言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉が人を疎外してゐる

2012年04月29日 12時41分35秒 | 日記・エッセイ・コラム

 立派なことを言ふ人がゐる。

 先日、かういふ話を聞いた。

 

 「お坊さんの中に、日頃の生活と言つてゐることとがあまりに違つてゐて、そんな坊さんは批判したくなる、さうある人に言ふと、『いやそんなことを言つてはいけないよ。さういふお坊さんを批判はできるけれども、少なくともその人は法を説いている。もし完璧な人しかお坊さんになれなくなるとすれば法が廃れるから、お坊さんを批判してはいけない』と言はれた。私はなるほどと思ひました」と。

 

 これを話してくれた人の真意は分からない。「それでもいい加減なお坊さんは批判しますよ」といふ底意があるのかもしれないし、本当に二度と批判しないと決められたのかも分からない。

 

 しかし、私は法を説いてゐるから免罪されるといふのは真実だらうと思ふ。ただし、厳しい原則がここには必要だ。つまりは、その人が説いてゐるのが本当に法であるかどうかである。法とはもちろん真理のことである。生きる道についてである。もし、法の基準で生きてゐなければ法を説いてはいけないといふのであれば、誰も法は説けない。このあまりに単純な原理が結構酷である。

 

 人が人を導くとは、盲人が盲人を案内するやうな面もあるといふことを知るといふ冷酷な判断なくしては、私たちの生活は営めない。今言はれたことが真実かどうかの吟味がもちろん必要だ。しかし、その正確さだけを求めるのが人生であるとすれば、立ち止まることが最善の策となる。もちろんそんなことはできまい。とすれば、過ちを犯しつつ進む以外にないといふことに観念するしかない。

 問題は、いづれにしても自分が盲人であるといふことの自覚である。時に、自分が正眼の持ち主で、群盲を指導できるのは俺だけだといふ大いなる誤解をしてゐる人を見かける。立派な言葉を吐けば、立派な人である。もつと言へば、立派な言葉を見出すことができたのは、自分の生活自体が立派であるからだと信じて疑はない人がゐる。かういふ人に出会ふと、言葉がその人を疎外してゐると感じてしまふ。

 

 ガブリエル・マルセルはかう書いてゐる。

「根無し草のやうな人間が、暴君の手中で、はるかに容易に道具となりうることは疑ひを容れない。」

 現代の「暴君」とは何か。私の念頭にあるのは、大方の人が考へるだらう、政治家のことではない。現代の暴君とは、山本七平が言つた「空気」である。それは「現代の」ではないかもしれない。ずつと日本では暴君であつたかもしれない。誰かの支配ではなく、なんとなくの支配であり、世間の支配のことであるかもしれない。一人一人が根無し草であるから、そのときの大勢を占める言葉を誰よりも大きな声で叫べば、それが暴君になる。そこでは人は道具である。まさに、言葉が人を疎外してゐる。

 

 結構きつい日々である。どこを見ても道具人ばかりである。

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科學技術にたいする心構へ

2012年04月16日 21時48分20秒 | 日記・エッセイ・コラム

 原発についての論議が、かまびすしい。いつもは、政治家が決断すべきと言つてゐる政治家が、この問題については、政治家ごときが判断すべきことではないと言ふのだから、噴飯物である。さう啖呵を切るからには、政治家が判断すべきこととは何かといふ見識があつてしかるべきだらうが、それは一向に聞かれない。御都合主義で、日和見で、大向うをうならせるかどうか、が氏の発言の動機である。

 さて、原発についてであるが、これはもう開発したのだから、続けていけば良い。それを使ひこなせないのなら、使ひこなせるやうにすればいいのである。かういふことを言ふ人を聞いたことがないが、原発事故を起こしたロシアもアメリカも今も原発での発電は続いてゐるのである。それなのに、日本だけが脱原発といふのは、いかにも反省好きの国民らしい反応である。

 使ひこなすのには、管理する側の体制が問題だといふのであれば、それも変更すればいい。やめることを即断せよといふ主張は、原発は大丈夫と言ひ張つてきた当局の裏返しに過ぎず、脱原発を神話化してゐるだけだ。イデオロギー的に反発してゐるとしか思へない。

  原子力の開発をやめることの弊害をもつと科学者は言ふべきだらう。それを聞きたい。科学の進歩を信じてゐるのが、科学者ではないのか。

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『福田恆存 思想の<かたち>』を讀んでゐるのだが

2012年04月04日 22時28分02秒 | 文學(文学)

福田恆存 思想の<かたち> ― イロニー・演戯・言葉 福田恆存 思想の<かたち> ― イロニー・演戯・言葉
価格:¥ 4,095(税込)
発売日:2011-11-26

 若い文学研究者である浜崎洋介といふ方が、『福田恆存 思想の<かたち>』といふ本を書かれた。友人で、福田恆存の研究者でもある金子光彦から、昨年末に福田恆存の芝居『堅塁奪取』を見に行つたときに、偶然お会ひした折に紹介されてゐた。その後書店で手にしたものの、高額であつたのとこれだけ大部の本を讀めるかどうか心もとなかつたので、そのままにしてゐたが、書評を書くことになり送つてもらひ、今少しづつ讀んでゐる。

  研究といふスタイルになると、福田恆存もかういふ書き方でしか論じられないのだらう。こちとらは文学として好きな時に好きな本を讀んで福田恆存についてあれこれと考へてきたから、かう体系立てて福田恆存像を作られると、さういふものかなと少し違和感を抱いてしまふ。

  確かに、太宰治について福田恆存が書いた文章では、太宰の生前と死後とであまりに論じ方が違ふのに驚いてゐたが、その変化が「文学概念の革命」の必要性を感じたがゆゑのものであると断じられるとさうかなといふ思ひになる。太宰の自殺によつて、その作品への評価が逆転したのは事実であつても、戦前からアポカリプス論を熟讀してゐた福田にとつて、「誠実が死ではなく、生を志向しうる文学概念を自分のものにしなければならぬ」と書いた心の内には、もう少し忸怩たるものがあつて、かうさつぱりと言はれると、福田の歩みの迷ひがそぎ落とされるやうな気がする。

  福田は、ひとすじの道を歩いてきた。それはその通りである。しかし、それはこのやうな理路の整然たる歩みであつたかどうかと言はれると、さうではなかつたのではないかと思ふ。研究といふスタイルでは、さういふ夾雑物が含まれたやうな書き方は学問的でないと言はれるのだらうが、やはり文學としては面白くない。

  未だ半分しか讀んでゐないので、どういふ書評になるか分からない。若い研究者の書いたものなので、好意的に書きたいと思ふが、果たしてどうなるか。ただ、今の時点ではつきりしてゐるのは、引用した福田の文章の仮名遣ひがひどすぎることである。一つの引用文のなかで現代仮名遣ひと歴史的仮名遣ひが混在してゐるのは、研究書としても瑕疵であらう。福田恆存が晩年、これだけは讀んでほしいといつた仮名遣ひの論について、引用の仮名遣ひがいい加減であるのは、極めて残念だ。

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