言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

今朝の産経新聞「断層」を読む

2009年07月30日 07時33分13秒 | 日記・エッセイ・コラム

二十世紀文化の散歩道 二十世紀文化の散歩道
価格:¥ 8,971(税込)
発売日:1990-05
 なんだか忙しくて更新もままならず・・・と言ひ訳をまづ致します。今朝は久しぶりに朝の時間が使へましたので、ゆつくりと新聞を読みました。職場には産経新聞と読売新聞とあと別に二紙があるのですが、私はもつぱら産経読売の二紙を読みます。我が家では朝日新聞を読むので、丁度バランスがとれるといふことになつてゐます(毎日新聞は二十年ほど前に一年間ほど購読しましたが、日曜日の読書欄は他紙とは隔絶した良質さを持つものの、その他はまつたく見るものがなく、以来もう読むことはなくなりました)。

 そこで今朝の産経新聞のコラム「断層」で民俗学者の大月隆寛氏が、保守だ革新だ、与党だ野党だといふ二項対立前提の図式は「都市伝説」だと書かれてゐた。うん、かういふ話はよく聞く話である。しかし、案外そちらの方が都市伝説なのではないかと私は感じてゐます。

 古くは、山崎正和氏の友人であるダニエル・ベル氏だつたか、「イデオロギーの終焉」なることが言はれた。八十年代のことで、私の大学時代のことでした。そしてソ連が崩壊していよいよその状況認識は正しかつたといふことになりました。しかし、それは本当でせうかといふ疑問がずつと私にはあつて、今もその疑問は消えてゐない。いや、今こそイデオロギーが必要なのではないかとさへ考へてゐます。

 消費社会の美学だとか、小衆の時代、分衆の誕生、価値の相対化など、八十年代は相対主義がいろいろな名称で言ひ換へられて私たちの頭の中に浸透してきた。それら一切がイデオロギーであることは当然のことであるのに、それぞれの感性を大事にせよといふことの表面的理解にとどまり、単一のイデオロギーを押しつけられてゐないといふことが即イデオロギーの終焉を意味するといふ短絡思考にすぎなかつたのではないでせうか。その結果、最悪の単一イデオロギー=相対主義が蔓延してしまつたといふのが、私のこの三十年の我が国の精神状況の理解です。

 相対主義の弊害については、もはや多言を要しないでせう。さてさうであれば、今こそイデオロギーをといふのが、当然の理であると思ふのです。これから行はれる選挙でも、じつはそのことを分かつてゐる人こそが大事な人物なのです。さしあたり大まかに言へば、イデオロギー政党である、共産党と公明党が(そして幸福実現党も!)「重要」でせう。しかし、ほんたうは、さういふ水平思考のイデオロギー政党ではなく、過去と未来と、物と心とを同時に見るやうだ垂直思考のイデオロギーを持つた政治家が求められてゐると思ひます。

 誰とは書きませんが、この夏は、少し、政治家の言葉に注目してみようと思つてゐます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『1Q84』には構造があつて、中身がない。

2009年07月14日 22時37分43秒 | 日記・エッセイ・コラム
物語論で読む村上春樹と宮崎駿  ――構造しかない日本 (角川oneテーマ21 A 102) 物語論で読む村上春樹と宮崎駿 ――構造しかない日本 (角川oneテーマ21 A 102)
価格:¥ 740(税込)
発売日:2009-07-10

 大塚英志氏が、早速『1Q84』についての本を書いてゐた。とは言へ、巻末に書き添えたといふのが事実のやうな感じだが、その骨子は、「村上最新作には、構造しかない」といふことであつた。私の「空気さなぎ」論をうまく言つてくれたと思つた。

 中身がなく、構造だけがある――まさしくさうである。

 今日のNHK「クローズアップ現代」で、村上最新作についてやつてゐたが、村上氏は、システム化する現代社会にたいして「物語」で対抗するといふ主旨でこの小説を書いたやうだが、眼高手低といふのだらうか、いや技術は相当なものだから、それは当たらないか。自分が敵とするものと同じ物を知らぬ間に作つてしまつてゐるのである。

 村上ファンを自称する人たちの読書会が映し出されてゐたが、一見内省的であるが、その実は村上春樹の世界観に自ら喜んで入らうとしてゐるやうであつた。それはもうひとつの「システム」の様相であつた。そもそも、自分の頭で考へることの重要性を訴へたといふ『1Q84』が、わづか一ヶ月で200万部も売れるといふのが、作者の意図を裏切つてゐる。村上春樹の世界を楽しむために、人は氏の本を読むのである。

 村上氏の「物語」といふ言葉の意味も曖昧であるが、敵とする「システム」といふものの概念も不分明である。その結果、両者は似てしまつてゐる。小説は、「構造」の産物なのではなく、主題の卓越さを明示するかどうかに文学性がかかつてゐる。アフォリズムは、村上作品にはあるけれども、その主題はどうにも自己陶酔的で、超越性が乏しい。生活の断片に使へる気の利いた言葉と構造があるだけで、中身がない――私はさう思ふ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『1Q84』読了――その「空気さなぎ」な姿

2009年07月12日 11時36分50秒 | 日記・エッセイ・コラム

 村上春樹の『1Q84』を読み終はつた。最後まで読んでも印象は変はらなかつた。1984年はバブルの真つ只中、私は大学二年生だつた。「空気さなぎ」とは、抜け殻のことであり、バブルと同じ比喩であるか。中身のない、その姿を、言葉によつてだけで(当たり前のことであるが)物語をつくりだし、読者に提供する。批評家達は、さまざまなに解釈を見せてくれてゐるが(私は『文學界』だけ読んだが)、それはあまり意味のないことだと思ふ。

 中身のない時代であつた――さういふ時代を書かうとしたのだから、「ほんたうに中身がなかつたね」といふ感想を持つのが筋だと思ふ。オウム真理教やら、エホバの証人やらを彷彿とする宗教団体や、リトルピープルやら二つの月やら、非現実的な存在がちりばめられてゐるのも、物語の面白さに貢献してゐることを認めるだけで十分である。ここに意味を探していくのは、まさに「意味といふ病」に侵されてゐるとしか言ひやうがない。私は『海辺のカフカ』論に「メタファーの行方」と副題をつけたが、もうそのメタファーの行方を追ふ必要はないと確信した。「空気さなぎ」だと著者が言つてゐる以上、その物語を楽しむだけで十分である。

 少少退屈してきたが、村上ワールドは今も面白かつた。それは丁度何年ぶりかで訪ねたディズニーランドから出てきたときの気分のやうである。以前ほどの感動はなかつたが、リピーターにはならないとも断言できない。アトラクションの新設や改良しだいだな、といふ「生意気な観客」の物言ひである。

 しかし、ディズニーランドの楽しみに人生を託せないのと同じやうに、村上ワールドの物語には人生を託せない。文学とはこれでいいのか。謎解き趣味には面白い、物語としても独特な趣のある作品として今後も読まれるであらうが、求めてゐるものとは違ふ。時代と文学とを探りたい私には、あまり関心は向かなくなる。

 1984年を題材にする必然性を私は感じない。今文学に求めるのは、さういふものではない。物語の楽しみは否定しないが、やはり空気でない、中身の詰まつた「さなぎ」を暗示する小説が読みたい。7年も土中に耐えてやうやく地上に出、七日間で死んでいくやうな、さういふ絶対の孤独を感じる小説を読みたい。さういふ生き方は、あの時代にだつてあつた。私には、「イエスの箱舟」の事件の方が、切実な印象として残つてゐる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝日新聞社の不見識

2009年07月06日 22時59分12秒 | 日記・エッセイ・コラム

 朝日新聞社が発行してゐるPR誌に『一冊の本』といふものがある。購読してゐる読者のみに届けられるものであるが、大きな書店に行けば手にとることもできる。

 七月号の「今月の新刊」(111頁)に橋本明といふ方の『平成皇室論』の案内が出てゐた。今上と同級生である人らしい著者が果たして書いたのだらうか。今上陛下のことを、元號を冠して天皇を表記してゐた。「著者渾身の一冊」だかどうかはどうでも良いが、昭和天皇や大正天皇、明治天皇のやうに、當今にたいして「元號+天皇」といふ呼び名は不敬であらう。

 編集者がこの紹介文を書いたのだとしたら、朝日新聞社の質の低下は目を蔽ふばかりである。確信犯なら、その不見識は度し難い。いちはやく訂正をしてもらひたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

精神の三つの変容

2009年07月05日 07時01分15秒 | 日記・エッセイ・コラム

 ニーチェの言葉に「精神の三様の変化」といふものがある。心の構へ方を巧みな比喩を用いて語つたもので、心の成長の三段階が示されてゐる。

 受験生に語られたものではないのはもちろんであるが、この言葉、結構高校三年生のたどる心の過程には有益であらうと思はれる。

 まづは、駱駝(ラクダ)の段階であると言ふ。できるかぎりの荷物を背負ひ、遠くを目差してひたすら歩く。しかし、その道は砂漠である。その時の戒めは「汝なすべし」である。どんなにつらくても苦しくても自ら心にさうつぶやかなければならない。「君はしなければならない」。一学期から夏休みにかけての彼らである。

 次の段階は、獅子の精神である。「新しい創造を目指して自由をわがものにすること」。妥協なく目標とする学校を目指すのである。模擬試験の結果が出揃ふ時期にあつて、どんどん妥協しがちになるときには「われは欲す」と強く自分で叱咤する獅子のやうなたくましさが望まれる。判定Cが出れば十分間に合ふ。

 そして最後は、「小児にならなければならない」。受験を目の前にした冬休みから三学期。自然体になることが力の源になる。「小児は無垢である、忘却である。新しい開始。挑戦」。「然り」といふ言葉が口から出てくればしめたものである。「世界を離れて、おのれの世界を獲得する」。さういふ意欲が無理なく出てくるのは、その人が成長したからである。

 駱駝→獅子→小児。この卓抜な比喩が私たちの精神の変容のモデルであるといふのは信じるにたる言葉であらう。イエスは「駱駝が針の穴を通るより天国に入るのはむづかしい」と言つた。また、イエス自身は「獅子の子」のやうな存在となつて地上の王国を築くべきであると旧約聖書では預言されてゐた。しかしながら、そのイエスは十字架についてしまふ。王様にはとても見えない人を王様であると認めることの困難を指して次のやうに語つた。「幼子にならなければ天国に入ることはできない」と。

 「神は死んだ」と言つたニーチェは、聖書の内容を十二分に消化し、精神の三つの変容を記すにあたり、動物の名前をそのまま用いた。この文章が収められてゐる『ツァラトゥストラはかく語りき』の文体が、新約聖書のパウロの書簡に似てゐるのもそのあたりの経緯を示してくれてゐる。神を信じてもゐない日本人が、ニヒリズムを気取つて「神は死んだ」などと言ひ募り、ニーチェリアンを気取るのは、根本的に間違つてゐる。ニーチェは神を求めたのである。そして愛したがゆゑに、堕落しきつたこの地上の惨状を見て、神を守るべく「神を殺した」のである。その逆説を知ることなしに、近代を手に入れることはできない。

ツァラトストラかく語りき 上 (新潮文庫 ニ 1-1) ツァラトストラかく語りき 上 (新潮文庫 ニ 1-1)
価格:¥ 540(税込)
発売日:1953-01

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする