言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

学ぶ喜び

2011年11月29日 07時33分46秒 | 日記・エッセイ・コラム

 10月から韓国語を学び始めた。ソウルにある高麗大学で語学研修を受けたのが、1989年だから、22年ぶりといふことになる。友人には韓国人もゐるし、教へ子にも韓国人がゐるので、簡単な(じつに簡単な)会話は出来る。

               ☆ 

 とは言へ、未来形も「何々するつもりです」のスタイルでごまかし、現在形も丁寧語は使へても平易な言ひ方は苦手である。それでも一人でソウルで道に迷はない程度には出来ると思つてゐる。しかし、この春にオーストラリアにゐる韓国人の友人を訪ねたとき、彼が私には日本語で話し、当然ながら現地の生活は英語を使つてゐるのを見て、学びたいといふ思ひが決定的になつた。一カ国語はマスターしたいとの思ひである。

               ☆ 

 それで、講座を受けることにした。じつは昨年も受講しようと試みたが、あいにく講座に空きがなく、断念してゐた。十月から始めたからまだ六回。一回二時間だから計十二時間。時間自体は大したことはない。しかし、いままでまだらであつた韓国語の運用知識が、きれいに整理されていくのが心地よい。毎回テストあり、知らない人ととの対話ありと、予習をせずに行くとエライ目にあふ。しんどいことはしんどい。いつまで続くかなといふ思ひもないわけではないが、学ぶ喜びを感じてゐる。

               ☆

 先生は三十代の女性で、愛想はなく結構厳しいが、質問には丁寧に答へて下さる。それがいい。こちらもどんどん質問する。私の質問は受講生からは笑ひが出るほどの愚問のやうである。が、厚顔ぶりを発揮してお構ひなしである。それにたいして先生も、下手になれなれしくしてこないで、指導に専念してくださるのがいい。

               ☆

 ただ、一つ苦手なのが、受講生がやたらにフレンドリーなことである。このあと皆で食事に行きませんか、忘年会やりますが参加しませんかと言つてくることだ。韓流スターやら、韓国ドラマやらから韓国語を学びに来た人には、さういふ情報交換も、語学学習のモチベーション向上には重要な要素ではあるのだらう。でも、さういふことは私には全く関心がないので、今は御遠慮してゐる。

               ☆

 五年ぐらゐの計画だが、五年後には韓国語が話せて読めて書けるやうになつてゐる姿を想像して、今は学びの時間だけを大切にしたいと思つてゐる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『南北戰争の遺産』を薦める

2011年11月24日 08時16分04秒 | 告知

翻訳された留守晴夫先生の言葉より

南北戰爭の遺産

南北戰爭の遺産
価格:¥ 1,890(税込)
発売日:2011-11-01

今月下旬の「南北戰爭の遺産」刊行に寄せて

 日本では殆ど話題になつてゐないが、南北戰爭勃發百五十周年の本年、アメリカではゆかりの各地で記念式典や樣々な行事が催され、ディアにも南北戰爭に纏はる記事が俄かに目立つやうになつてゐる。スピルバーグの新作「リンカーン」の撮影が今秋開始されるとも報じられ、大きな話題を呼んゐる。南北戰爭はもアメリカ國民の記憶の中に大きく生き續けてゐるのである。

 今から半世紀前の千九百六十一年にも、アメリカは南北戰爭勃發百周年に沸いたが、その喧噪の中から生れた「最も理知的な評言」とエドマンド・ウィルソンによつて評されたのが、二十世紀アメリカ文學代表する一人ロバート・ペン・ウォーレンによる「南北戰爭の遺産」(The Legacy of the Civil War)である。小册ながら、南北戰爭が今日のアメリカを形作つたゆゑん、今なほアメリカ人を惹き付けて已まぬ由、南部と北部の文化の相違、戰爭や歴史や文化の普遍的本質等々について、教へられるところの頗る多い名著である。  詳細な解説、豐富な寫眞と圖版、年表や索引を附して、讀者の便宜を圖つた。ぜひ一讀を薦めたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テレビと舞台

2011年11月23日 08時17分46秒 | 日記・エッセイ・コラム

   舞臺で演じてゐる姿を見てうまいなと思ふ人が、テレビに出てくると「あれ、何か違ふな」と思ふことがしばしばある。もちろん、その逆もある。それから兩方うまいなと思はせる人も兩方駄目な人(大根か!)もゐる。ちなみに兩方うまいなと思はせてくれたのが西田敏行。もう二十年近く前だと思ふが、池袋の藝術劇場前にテントを張つて、そこで演じられた蕪村の役、これが良かつた。青年座出身だつたと思ふが、最高の芝居だつた。テレビや映畫での活躍は言ふに及ばない。

  先日、役者を生業にしてゐる知人と會つた。セリフが體全體で傳へられるかどうかが舞臺では大事だとの言葉に、なるほどと合點した。カットで割られ、こまかい表情作りや視線の方向など纖細な役作りが映像の場面では必要であるがゆゑに、瞬間的な集中力は映像俳優には秀でたものがあるが、舞臺ではそれよりも持續力と身體性のダイナミズムが求められるといふ話であつたが、なるほどと思つた。

   役者といふ仕事を續けるにはいかなる精神性が求められるのか、それを知りたかつたが、私にはそこまで尋ねる言葉がなかつた。眞面目であるだけでもいけないし、遊びが過ぎてもいけない。後を見過ぎてもいけないだらうし、前のめりだけでもよくない。小さくまとまらず、大きく亂れず、自由であるためにはどうすれば良いのか。それを知りたい。

   芝居を觀たくなつてきた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡本太郎と信楽展

2011年11月16日 08時50分42秒 | 日記・エッセイ・コラム

 先日の日曜日、信楽に出かけた。12月18日までやつてゐる「岡本太郎と信楽展」を見に行くためだ。太郎と信楽との関係は、それ以前に始まつてゐたが、何と言つても特筆すべきは、あの太陽の塔の裏面にある「黒い太陽」の制作以来である。

 黒い太陽の周囲にある11本の稲妻は、手でもあり、あの構図は十一面観音像であり、あの顔は母親であるとは、平野暁臣氏の卓見であるが、その像の制作によつてつながりを深めた信楽の陶工たちは、太郎の影響を次第に受けるやうになつた。展覧会の横には陶藝家たちの作品も販売されてゐるが、斬新な現代アートのやうな作品も小品ながら多く見られる。これもまた陶藝と現代美術との接点であると感じた。

 私もいろいろなところで、岡本太郎の作品を見てきたが、陶藝に絞つて岡本太郎の作品を見ることができる今回の展覧会は秀逸である。無料といふのが嘘のやうで収穫は多い。関心のある方は、ぜひお出かけください。

 坐ることを拒否する椅子があれほどたくさんの種類があるとは知らなかつたし、太陽の塔の陶芸による試作品も魅力的である。陶板レリーフの原案なども興味深い。

 周囲は公園になつてゐるので、散策もまたいい。

 今、思ひ出したが、信楽で太郎の手伝ひをしてゐた陶藝家の小島太郎氏の言葉が面白かつた。要約であるが、「太郎先生は、今日の藝術はうまくあつてはいけない。きれいであつてはならないと言はれるが、仕上げるといふ作業においては実にていねいにきれいにされる。」と書いてあつた。当たり前のことであるが、そのことを知らずに、この有名な『今日の芸術』の言葉を読んで誤解をする人もゐるかもしれないので、重要な指摘であると思ふ。

Photo

http://www.e-shigaraki.org/taro/

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中島義道は面白い

2011年11月14日 22時50分12秒 | 日記・エッセイ・コラム

人生に生きる価値はない (新潮文庫) 人生に生きる価値はない (新潮文庫)
価格:¥ 460(税込)
発売日:2011-09-28

怒る技術 (角川文庫) 怒る技術 (角川文庫)
価格:¥ 460(税込)
発売日:2006-03

 カントの研究者である、中島義道氏は。カントなど私は、あまり関心がなかつた。北村透谷研究に論文を書く時に、『永遠平和のために』を読んだが(もちろん日本語でだが、熟読した)、あまり印象に残らなかつた。日本に言及してゐることに驚いたぐらゐである。『実践理性批判』は読んでみたいと思ひながらも手付かずである。

 それでも昔から中島義道氏の文章が好きで、文庫を見つけると読んでみた。半年ほど前にも『観念的生活』を紹介したと思ふが、今回は『人生に生きる価値はない』とこれは新刊ではないが『怒る技術』の二冊を読んだ。やはり期待に違はぬ面白さだつた。

 確かに何かに怒つてゐる。しかし、その怒りは感情の垂れ流しといふのではない。自分の感情に自由に対処してゐるといふ風情で、清清しい。これは痛快と言つても良い。実際の氏を知らないから、実際のところは分からないが、怒ることを演戯してゐるといふ印象は結構魅力的である。それから、「時間」についての理解が著作ごとに深まつてゐるやうで、こちらの知性を刺激してくれる。レヴィナスを読み始めてゐるやうで、その辺りの影響もあるやうにも感じられる。哲学といふ学問はどういふものであるのか、とても整理される。

 自称哲学者の池田晶子女史への評価は、下世話な関心としても興味深い。哲学と哲学風との違ひ、中島先生の捉へ方に私は賛同する。池田女史の文章は、ただ読みにくいだけだつた。

 中島先生は、いま「明るいニヒリズム」といふことに関心があるといふ。平たく言へば、「人生に生きる価値などないのだから、気楽に生きようぜ」といふものらしい。私はさうは思はないが、十分に魅力的な話であると思ふ。気楽に生きるとは勝手に生きるといふことではない、当然そこには倫理的なものも求めるはずである。しかし、あまり鹿爪らしい顔をして生きるのは辛いことでもある。だから、明るく、といふのだらう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする