田中克彦氏は、言語論の對象は音であり、音をつかまへることが最も大切なことと見てゐるが、出出しから違つてゐる。
「言語の研究にあたつては、一にも二にもオトからはじめなければならないことがわかる。(中略)言語学にとって、これこそは固有の領域だと言えるのはオトの研究である。」(『言語学とは何か』八四頁)
したがつて、この「音素論」を踏へないで言語について云々するといふことは全く意味がないことだと主張するのである。
「言語学のこの初歩の一歩さえも身についていない言語評論家との言語談義には、たいていの言語学者はいやになってしまうのである。」(同右 九八頁)
「初歩の一歩」とは、何事だらうか。「初めの一歩」や單に「初歩」といふのならわかるが、「初歩の一歩」とは、どういふ言語感覺だらうか。そんなとんでもない言葉遣ひをする言語學者との言語談義には、たいていの日本人はいやになつてしまふのである――こんな嫌味の一つでも言ひたくなる不快な文章である。
外國人に説明する場合であれ、日本人が納得するための場合であれ、國語を理解するのに音素を知らなければならないといふのは、西洋かぶれそのものである。言語は文化である。文化はその土地を離れられない土着のものである。西洋の文化で育つた言語の性質から、日本の言語を分析したところで、フレンチのシェフが日本料理の味付を云々するのと同じことである。いやそれ以上だらう。
「ん」といふ文字に「n」と「m」と「ng」といふ音があるからと言つて、私たちや日本語を學習する人人が、「本の」「本も」「本が」と言ふとき、「hon‐no」「hom‐mo」「hon‐ga」と書くわけではない。「本」は「本」であり、「ほん」である。「本の」「本も」「本が」で事足りる。
確かに、音素文字の言語である國の人が、初めて日本語を學ぶ場合には、音素に分けて説明することも有效であらう。それは、私たちが英語を學習するにあたつて、發音が分からない單語に出會つたとき、發音記號によつて發音するといふのが手順であるからである。しかし、それもしだいに馴染んでいくにしたがつて、意識しないところで口が動いてゆくやうになる。發音だけではない。文法さへも自然と身に附き、思考はその外國語でなされてゆくものである。バイリンガルの人が、英語で話す時は英語で考へ、日本語で話す時は日本語で考へるといふ話は、よく聞く話であらう。
ある言語の習得の際に、「發音記號=音素の集合」といふものが役立つのは妥當だとしても、それは言語そのものの特徴を示したものではない以上、所詮入り口に過ぎない。それは、つまり人體の構成要素は細胞であるから、細胞に分解することによつて人間理解ができると考へるほどの、無謀な理屈なのである。
「分析」といふことが科學の方法論であることは事實であるとしても、所詮科學で分かることは、分析の結果でしかないといふ良識が、科學を標榜する言語學者には望まれるのである。世界の言語を一元的に説明したいといふ構造主義の發想が、この音素還元論の背景にあるのだ。