言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

土屋道雄先生がHPを開設。

2014年04月30日 10時10分26秒 | 告知
 土屋先生から、新著『天皇論の系譜』を御恵贈いただいた。

 本日、やうやく読み終はり、プロフィールを拝見すると、昨年末にホームページを開設されてゐたことを知つた。

 御著書も購入可能になり、御関心があれば、覗いてみてほしい。


 今回の著書の副題は「日本人への遺言」とある。先生はさういふお気持ちで書かれたのであらう。近代150年のなかで、様々な人が天皇について語つてゐる。それを総覧する今回の著書は、圧巻である。私が学生時代にならつた歴史学者の永原慶二の発言にはおどろいた。また、近年の皇位継承の問題についての諸氏の発言も、どう考へるべきかについて参考となる。


土屋道雄の日本語教室(http://www9.ocn.ne.jp/~michi77/)



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「こころ」連載の怪

2014年04月24日 06時52分49秒 | 日記・エッセイ・コラム

 朝日新聞が、「こころ」の連載を始めた。不思議である。新潮文庫で、最高の発行部数を持ち、高校生の国語の教科書にも載つてゐるこの作品を再び連載するといふのは、どういふことであらうか。

 当時の人々がこの連載小説を讀んだ感覚を再現させたい、購讀者に味はつてもらひたいといふことであらうか。ニュース性はあるし、連日その盛り上がりを演出するために漱石のシンポジウムの記事を載せたり、漱石を特集したりしてゐる。でも、何か違ふ、さういふ印象が拭へない。

 これは、個人的な趣味であらうが、私は新聞連載の小説といふものを味はう習慣がない。かつて、朝日新聞に吉田修一の「悪人」が連載された時も、本になつたら讀まうと思つた。筒井康隆も好きだから、彼の「聖痕」も気にはなつたが讀まなかつた(もつとも、こちらは本になつても讀んでゐない)。

 朝日新聞の今年の新入社員に東大卒が一人もゐなかつたといふ。そんなことを考へ合はせると、新聞社の危機意識を感じる一事件といふ気がする。

 何とかして讀者をつなぎとめようといふ意識の産物であらう。しかし、かういふ文学趣味で克服できるほど現代人の新聞離れは甘くない。新聞は会社にあるからいい、4,000円を支払ふ必要性を感じない、などなどじつに生活感あふれる理由から、新聞購讀をやめてゐる。つまりは生活から新聞が遊離してしまつてゐるといふことだ。もちろん、世間を揺るがすほどの事件がないといふこと=平和であるといふこともある。しかし、それ以上に、新聞が捨てたものがあるといふ気もする。

 それは、自分が取材される側に立つた時に分かることだと思ふ。他人事のやうに見てゐる記事にも何か違ふんぢやないかと思ふが、当事者になれば、その違和感が決定的になる。つまりは、報道において、限りなく嘘に近い事実が紙面に載つてゐるといふことである。「さうではないだらう。どうしてそんな理解をするのだらうか。」といぶかしくなつてしまふ。それは、取材力の無さなのかもしれないが、初めから先入観で物を見てゐる証拠であると感じる。憶測と忖度と悪意と、そして理解力不足と、さういふ複雑な事情が新聞の紙面を面白くないものにしてゐる。

 では、かつての新聞にはさういふものがあつたのかと言へば、違ふだらう。かつては良くて、今はダメだといふことではない。ダメだといふことを自覚してゐるかどうか、あるいは他者が認識してゐるかどうかといふことである。つまりは、新聞が権威になつた(他者評価が上がつた)時から自分のダメさ加減が分からなくなつてしまつた(自画自賛)といふことである。

 自尊感情などといふ不潔な言葉が、あちらこちらで聞かれるが、新聞が持つてはいけないものがその自尊感情である。評価は他者がするものだ、といふ自愛を断念したところから来る自信こそがふさはしい。漱石の「こころ」がもし今の朝日新聞に載る意味があるとすれば、「向上心の無い者は、馬鹿だ」といふ台詞があるといふことだけである。

こころ (岩波文庫) こころ (岩波文庫)
価格:¥ 648(税込)
発売日:1989-05-16



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時事評論 最新号

2014年04月19日 06時43分02秒 | 告知

○時事評論の最新號の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)

                 ●

   4月號が発刊された。消費税が上がつたが、本紙の値段は変はらないやうだ。といふことはお得になつたといふこと。

  留守先生のコラムは、いつもながらに読ませる。「真実の言語愛は言語否定なしにはありえない」とは、にはかに了解したとは言ひ難いが、さういふ過程を通る瞬間がないこともなかつたといふ私個人の小さな体験の延長線上に、ほのかに見える境地のやうに思へた。ただ、小説の主人公と作者とを接近させすぎるのは、やはり疑問がある。それは日本の私小説の伝統であるかもしれないが、果たしてこの場合には当てはまるかどうか。作者と登場人物とが交はることのない中で作り上げられる文學といふものがある、この日本文学との彼我の差が埋めがたい西洋と日本の差ではないか、さう思ふ。

 

 

              ☆        ☆    ☆

中国の台湾武力統一はあるか

 高まる軍事的緊張   立法院占拠学生の抱く危機感の本質

              平成国際大学教授   浅野 和生

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教育隨想       

  歴史問題を国家戦略として位置づけよ (勝)

軽薄な言動の代名詞と化した「リベラル」
    湯浅誠と瀬戸内寂聴のとんでも対談

                     文藝評論家 前田嘉則

この世が舞臺

     『チャンドス卿の手紙』ホーフマンスタール                              

                            圭書房主宰    留守晴夫

コラム

     少子化対策 保育所増設でいいのか (紫)

     国際社会の「駆け込み寺」 (石壁)

     道徳教育の常識(星)

     戦時下日本の愚劣と傲慢(騎士)   

   ●      

  問ひ合せ

電話076-264-1119     ファックス  076-231-7009

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加藤典洋氏の迷言

2014年04月14日 18時17分41秒 | インポート

 安倍総理にたいして、保守派は手ぬるいと批判し、左翼は右翼反動だと非難する。かういふ批判が両サイドから出てくるといふのは、結構まともな政治をやつてゐる証拠だと思ふ。

 思想家が真剣に取り上げようと思ふぐらゐの政策がない総理には、批判は起きない。鳩山・管・野田氏とつづいた迷走内閣には、あきれる人は多かつたが、まともに批判する人はゐなかつた。さういふ気にさへならなかつたといふことであらう。国民が求めた政権交代なのだから、観念しなければならない事態であつたとは言へ、語る言葉を失ふほどの体たらくであつた。

 さて、先日の朝日新聞の「耕論」(かういふ造語は嫌ひですね。「(議論を)深堀りする」といふ言葉も好きぢあありません。討論でいいし、議論を深めるで十分であります)で、文藝評論家の加藤典洋氏が、こんなことを書いてゐた。

「安倍首相の靖国神社参拝から3カ月半。これだけの短期間で日本の孤立が深まった根本的原因は、日本が先の戦争について、アジア諸国に心から謝罪するだけの『強さ』を持っていないことです。」

 そして、例によつて、
「同じ敗戦国のドイツが謝罪を繰り返し、今やEUで中心的な役割を担っているのとあまりにも対照的です。」

 と宣ふ。

 今やいくら朝日新聞の読者でも、かういふ誤解(政治宣伝)を平気でする人は少ないのではないか。「日本の孤立」といふこともカッコ書きで書かなければならないし、それが昨年の暮れからであるといふのは、事実誤認も甚だしい。韓国の大統領が安倍総理に会はないと言つてゐたのは、それ以前からであるといふ一事を見ても、それがまつたくの嘘話であることは明らかだ。中国包囲網を作るべく、アフリカ、インド、東南アジアなどを歴訪した首相がゐる国を「孤立化」と言つてみせる言語技術は、どんな文藝評論家でも不可能である。かつて『敗戦後論』で論議を巻き起こした加藤氏であるが、あの折のキーワードであつた「ねじれ」といふのは今や加藤氏の論考の性格となつてゐるやうである。

 また、ドイツの「強さ」といふのも、責任をナチスに押し付けたゆゑの、言はばトカゲの尻尾切りの強さである。あれはナチスのせいです、ごめんなさいと言ふのが強さだとすれば、それは面の皮が厚い厚顔無恥の強さである。私たちは、さういふ生き方を潔しとしないから、忍耐して中国と韓国と付き合つていかうとしてゐるのである。

 馬鹿にされ、うそつき呼ばはりされながらも、忍耐してゐる私たちの国こそ「強い」のではないか。安倍総理はよくやつてゐる、それが国民の評価ではないか。

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小林秀雄の講演

2014年04月04日 06時54分41秒 | 告知

学生との対話 学生との対話
価格:¥ 1,404(税込)
発売日:2014-03-28

 昨年の大学入試センター試験に、小林秀雄の文章が出題された。丸谷才一(「小林秀雄の文章を出題するな」といふ名=迷エッセイがある)が亡くなつて、その直後に小林秀雄を出すなんて、ずゐぶん批評的な行為をセンターはするものだと思つてゐたところに、新潮社は小林秀雄をどんどん出してきた。こちらは全く商業主義である。少なくとも私にはさう見える。

 まづは昨年2月に『芸術新潮』で、そして4月に『考える人』で特集を組み(表紙は小林秀雄の写真。ここで取り上げるものはすべて同じ体裁。ダンディズム?)、今年の一月一日には新潮文庫で『対談集 直観を磨くもの』が出され、つい先日『講演集 学生との対話』が出された。日本の文化の衰退への大きな危機感があつて、小林秀雄を声を聴かうといふ意図があるのかもしれないが、伝はつてくるのは、さういふ印象ではない。

 高校時代に、小林秀雄をよく読んだ。気持ちが落ち込んでゐるときに読むと、さらに引きずられていきさうで、警戒しながら読んだが、大事な出会ひをしたと感じてゐる。さういふ出会ひを今また多くの学生ができるやうになつたといふことかもしれない。それならば、僥倖である。難しいが読まれてよい文學である。

直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫) 直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫)
価格:¥ 767(税込)
発売日:2013-12-24

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