言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

奥田健次の「セッション」――再放送

2013年02月21日 22時35分21秒 | 日記・エッセイ・コラム

 先日、ご案内した番組の再放送があります。

NNNドキュメント'13『孤高の出張カウンセラー 自閉症の子どもたちとの500日』

再放送①

2月24日(日) BS日テレ 11:00~

再放送②

2月24日(日) CS「日テレNEWS24」 18:00~

 関心がありましたら、ご覧になつてください。

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奥田健次といふ人の「セッション」

2013年02月19日 18時21分11秒 | 日記・エッセイ・コラム

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  深夜まで考へ事をしてゐて、もうそろそろ寢ないとたいへんだと思ひながら、リビングに戻りテレビをつけると、面白い番組をやつてゐた。偶然であるが、かういふことがあるとうれしい。

NNNドキュメントである。以下は、その番組案内のコピーである。

わが子が自閉症と宣告された母親の苦悩を希望へと導く臨床心理士がいる。歯に衣着せぬ言動と奇抜な風貌で国内外を飛び回る“出張型心理カウンセラー”奥田健次(41)氏。番組では、知的障害を伴い言葉の発達が困難と思われた男児が、わずか数か月で驚きの成長を見せる姿を追う。その一方で奥田の大胆な手法に戸惑う家族も…。独自のひらめきで解決法を見出し確かな変化をもたらす奥田。子どもたちに情熱を注ぐ姿に密着する。

 タイで海外勤務の家族を一か月に一度訪問し、対処法を説明する。それを彼はセッションと呼んでゐる。癇癪持ちで、おもちゃや食べ物を取り上げると激しく泣き出す。たまたま双子のこの子のケースでは、二人とも同じやうな状況である(ある医者から聞いたところによると、多くの場合、年の離れた兄弟でもかなりの確率で同じやうな障碍があるさうだ)。母親は絶望し、死なうかと思つたと涙ながらに話してゐた。すがる思ひで、この奥田氏を招いたのだらう。奥田氏は、泣き叫ぶ子供を見て、そのままにしておく。欲望をはつきりさせることで、自我の存在に気づかせ、それを阻害する存在との対話を仕向けるといふのだ。もちろん、相手は幼児だから対話は言葉ではない。ただ、憎しみにしろ、助けにしろ、相手に向つて正対することを求めてゐた。それからこまかなルールを決め、それが実行されるとほめて、褒美を上げる。この簡単な行動指針を母親に伝へ、次の訪問まで実践させる。すがる思ひで奥田氏を見つめるが、その少々荒つぽいセッションに、両親は半信半疑である。別の家庭が映し出されたが、こちらは一回目のセッションで、この方針を受け入れられずに、断念してゐた。どちらの方が多いケースなのかは分からない。しかし、藁をもすがる思ひで奥田にしたがつたタイの家庭では、みるみるうちに自閉症が改善されていつた。

 奥田氏自身、学問上の師から「君には〇〇障碍がある」と指摘されたと言ひ、事実さういふところがあると語つてゐた。そして、「普通つてなんだらうか」と思ふとぽつりと言はれた。

 まつたくこの問ひこそが大事なものだと私も思ふ。普通である人と普通でない人との線引きをすることが大切な場面もある。それは否定しない。しかし、さうして普通でないとされた人が生きていく道は、その診断によつて開かれていくのであらうか。発達障碍について診断し、「彼を受け入れなさい」と家族にアドバイスすることが中心の今の医療は、線を引いてゐるだけだと感じてゐる。奥田氏のやつてゐることは、決して医療行為ではないだらう。事実、彼は医師ではない。しかし、セッションと名付けることにその行為の正当性を担保してゐる行為は、現実的に障碍を軽減してゐる。このことを医療界は考へるべきだ。

 いろいろと問題点があるのなら、そのことも聞きたい。

 ますます寝られなくなつた深夜であつたが、その覚醒は心地よいものだつた。

 

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讀書會

2013年02月06日 22時00分13秒 | 日記・エッセイ・コラム

 昨年暮れに大阪教育大学で開催された文語を讀む會に出かけたをり、たまたま来られてゐた神戸女学院の哲学の先生と懇意になつた。

 古事記や万葉集が日本人の精神に基底にあることを否定はしないが、日本語で書かれたギリシャ神話や聖書そのほかの西洋の基層もまた現代日本人のものとしてはいけないのか、といふ質問をその方はその會でされたが、たいへんに興味深い内容であつた。ちょうど「福田恆存と絶対」といふテーマで書いてゐたから、関心を強く持つた。それで、懇親会のをりにその真意を尋ねた。19世紀イギリスの美学が御専門のやうであるが、いろいろな例話を引きながら西洋と日本について語つてくださり、立ち話はなんだからといふことで再會を期し、お別れした。

 以来、會ふ度に面白いお話ができる。引き続きその先生が主宰されてゐる讀書會にも誘つていただき、先日出かけてみた。月に一回で、この一年は西田幾多郎の『善の研究』を讀んでゐるといふ。私が行つた時には第十二章「善行為の目的」であつた。私は以前何のきつかけで讀んだのかは記憶にないが、記録に93年4月7日と書いてあるので、ちょうど20年ぶりに讀んでみてゐる。分からないところも多々あるが、面白い。

「個人の至誠と人類一般の前途は衝突することがあるとはよく人のいう所である。」(204頁)などは、エリオットの「善き市民必ずしも善き個人とは限らず」(『教育の目的とは何か』1950年)に通じてゐよう。もちろん、西田の方が先であるが(『善の研究』1911年)。

「個人の至誠」は古来私たちの大事にするところである。良心に従つて、誰が見てゐなくても行動する姿に感動する。しかし、それは果たして人類一般と言はず、国家や組織の目的と衝突するところがある。もちろんその逆もある。徴兵にたいして良心的忌避をする者もあれば、軍隊の命令に忠実で敵兵を撃つことに懸命になる者もゐる。それは戦時中ばかりではない。組織人として個人の良心を傷つけながら仕事をし続ける者もゐれば、個人の筋を通して組織を離れる者もゐる。二つの次元に身をおいて生きてゐる私たちは、さういふ生き方を強いられてゐるのである。

 さて、そこで善とは何かである。まさにかういふ引き裂かれた人間において問はれるべきが「善とは何か」なのである。瞑想や祈りの中で問はれるべき課題ではなく、生活の中で真に問はれるべき課題である。

  西田は、この章の終はりに「善を学問的に説明すれば色々の説明はできるが、実地上真の善とはただ一つあるのみである、即ち真の自己を知るというに尽きて居る」と書いてゐる。個と全体との二つの次元を貫く「真の自己」を知ることさへできれば、善とは何かが明らかになると言ふのだ。雲をつかむやうな話だが、それを求めたのが間違ひなく西田である。当然ながら、次章は「宗教」となつてゐる。

 生活の中で、二つの次元を生きることの基準=善とは何か。

  興味深い。

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