言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

浮かれ騒ぎは見たくはありませぬ

2011年05月29日 22時08分18秒 | 日記・エッセイ・コラム

 シェイクスピアの喜劇『お氣に召すまま』の最後は、役者が役柄のままに突然観客に口上を述べて終はる。芥川の小説にもさういふものがあるのが、演劇論の用語で言へばメタシアターとでも言ふやうな面白い仕立てである。しかし、突然我に返らされる趣向は不氣味でもある。

  もつとも、現實と虚構との間もそれほどに溝があるわけでもなく、例へば、「私の體」と言つたとしても、私の顏の美醜に私の意識は生涯影響を受ける譯であるし、私の意識は生涯私の身體の中にあるのも事實である。とは言へ、私の手がいまかうしてキーボードを打つてゐるのも私の意識によるのであれば、やはり私の體といふこともできる。事實としては私の體はいまここにあるが、それと私の意識とがどういふ關係にあるのかといふことに關して言へば、どちらかであると斷定することはできない。どちらでもあるといふのが「事實」に近い。

  まあ、そんなことを書きたかつたのではない。

『お氣に召すまま』のその最後の口上の前に、ジェイキスのセリフがあり、それを氣に入つてゐるといふことを書きたかつたのである。たまたま早稻田大學の英文學の教授をされてゐた留守晴夫先生が、『時事評論石川』で「世界は舞臺」(これもまたあまりに有名なジェイキスのセリフである)といふ連載を始められることを聽き、ジェイキスの言葉を思ひ出したのだ。

ジェイキスはかう言ふ。「フレデリック公には世捨て人の生活に入り、華やかな宮廷生活に見切りをお附けになつたと言つたな?」(「さやうでございます」)「あの方の所へ行かう、そのやうに悔い改めた人にこそ、聞くべき事、學ぶべき事が多多あるもの・・・」(「待て、ジェイキス、待つてくれ」)「浮かれ騷ぎは見たくはありませぬ、何か御用とあらば、お待ち申上げませう、もう御用の無くなつたあの洞窟で。」

かういふ敢へて貧乏籤を引かうとする人が好きである。幕臣であるがゆゑに明治維新期において自ら進んで後始末に勤んだ栗本鋤雲もまたさういふ人物であつた。中村光夫はその行動を見て「雲をたがやす」と卓拔な譬喩でたとへたが、さういふ男がゐないことが、私たちの現代なのである。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時事評論石川――最新號

2011年05月26日 12時39分06秒 | 告知

○時事評論石川の最新号の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。

 今月號は、何といつても本紙の常連筆者・花岡信昭氏の絶筆が掲載されてゐることである。5月12日筆とあるので、私が勝手に「絶筆」と書いてゐるのだが、亡くなられたのが14日であるから、ほぼそれに間違ひないだらう。編集長の中澤氏が「享年六十五でした。残念でなりません」と記してゐるが、この異例の付記が編集長の無念さを感じさせる。花岡氏は、私はテレビで見かけるだけの方であるが、福田逸氏も自身のブログで追悼文を書かれてゐるが、保守派の論者のなかでも熱情に動かされるタイプの方で、理屈をごり押しするやうな類の論者とは違つてゐたやうだ。御冥福をお祈りいたします。

 あの震災は、どうやらかなり深いところで心を打ちのめしてゐるやうに感じる。それが二ヶ月経つてしだいにはつきりしてきた。私は、現地の実態を見たわけではない。特別に東北に思ひ入れがあるわけでもない。しかしながら、なにやら寂しい気分が滲み出てくるのである。これは何か。それは分からないが、それをつかまないわけにはいくまいと感じてゐる。

福島・浜岡は狡猾な原発行政の悲劇

    ―風評被害は被災地だけではなく日本国そのものだ―

            新聞記者 安藤慶太

読み比べ・7社の歴史教科書

                

                       明星大学戦後教育史センター  勝岡寛次

教育隨想       

尖閣・竹島を領土と教へぬ地理・歴史教科書 (勝)

ポスト3・11への視座

     東日本大震災が崩壊させたもの                                    

                         評論家・『JAPANISM』編集長 西村 幸祐

奔流            

「ビンラーディン殺害」の意味(絶筆)

