言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

漱石「素人と黒人」

2009年04月27日 09時56分28秒 | 日記・エッセイ・コラム

 漱石の短いエッセイに「素人と黒人」といふものがある。もちろん「黒人」とは「こくじん」のことではなく「くろうと」のことである。大正三年一月何日かに亘つて東京朝日新聞に掲載されたものであるが、その終はり近くにかうある。

「斯うなると俗にいふ黒人と素人の位置が自然顛倒しなければならない。素人が偉くつて黒人が詰らない。一寸聞くと不可解なパラドックスではあるが、さういふ見地から一般の歴史を眺めて見ると、是は寧ろ當然のやうでもある。昔から大きな藝術家は守成者であるよりも多く創業者である。創業者である以上、其人は黒人でなくつて素人でなければならない。人の立てた門を潛るのでなくつて、自分が新しく門を立てる以上、純然たる素人でなければならないのである。」

   もちろん、「詰らない素人」といふのもゐるものであつて、細かいところの良さも解らず全體を見ることもできない「局部も輪廓も滅茶滅茶で解らない」のは、「自分の論ずる限ではない」とも書いてゐる。

  いつたいに黒人は、しだいに局部にこだはり過ぎるやうになり專門的になつて、全體を見失ひがちになつてしまふ。そこが缺點で「偉い黒人になれば局部に明らかなと同時に輪廓も頭に入れてゐる筈である」とも言ひ、「純然たる素人」か「偉い黒人」になるのが良いといふのが漱石の言ひたいことのやうだ。

   話は變はるが――

   藝術家は、構想理想といふ觀念の造形に秀でてゐるだけではなく、手で實際に作り上げる職人的な性格もあはせもつ。その點で、眼高手低といふ藝術家も案外多いであらう。理想は素晴しいが、造形の力には乏しいといふことである。小林秀雄や中村光夫の小説や福田恆存の戲曲も、さういふ面があるやうに思ふ。漱石の小説の破綻なども研究者によつて言はれるが、それでも今日に讀者を得てゐるところを見ると、「眼高」の方が「手低」よりも重要なことなのかもしれない。やはり理想のない藝術はどんなにうまくても心を打たないし、語らうとする藝術はどんなに下手でも心ひかれるところがある。

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時事評論 石川 最新號

2009年04月26日 10時20分09秒 | 告知

○時事評論石川の4月号の目次を以下に記します。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。

 今囘は、拙論を掲載していただきました。「反米」論がまたまた「正論」のやうに言はれる現状への批判を書いたものです。保守派の言論は、政治的な話題は苦手なのでせうか。文學について面白い指摘をする人も、政治について書くととたんに左翼的になつてしまふ。さういふ論者が多くゐます。同じ人間がやつてゐることです。状況論で書く前に、人がどういふ存在で、どうあるべきかといふ視點でものを見るやうになつてほしいものです。

  御關心があれば、拙論御讀ください。

   4面のコラムで(柴田裕三)氏が書いた、中學教科書に掲載されてゐる向田邦子の作品「字のない葉書」改竄事件については、まつたく驚きとか言ひやうがない。何を漢字で書き、何をひらがなで書くか、かういふことは存外に作者にとつては大事なことである。それを勝手に變へて、國語の教科書とするとは、どういふ了見であらうか。このことは、『諸君!』の今年の三月號で高島俊男氏が書いたものが元であるが、まつたく同意である。教科書は、特に國語教科書はほんたうに良いものであるべきだ。さういふものが欲しい。前囘のこの欄でも書いたが、土屋道雄先生には、是非とも中學高校の國語教科書を作つていただきたい。

「反米」は亡國への道

    ―何度でも言ふ 親米といふ作法―

                  文藝評論家 前田嘉則

やはり民主党には政権は任せられない

 政権交代の意義と国体の復原性と

          大阪国際大学非常勤講師  久野 潤

覚悟が求められる日本及日本人

  新しい「国民主権軍」の時代の始まりか

                    評論家  植田 信

奔流            

テポドンが残したもの

  ―日米同盟は機能しているのか―

                ジャーナリスト 花岡信昭

コラム

        政権交代・その願望と幻想  (菊)

        教科書の向田邦子改竄 (柴田裕三)

          冷戦時代の二論客の死(星)

        小沢氏の体質見抜いている国民(蝶)            

  問ひ合せ

電話076-264-1119    ファックス  076-231-7009

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理想の「國語讀本」出來!

2009年04月17日 22時23分03秒 | インポート
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  本日は(「本日も」かな)、本の紹介である。編者の土屋道雄先生から御惠贈賜つた本二册である。「はじめに」のところで、「『お粥』のやうなもので、咀嚼する力もつかず、十分な発育を期待することはできません」と書かれてゐるやうに、日本の文學の傳統と何にも關係のないところで書かれた、妙に讀者に分かりやすく、現代のどこにでもあるやうな、文體の魅力もない小説が、漫畫雜誌かと間違へるほどの繪ばかりで、しかもずいぶんと薄い教科書に載つてゐる現状では、日本人は出來上らない。そんな教科書で事足りると考へてゐるから、「小學生にも英語教育を」などといふ愚民化政策が平氣で行はれるのである。

