立派なことを言ふ人がゐる。
先日、かういふ話を聞いた。
「お坊さんの中に、日頃の生活と言つてゐることとがあまりに違つてゐて、そんな坊さんは批判したくなる、さうある人に言ふと、『いやそんなことを言つてはいけないよ。さういふお坊さんを批判はできるけれども、少なくともその人は法を説いている。もし完璧な人しかお坊さんになれなくなるとすれば法が廃れるから、お坊さんを批判してはいけない』と言はれた。私はなるほどと思ひました」と。
これを話してくれた人の真意は分からない。「それでもいい加減なお坊さんは批判しますよ」といふ底意があるのかもしれないし、本当に二度と批判しないと決められたのかも分からない。
しかし、私は法を説いてゐるから免罪されるといふのは真実だらうと思ふ。ただし、厳しい原則がここには必要だ。つまりは、その人が説いてゐるのが本当に法であるかどうかである。法とはもちろん真理のことである。生きる道についてである。もし、法の基準で生きてゐなければ法を説いてはいけないといふのであれば、誰も法は説けない。このあまりに単純な原理が結構酷である。
人が人を導くとは、盲人が盲人を案内するやうな面もあるといふことを知るといふ冷酷な判断なくしては、私たちの生活は営めない。今言はれたことが真実かどうかの吟味がもちろん必要だ。しかし、その正確さだけを求めるのが人生であるとすれば、立ち止まることが最善の策となる。もちろんそんなことはできまい。とすれば、過ちを犯しつつ進む以外にないといふことに観念するしかない。
問題は、いづれにしても自分が盲人であるといふことの自覚である。時に、自分が正眼の持ち主で、群盲を指導できるのは俺だけだといふ大いなる誤解をしてゐる人を見かける。立派な言葉を吐けば、立派な人である。もつと言へば、立派な言葉を見出すことができたのは、自分の生活自体が立派であるからだと信じて疑はない人がゐる。かういふ人に出会ふと、言葉がその人を疎外してゐると感じてしまふ。
ガブリエル・マルセルはかう書いてゐる。
「根無し草のやうな人間が、暴君の手中で、はるかに容易に道具となりうることは疑ひを容れない。」
現代の「暴君」とは何か。私の念頭にあるのは、大方の人が考へるだらう、政治家のことではない。現代の暴君とは、山本七平が言つた「空気」である。それは「現代の」ではないかもしれない。ずつと日本では暴君であつたかもしれない。誰かの支配ではなく、なんとなくの支配であり、世間の支配のことであるかもしれない。一人一人が根無し草であるから、そのときの大勢を占める言葉を誰よりも大きな声で叫べば、それが暴君になる。そこでは人は道具である。まさに、言葉が人を疎外してゐる。
結構きつい日々である。どこを見ても道具人ばかりである。