『猫』を読んだ(?)といふ経験は、結構いい経験ではある。

 以下は、その「六」の冒頭である。青空文庫から引用させていただいた。感謝します。

 こう暑くては猫といえどもやり切れない。皮を脱いで、肉を脱いで骨だけで涼みたいものだと英吉利《イギリス》のシドニー・スミスとか云う人が苦しがったと云う話があるが、たとい骨だけにならなくとも好いから、せめてこの淡灰色の斑入《ふいり》の毛衣《けごろも》だけはちょっと洗い張りでもするか、もしくは当分の中《うち》質にでも入れたいような気がする。人間から見たら猫などは年が年中同じ顔をして、春夏秋冬一枚看板で押し通す、至って単純な無事な銭《ぜに》のかからない生涯《しょうがい》を送っているように思われるかも知れないが、いくら猫だって相応に暑さ寒さの感じはある。たまには行水《ぎょうずい》の一度くらいあびたくない事もないが、何しろこの毛衣の上から湯を使った日には乾かすのが容易な事でないから汗臭いのを我慢してこの年になるまで洗湯の暖簾《のれん》を潜《くぐ》った事はない。折々は団扇《うちわ》でも使って見ようと云う気も起らんではないが、とにかく握る事が出来ないのだから仕方がない。それを思うと人間は贅沢《ぜいたく》なものだ。なまで食ってしかるべきものをわざわざ煮て見たり、焼いて見たり、酢《す》に漬《つ》けて見たり、味噌《みそ》をつけて見たり好んで余計な手数《てすう》を懸けて御互に恐悦している。着物だってそうだ。猫のように一年中同じ物を着通せと云うのは、不完全に生れついた彼等にとって、ちと無理かも知れんが、なにもあんなに雑多なものを皮膚の上へ載《の》せて暮さなくてもの事だ。羊の御厄介になったり、蚕《かいこ》の御世話になったり、綿畠の御情《おなさ》けさえ受けるに至っては贅沢《ぜいたく》は無能の結果だと断言しても好いくらいだ。衣食はまず大目に見て勘弁するとしたところで、生存上直接の利害もないところまでこの調子で押して行くのは毫《ごう》も合点《がてん》が行かぬ。第一頭の毛などと云うものは自然に生えるものだから、放《ほう》っておく方がもっとも簡便で当人のためになるだろうと思うのに、彼等は入らぬ算段をして種々雑多な恰好《かっこう》をこしらえて得意である。坊主とか自称するものはいつ見ても頭を青くしている。暑いとその上へ日傘をかぶる。寒いと頭巾《ずきん》で包む。これでは何のために青い物を出しているのか主意が立たんではないか。そうかと思うと櫛《くし》とか称する無意味な鋸様《のこぎりよう》の道具を用いて頭の毛を左右に等分して嬉しがってるのもある。等分にしないと七分三分の割合で頭蓋骨《ずがいこつ》の上へ人為的の区劃《くかく》を立てる。中にはこの仕切りがつむじ[#「つむじ」に傍点]を通り過して後《うし》ろまで食《は》み出しているのがある。まるで贋造《がんぞう》の芭蕉葉《ばしょうは》のようだ。その次には脳天を平らに刈って左右は真直に切り落す。丸い頭へ四角な枠《わく》をはめているから、植木屋を入れた杉垣根の写生としか受け取れない。このほか五分刈、三分刈、一分刈さえあると云う話だから、しまいには頭の裏まで刈り込んでマイナス一分刈、マイナス三分刈などと云う新奇な奴が流行するかも知れない。とにかくそんなに憂身《うきみ》を窶《やつ》してどうするつもりか分らん。第一、足が四本あるのに二本しか使わないと云うのから贅沢だ。四本であるけばそれだけはかも行く訳だのに、いつでも二本ですまして、残る二本は到来の棒鱈《ぼうだら》のように手持無沙汰にぶら下げているのは馬鹿馬鹿しい。これで見ると人間はよほど猫より閑《ひま》なもので退屈のあまりかようないたずらを考案して楽んでいるものと察せられる。ただおかしいのはこの閑人《ひまじん》がよると障《さ》わると多忙だ多忙だと触れ廻わるのみならず、その顔色がいかにも多忙らしい、わるくすると多忙に食い殺されはしまいかと思われるほどこせつい[#「こせつい」に傍点]ている。彼等のあるものは吾輩を見て時々あんなになったら気楽でよかろうなどと云うが、気楽でよければなるが好い。そんなにこせこせしてくれと誰も頼んだ訳でもなかろう。自分で勝手な用事を手に負えぬほど製造して苦しい苦しいと云うのは自分で火をかんかん起して暑い暑いと云うようなものだ。猫だって頭の刈り方を二十通りも考え出す日には、こう気楽にしてはおられんさ。気楽になりたければ吾輩のように夏でも毛衣《けごろも》を着て通されるだけの修業をするがよろしい。――とは云うものの少々熱い。毛衣では全く熱《あ》つ過ぎる。

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きいろいゾウ

2013年08月03日 10時50分40秒 | 日記・エッセイ・コラム

 少し時間が取れたので、DVDを観た。観たかつたのは「オリエント急行殺人事件」新旧だつたが、新作が置いてゐなかつたので、旧作と表題の「きいろいゾウ」を借りて観た。

 オリエント急行殺人事件については、ヨーロッパのお金持ちたちはどういふ仕草やふるまひをするのかといふことを感じた。とにかく皆よくしゃべる。セリフで筋を伝へるのが映画なのだから当たり前ではあるが、しゃべるしゃべる。自分の生活や趣向を、その不幸も幸福も含めてしゃべりまくる。探偵は、そのしゃべりの中に解決の糸口を見つける。語るに落ちるとは推理ドラマの王道であらうが、年と共にしゃべらなくなって来てゐる私の現状から見ると、しゃべる文化のヨーロッパがやはり遠いものであるなと感じた。

  それにたいして「きいろいゾウ」はしゃべらない。設定がとんでもないし、不思議な人びとが次々と出てくるし、ムコ=向井理の下手さ加減には笑つてしまふが、ツマ=宮崎あおいとのしゃべらない夫婦の様子が切ない。かういふ傷を抱へた者同士が夫婦として生きていくといふことは、決して理想的で見本となるやうな生き方ではないが、お二人ともいい出会ひができましたねとは思ふ。さて、この後ムコとツマとはどういふ生き方をしていくのかは分からないし、この作品の作者も出会ひの僥倖を書いたことで満足してゐるやうであるから(チチとハハとはなりさうもない。彼らの名称が新婚でしかないことを示してゐる)、さう問ふことは愚かである。とは言へ「すべての人へおくる感動のラブストーリー」とあるのは、宣伝文句を間違へてゐる。御愛嬌であらうから、野暮なことは言ふまいが、結構重たい内容である。傷を負つた者同士でしか愛せないのか、ロレンスの言ふやうに「現代人は愛しうるか」といふ問ひへの、日本人的な答へである。神なき国では傷さへあれば愛しうるのだとは、切なすぎるのである。

  高校生で、感動した本が「きいろいゾウ」だと言つた生徒がゐたが、何かの間違ひであらう。

きいろいゾウ (小学館文庫) きいろいゾウ (小学館文庫)
価格:¥ 690(税込)
発売日:2008-03-06
きいろいゾウ [Blu-ray] きいろいゾウ [Blu-ray]
価格:¥ 5,040(税込)
発売日:2013-08-02
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