   宗教がない國にあつて、文學の力に依らずして、どう日本人を育てようと言ふのか。悲しいとはどういふ感情なのか、切ない氣持をどう飼ひ馴らすのか、卑怯とはどういふことなのか、人のために犧牲になることが何をもたらすのか。理想的人間像も、惡の根源も、引き裂かれる自我も、本來ならば全うな宗教が示してくれるはずである「人間の實相」であるが、それを傳へてくれるものが私たちにはない。價値の多樣化などといふ、美しい言葉で胡麻化してきたこの三十年ほどであるが、いよいよその化けの皮も剥がされてきた。價値は多樣化しない(多樣化しないから價値なのである)といふことを教へる宗教がないのであれば、文學の力に頼るしかあるまい。しかも本物の文學の力によつて。

  本書は小學生を對象にしたものであるが、今後は、中學生、高校生を對象にした副讀本を期待したい。本物の文學を讀まなくなれば、私たちが日本人であるといふことがますます不分明になつていく。

   文學の力によつてしかできないことがある。そして、それが今必要なことなのである。

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鶴見俊輔氏のunlearnといふこと

2009年04月12日 23時54分09秒 | 日記・エッセイ・コラム

 今、NHKの教育テレビで鶴見俊輔氏のインタビューの特集を見てゐた。一時間三〇分、飽きずに集中できたのはさすがに思索の人のことばには学ぶものがあつたからだ。よく分からない内容もあつたし、「国民の記憶は記録に残るが、人民の記憶こそ大事だ」といふことばには驚かされもした。何だか思はせぶりなことばだが、その具体例として挙げたのが、安保闘争の折の百万人デモだつたのには拍子抜けしてしまつた。日本の歴史上これだけの規模のデモなどない、まさに人民の記憶が戻つた瞬間だと顔を赤らめて発言してゐたが、一億人のうちのたつたの百万人ではないか。それが人民の記憶と力説するについては大いに疑問がある。毎日何千万人が家から会社まで通勤してゐる、その行動のはうが余程「人民の記憶」を体現した行為だと思ふがどうだらうか。

 十六歳でアメリカのハーバード大学に留学したといふ。十八歳のとき、図書館でアルバイトをしてゐると、ヘレンケラーが訪ねて来たさうだ。そこで会話を交はすと、彼女が「大学で一生懸命学んだが、仕事をするやうになつて、それをすべてunlearnした」と話してくれたと言ふ。このことばを、鶴見氏は初めて聞いたといふ。

 文字どほり訳せば、学んだことを否定するのであるから、「忘れる」といふ意味であるが、そこには「学びほぐす」といふ意味があるのではないかと感じたといふ。この説明に感銘を受けた。「〔知っていること, 学んだことなど〕を忘れる, 念頭から除く.」といふのではなく、学んだことをいつたん忘れて、もう一度深く学び直すといふことだと理解した鶴見氏の解釈に納得した。

 私は、「思想の科学」の読者でもないし「九条の会」の活動にも否定的であるが、何か魅力的なものを感じた。そこには、昭和の思想家の姿があつた。

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櫻と太陽の塔

2009年04月06日 21時50分15秒 | 日記・エッセイ・コラム

Img_0103_2   この三年ほど大阪萬博公園に花見にでかけることにしてゐる。歩いてきつかり一時間で着くから散歩にも最適である。咲き始めたかと思つた頃に少し寒くなり、機會を搜してゐたが、昨日の日曜日は氣温も高く、天氣もよく、最高の花見日和であつた。花は七分咲きといふところだらうが、だれも花見などしてゐない。酒を飮んだり食事をしたり談笑したり遊び囘つたり、とにかく春の訪れを滿喫してゐる風情である。もちろん、私もじつと座つて櫻の下で感慨に耽けるほどの風流人ではないから、どれを見ても變はらないはずなのに、一本でも多く櫻を見たいといふ衝動にかられ、ただひたすら歩き囘つてゐた。酒はまつたく受け付けないので御茶を飮みながら、カメラを首にぶらさげての散策である。そして、御決まりの太陽の塔。櫻の花と太陽の塔、かういふ景色は、萬博開催當時はあつたのかしらんと寫眞を今見て思ふ。

   Img_0108_11歩きながら家内が友人から聞いた話として教へてくれたことによれば、萬博以後に生れた大阪人には、太陽の塔と萬博とはあまり繋がらないものであるらしい。もちろん、知識としては知つてゐる。岡本太郎も月の石も御祭り廣場も名前は知つてゐるやうだ。しかし、いちばん實感として思ふのは、高速道路から太陽の塔が見えると、「ああ、大阪に歸つてきたな」といふことらしい。太陽の塔は、萬博の象徴といふより、大阪のシンボルになつたといふことなのだらう。私は、殘念ながら萬博には行つてゐない。もちろん生れてはゐたが、當時は靜岡に住んでゐたから、父と兄は出かけたが幼い私までは連れて行つてもらへなかつた。そんな私にも太陽の塔は萬博のものである。それは知識ではなく實感である。今の公園のあの見事な森林のなかですつくと立つた太陽の塔は、まぎれもなく大阪の物であるが、私といふ個人には、あのほこりつぽい、なんだか希望だか不安だか分からない「進歩と調和」の未來を純粹に憧れることのできた時代のバンパクの象徴である。

   Img_0111今の社會の氣分は透明で洗練されてはゐるが、手應へのない時代のやうな氣がする。森林の中の太陽の塔は、飛立つ鳥のやうにも見える。手應への無さゆゑか、春の輕やかさゆゑか、太陽の塔がふわりとしてゐるやうに見えた。

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