  ―日米同盟の重み示せ―

          拓殖大学大学院教授 花岡信昭

コラム

        テロへの備へはあるのか  (菊)

        續・大震災への教訓 (柴田裕三)

        太平洋島嶼圏共同體の誕生(星)

        中国に親愛、皇室に不遜な朝日(蝶)            

  問ひ合せ

電話076-264-1119    ファックス  076-231-7009

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「水平線の歩き方」を觀て

2011年05月22日 20時51分38秒 | 日記・エッセイ・コラム

 今日、久しぶりに芝居を觀て來た。梅田のシアター・ドラマシティーで觀るのは初めて、中ホールぐらゐの大きさで、芝居を觀るには丁度よいと思つた。

  觀て來たのは キャラメル・ボックスのハーフタイムシアターで「水平線の歩き方」といふもの。K君の勸めであつた。あらすじを細かく書くことは、約束違反だから書けないが、ある青年が醉ひ潰れてアパートに歸ると、そこには二十年以上も前に死んだはずの母親がゐた、といふところから始まる。その理由は、最後になつて明かされることになる。始めは母親と認めなかつた青年も、口調やら口癖やら共通の思ひ出やらを確認するうちに、實の母だと認めるやうになる。そして、母親がゐなくなつた後の出來事を話し始めるのだつた。

   笑ひがあり、テンポがあり、そして泣かせる。キャラメル・ボックスの芝居は三度目だが、「さうだ、さうだ、かういふ芝居だつた」とすぐに分らせてくれる演出である。始めの方に、すべてのキャストが舞臺に出て來て、不思議な踊りを見せるのには、多少の戸惑ひと違和感とがあるが、それでも「さうだつた、さうだつた」といふ感じがしてきたのだから不思議である。コアのファンには、すでに定番の作り方で、「始まるぞ」といふ合圖になつてゐるのかもしれない。

   セリフが良かつた。作者の作り出す言葉が保守的な色合ひが濃く、私には聽き易かつた。「お母さん、今は看護婦とは言はないで、看護師と言ふんだよ。」「それはをかしい。看護婦といふ言葉の響きだけで、すでに醫療行爲だよ。」といふ何氣ない會話(私の記憶による)も、笑ひながらも十二分に頷けるセリフだつた。當日配られたリーフレットには、演出家の成井豐氏が、「僕は『思ひ出作り』といふ言葉が嫌ひです。思ひ出は人工的に作るものではなく、心の中に自然と殘るものだと思ふからです。」と書いてゐたが、それもまた心地好い言葉であつた。

   この舞臺に立つ役者は、觀る限りにおいて善人の塊のやうな人人ばかりである。ここを出自とする上川隆也も、テレビドラマ『大地の子』を觀た限りにおいて善人の塊のやうであつた。センチメンタルで優しい芝居作りが味ではあるが、もつと毒氣が欲しいなといふ感じも否めないが、それでも舞臺の隨所に、深く心の根子に差込んでくる言葉があつて觀てゐて快い。

  コアな觀客に舞臺が支配され過ぎて、自由な演出や主題の選定が束縛されるのではないかといふ懸念を私は勝手に持つてゐるが、それはすべての經濟集團が抱へる問題なのであつてみれば、ことさら演劇だけが解決すべき課題でもあるまい。

  かうした、笑はせて、泣かせて、考させる芝居をしばらくは觀てゐたいといふ氣持ちに素直にならせてくれた。それで滿足である。

   良い日曜日であつた。

  6月2日からは、東京での上演。

http://www.caramelbox.com/stage/halftime2011/tokyo_f.html

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原發はもういらないのか。

2011年05月15日 11時57分11秒 | 日記・エッセイ・コラム

 今囘の震災によつて何が起きたのか、文明論的な視點で書かれた論文は、まだ出てゐないやうだ。もちろん「何も變つてはゐない」といふ視點でも構はない。私は、むしろさういふ論點での文章を讀みたいと思つてゐる。

   なぜか。それは識者と呼ばれる人々があまりに「反原發」を主張し過ぎるからだ。「もう原子力の時代は終はつた」と言ひ得る根據は、ざつくりと言つて氣分でしかない。原發にたいしてアレルギー反應を起こしてゐるから「もうたくさんだ」といふのがその氣分である。

   しかし、ほんたうにそれでいいのだらうか。發電施設が安全でなければならないのは當然である。それなら、今囘の原發事故の何が問題であつたのかを改善すればよいのではないか。想定されてゐた地震の大きさ、津波の大きさに誤りがあつたのなら、それを改善すれば安全になるのではないか。なぜさうは議論が進まないのか。「やつぱり原發は心配だ」といふ氣分に押し流されて、事の解決から遠ざかつてゐる。いつもの日本人の反應である。原發の技術を論じるのであれば、もつと技術論に徹すればよいはずだ。

    もちろん、政府や東京電力の對應の拙さは、別に論じる必要はある。しかし、これとてもテレビに映り出される擔當者の人、人、人、いづれもどこにでもゐる人で、私の務める會社の人、私の住む町の人、そして私といふ人も、さして變りのない拙い對應しかできない人間である。事が起きる前に整然と問題點を整理し、未來を豫測し、理想を抱きながら解決困難な現實がやつて來たときに難なく處理していける人が、さてどれぐらゐゐるか。ほんたうに心許ない。平和惚け、安全惚けの私には、ひるんでしまふばかりだ。そして、私個人の問題とは別にそれほどに、私たちの住んでゐる社會は化け物化してゐるのでもある。いやいや外に原因を求めてはいけない。私自身が、今ある仕事にたいする制御能力を、統治能力を失つてゐるのである。

   社會學者といふのはいい氣なもので、かういふ今日の社會を「組織化された無責任システム」などと言つてゐる(ウルリッヒ・ベック)が、さういふ分析を信用する譯にはいかない。「專門家に判斷を獨占させずに市民が關與すべき」などといふ市民無謬論もまた安直に「組織化されない無責任システム」になることを全く想定してゐないからだ。

   福田恆存は、「明治以來、日本人は一體何度、頭の切換へをやつてきたことか。日本の近代史は頭の切換へ運動史ではないか」と皮肉つたが、大事故が起きるとすぐに頭を切り換へたがる。この度の反原發の氣分もさうした切り換へ史の一頁である。技術の不備は、技術の改善をすれば良いではないか。組織の不備も、組織の改善をすれば良い。技術も組織も完成はないのであるから、改善をしていく以外にはない。

   今囘の震災への對應策について、全く新しい發想で、全く新しい仕組でといふことを言ふ識者がゐるが、さういふ「使ひ古された僞善」が事の本質を見誤らせ、事態の對處を遲らせてゐるのである。新しい發想やら新しい仕組やらが、二ヵ月經つて出て來ないのは、ないからである。ないことが明確なのに、いつまでも繪空事を言つてゐるのは、ないことを隱したいからである。元の通りに戻せばよい。その大方針でやり、それでは巧く行かないところは變へればよい。それだけである。東北の復興も、原發の事故處理もそれでいい。高速道路と東北新幹線の復興がその象徴である。何かをやりたくて仕樣がないのであらうが、そんなことは御免蒙る。人はもと居た場所に歸りたい。その思ひを實現させるのが政治である。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やるな、万城目学。

2011年05月13日 20時19分43秒 | 文學(文学)

  昨日、万城目学のことを書いたら、偶然にも本日の朝日新聞の夕刊に、氏のインタヴューが載つてゐた。自分の書いてゐるものが人人にどう受け取られてゐるかといふことを正確に把握し、「(自身の)世界観が浸透しすぎた」と語り、「異化された表現も、なじめば普通になる」と朝日の記者にまとめられてゐる。まつたくその通りであらう。だから、新作の『偉大なる、しゅららぼん』では、作風をこれまでのものから「半歩」ズラしたといふ。

  今年、所属事務所から独立したといふ。「所属事務所」といふのが気になるが、小説家も一種のタレント稼業なのであらう。つまり新人として、これまではマネージャーの言ふ通りにしてきたといふことらしい。

  もともとは純文学志望だと言ふから、今後の変化にも期待したい。「『日常』だけで描ける人はうらやましい」と言つてゐるが、その「うらやましさ」が能力なのか、機会なのかが判然としない。けれども能力はあるのだとしたら、今後の変化は楽しみだ。

  でも、多分『しゅららぼん』は読まない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする