言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

福田恆存と「二十世紀研究所」

2007年05月30日 09時52分45秒 | 福田恆存

論壇の戦後史―1945-1970 論壇の戦後史―1945-1970
価格:¥ 840(税込)
発売日:2007-05
 この度、平凡社新書から福田恆存に関連した書物として『論壇の戦後史』が発売された。清水幾太郎が主宰した「二十世紀研究所」を舞台とした、知識人たちの戦後を描き出したものである。

 平凡社のホームページには、かう書かれてゐる。

 戦後の日本は「悔恨共同体」から始まった。終戦直後、清水幾太郎らが作った二十世紀研究所には林健太郎、丸山眞男、福田恒存など、その後立場を異にする人たちが集まっていた。以後、彼らが活躍する舞台となる論壇誌は、いかなる問題をどのように論じてきたのか。論壇が存在感を持っていた時代を鮮やかに描き、「戦後」に新たな光をあてる。

 さらりと書かれてゐるだけで物足りないが、清水幾太郎、丸山眞男と福田恆存との関係を指摘した文献は貴重である。それにしても丸山眞男は正字なのに、福田恆存は、恒存なのだらうか。本文はちゃんと書いてあるのに、このホームページはどうしてか。名前は正確に、は出版の常識であらう。

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岡本太郎の壁画修復――前衛と保守と

2007年05月28日 22時54分54秒 | 日記・エッセイ・コラム

岡本太郎 「明日の神話」 再生への軌跡 岡本太郎 「明日の神話」 再生への軌跡
価格:¥ 2,940(税込)
発売日:2006-12-21

   先日、5月27日、東京都現代美術館に出かけて來た。目的は、岡本太郎の壁畫「明日への神話」を見るためである。高さ5,5メートル、長さ30メートルの巨大な壁畫を實物で見たいといふ思ひやまず、見て來た。私は、太陽の塔をこよなく愛してゐるが、岡本太郎そのものの畫風なり、作風なりといふものを好んでゐるのではない。繪は、どことなく漫畫風であり、「藝術は爆發だ」といふ言葉ほど、爆發力を感じない。どうにも可愛らしすぎるのである。それでも、東郷青兒などが支配する美術界に叛旗をひるがへし、時代の空氣に抵抗しようとした前衞の精神には、學ぶべきものを認める。前衞を認めるといふのではなく、美の在りかを權威に求める當時の日本畫壇のちつぽけな矜恃を蹴散らす心意氣に感じ入るのである。それはちやうど、近代以前、あるいは明治期の文壇に對して抵抗をした二葉亭四迷の小説作りにも似た、すがすがしい風を感じるのである。幼くて、言つてよければ稚拙で、言葉だけが專攻してゐる、「眼高手低」の、そんな印象である。岡本太郎を、これからの日本繪畫史がどう扱ふか、それはそれで興味深いことである。

   それはともかく、私は「明日への神話」を見たかつた。見ての結論を率直に言へば、本當に良かつた。その壁畫の前にあるベンチに坐り、10分ほど眺めてゐた。幸せな時間であつた。「過去を否定せよ、未來を否定せよ、今この瞬間に爆發せよ」と言つた人の作品を、修復し、東京都といふ公立の美術館が展示する、さういふ歴史の皮肉といふものはあるし、果たして數奇な運命をたどつたこの壁畫が、メキシコからボロボロになつて還つて來たこの壁畫を修復することを、岡本太郎は願つただらうかといふ疑問もある。だけれども、私はこの作品を今、見ることができたことを本當にうれしく思つた。そして、その際には、この壁畫のモチーフが反原爆といふものであるといふこともどうでも良いことであつた。ただ、いとほしい思ひが内から滲み出て來るのである。今はその感情を手がかりにして、この壁畫を大事にしたいと感じてゐる。

   それにしても、修理補修とは、これほどにも大變なものであるかといふことを感じた。ロビーでは、その修復の過程をモニターで映してゐたが、岡本太郎の創作とは別の次元であるが、勞力としてはそれ以上のものをかけて展示に至つたといふことが十分感じられた。

   美術館を訪ねた前日の土曜日5月26日は、國語問題協議會の總會と講演會があつた。講演者の萩野貞樹氏も、高島俊男氏も、いづれも歴史的假名遣ひを使つて文章を書かれる。そして、戰後の國語政策に慙愧の念を抱く文筆家である。一片の内閣告示で始まり、それに右にならへして始まつた歴史的假名遣ひ否定の流れに對して、このささやかな會は、抵抗をしてゐる。あたかもボロボロになつた壁畫を修復するかのやうにである。高島氏は、もうだめだらうと半ば嘆息してをられた。會終了後の懇親會では、文藝評論家の桶谷秀昭氏も、同じ感慨をもらしてゐられた。しかし、假名遣ひは使ふ人がゐる限り續くのであり、私は何も心配してゐない。

   失はれたものを取り戻すことは、それを作り出した時よりももつと時間と勞力とが必要となる。そのことを強く感じた。國語を保守することは、今の時代の空氣に抵抗することである。言葉なんて通じれば良いぢやないか、といふ空氣に抗することである。それは或る意味で前衞的な試みとも言へるかも知れない。保守が前衞になるといふこの逆轉現象こそ、今の時代のをかしな状況の反映なのである。

   西尾幹二氏の、歴史的假名遣ひ否定論といふのは、やはり存外に時代迎合的なのであらう。改めてさう感じた。

  ところで、私の故郷の富士見ランドにあつた、岡本太郎の大壁畫も、閉園後どうなつてゐるのだらうか、ふと思つた。

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言葉の救はれ――宿命の國語163

2007年05月27日 20時38分35秒 | 福田恆存

 前囘御示しした、輕薄な願望に基づいて國語を理解しようとすることには、斷乎異論を唱へたい。福田恆存はかう言つてゐる。

「現代の國語學が試みてゐるやうに、國語音節を子音と母音との單音に分析して見せることは、あまり意味がないのみか、時に過ちのもとになるといふことであります。國語音節においては、子音と母音とが未分状態にあり、音節即音素、あるいは音節即單音と見なすべきであります。國語音韻は母子音の分かちえない音節としてのみ捉へるべきであつて、それを單音に分ける西洋流の方法は、むしろ單音に分かちえぬことの理解のために役立てるべきであり、その反對に分析の結果として單音のあることを見出すために利用するのは誤りであります。そこから解釋と事實との混同が生じるのです。」

(『私の國語教室』第五章第一節「音節構造について」)

 少少專門的な表現かもしれない。隔週に一囘の連載でしかも國語に感心のない現代社會の世相のなかで、どの程度の讀者が本欄にゐてくださるのか正直心許ないが、ここはあへて筆を進めさせていただく。音素だ、音節だといふ專門用語にはこの際慣れていただくより外はない。國語は私たち日本人のものであり、特定の誰かが關心を持てば良いといふ種類の問題ではないからだ。もし、それでも解りにくいといふのであれば、編輯部まで御聯絡していただければ幸ひである。讀者あつての本欄であり、關心あつての國語問題である。

  さて、話を元に戻す。

  言葉を音素に分解することの無意味を指摘した上で、私たちの國語をどう見たら良いのかといふことを次に考へよう。今引用した文章に續けて福田はかう記してゐる。少少長いが、遠慮せずに引用する。

 「もし西洋流に單音分析の可能なものを明晰な音韻と言ひうるなら、音節としてしか捉へられぬ國語音韻は明晰でないと言ふべきでありませう。それは音聲學的單位の音素としてのみならず、音韻としてもまだ甚だ不安定であり、曖昧であります。言ふまでもなく、最初に漢字を借りて國語音韻を表記した上代人においても、音韻は單に音節としてのみ捉へられてゐたのであり、したがつて文字は單に音節を表記する音節文字として理解されてゐたわけです。それは一體どういふことを意味するのかといふと、それらの文字によつて表はされた音韻もまた曖昧、不安定のものでしかありえないといふことを意味します。今日においても、この國語音韻、かな文字の性格、及び兩者の關係は少しも變らず、依然としてかな文字は私達の不安定な音韻を表記するのに最もふさはしい不安定な文字であり、歴史的かなづかひはさういふ國語音韻の生理に最も適合した表記法であると言へます。つまり、歴史的かなづかひが表音的でないことに不平をもらすまへに、人々はまづかな文字が表音に適さぬことに不平を言ふべきであり、さらに遡つて、國語音韻そのものが表音を拒否してゐることに著目すべきであります。」(同右)

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西尾幹二氏『江戸のダイナミズム』について

2007年05月25日 11時21分01秒 | 福田恆存

 先日、西尾幹二氏の新著『江戸のダイナミズム』の出版記念会が行はれたことを氏のホームページで見た。盛況だつたやうで、御同慶の至りである。これほどの大著が売れる、そして知識人に読まれる、さういふことは私たちの社会の知的営為にとつて有益だと思ふからである。

 それはそれとして、その会で配られた記念冊子を見る機会が先日あつた。私の関心のあることはむしろこちらの方にある。

 問題点は二つ。

1 西尾氏は、言葉の本質は音にあるとお考へのやうである。そこまではまだ良いが、西尾氏は音を重視しすぎるあまり、文字誕生以前の神話の世界を過大評価してゐるやうに見える。私の連載をお読みいただいてゐる方はお分かりいただけると思ふが、仮名遣ひこそが日本である、と私は考へてゐる。もちろん、漢字が伝へられる以前の和語の世界を、私も否定はしないが(たとへば、連載でも書いたやうに、「はしけ」「はしご」「箸」「橋」は、いづれも「ハシ」といふ音が共通で、それは「二つのものをつなげる」といふ意味を担つてゐる)、異種の文明と衝突をすることによつて、文字が生まれ、仮名遣ひといふ独特の文字体系ができて、「日本」が誕生したのである。三つ子の魂百までは、一面の真理であるが、三つ子の魂で、その人らしさはつくられない、といふのも常識である。いささいか皮肉を言へば、西尾幹二氏のこのパンフレットの冒頭に、ニーチェの『悲劇の誕生』に対する西尾氏の思ひがつづられてゐるが、まさしく研究者としての西尾氏は、30歳前後のその書との出会ひによつて生まれたのであつて、親の遺伝子だけで生まれたのではない。その伝にならへば、遺伝子だけで文化はつくられない。人なら教育が、国なら歴史が、その人らしさ、その国らしさを作り出してゆくのである。漢字以前の音声言語を過大評価するのは、日本文明の正しい理解にはつながらないと私は考へる。言語本質の「音」還元論は、存外に唯物的な発想ではないか、さう思ふ。唯物的といふのが言ひすぎなら、即物的と言つてもよい。音を物象化してゐるのである。

2 西尾氏は、この小冊子の中でかう書いてゐる。「私のこの本が福田恆存『私の國語教室』に反旗を翻したことに読者はお気づきでしょうか」と。「福田恆存」自身にではなく、「福田恆存『私の國語教室』」といふ書物に対して「反旗を翻した」とは、以上の1の内容のことを指すのであらうが、この論の正否はともかく、では、なぜ福田は仮名遣ひを尊重したのかといふ問ひを西尾氏は書かなければならないと思ふ。それを書かずに、「反旗を翻した」といふのは、子供が大人に逆らつて、怒られさうになつたから、慌てて逃げ去るやうな印象がある。福田恆存は間違つてゐる、さう書きたいのであれば、書けばよい。ただ、それにはきちんとした論証が必要である。御本人は書いたおつもりかもしれないが、当方には議論はかみあつてゐないとしか見えない。もちろん、さういふことは別のところで書かれるのかもしれないが、ここまで啖呵を切つたのであるから、どうぞ正正堂堂と「歴史的仮名遣ひ誤謬論」でも書かれることを期待する。私の考へは、もちろん「仮名遣ひこそ日本」――である。

 この大著、そのほかにも刺戟的な内容が多い(記念冊子に抜粋された文章を読む限り)。『国民の歴史』を読んだ時もさうであつたが、思考を深めるきつかけになる。本書はいつ読めるか分らないが、読んでみようと思ふ。

 

江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋 江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋
価格:¥ 2,900(税込)
発売日:2007-01

 この項、パソコンの関係で、「契沖」使へず、新字で書きました。

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言葉の救はれ――宿命の國語162

2007年05月23日 23時02分16秒 | 福田恆存

  田中克彦氏は、言語論の對象は音であり、音をつかまへることが最も大切なことと見てゐるが、出出しから違つてゐる。

「言語の研究にあたつては、一にも二にもオトからはじめなければならないことがわかる。(中略)言語学にとって、これこそは固有の領域だと言えるのはオトの研究である。」(『言語学とは何か』八四頁)

 したがつて、この「音素論」を踏へないで言語について云々するといふことは全く意味がないことだと主張するのである。

「言語学のこの初歩の一歩さえも身についていない言語評論家との言語談義には、たいていの言語学者はいやになってしまうのである。」(同右 九八頁)

「初歩の一歩」とは、何事だらうか。「初めの一歩」や單に「初歩」といふのならわかるが、「初歩の一歩」とは、どういふ言語感覺だらうか。そんなとんでもない言葉遣ひをする言語學者との言語談義には、たいていの日本人はいやになつてしまふのである――こんな嫌味の一つでも言ひたくなる不快な文章である。

  外國人に説明する場合であれ、日本人が納得するための場合であれ、國語を理解するのに音素を知らなければならないといふのは、西洋かぶれそのものである。言語は文化である。文化はその土地を離れられない土着のものである。西洋の文化で育つた言語の性質から、日本の言語を分析したところで、フレンチのシェフが日本料理の味付を云々するのと同じことである。いやそれ以上だらう。

「ん」といふ文字に「n」と「m」と「ng」といふ音があるからと言つて、私たちや日本語を學習する人人が、「本の」「本も」「本が」と言ふとき、「honno」「hommo」「honga」と書くわけではない。「本」は「本」であり、「ほん」である。「本の」「本も」「本が」で事足りる。

確かに、音素文字の言語である國の人が、初めて日本語を學ぶ場合には、音素に分けて説明することも有效であらう。それは、私たちが英語を學習するにあたつて、發音が分からない單語に出會つたとき、發音記號によつて發音するといふのが手順であるからである。しかし、それもしだいに馴染んでいくにしたがつて、意識しないところで口が動いてゆくやうになる。發音だけではない。文法さへも自然と身に附き、思考はその外國語でなされてゆくものである。バイリンガルの人が、英語で話す時は英語で考へ、日本語で話す時は日本語で考へるといふ話は、よく聞く話であらう。

ある言語の習得の際に、「發音記號=音素の集合」といふものが役立つのは妥當だとしても、それは言語そのものの特徴を示したものではない以上、所詮入り口に過ぎない。それは、つまり人體の構成要素は細胞であるから、細胞に分解することによつて人間理解ができると考へるほどの、無謀な理屈なのである。

「分析」といふことが科學の方法論であることは事實であるとしても、所詮科學で分かることは、分析の結果でしかないといふ良識が、科學を標榜する言語學者には望まれるのである。世界の言語を一元的に説明したいといふ構造主義の發想が、この音素還元論の背景にあるのだ。

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