言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

映画「小野寺家の弟・小野寺家の姉」を観る

2016年07月25日 17時41分31秒 | 日記

 

 休みも二日目にはつてやうやく体調が落ち着いてきた。 

 特にストレスといふものは感じない日々であるはずなのに、休日に入つて一日目二日目は何もする気になれない。そんな時には、読書もあまり気が進まないので、DVDを観ることにしてゐる。今回も四枚ほど借りてきた。そのうちの一枚である。

 弟33歳と40歳の姉。両親はすでに亡くなつてをり、一つ屋根の下に住む。現実に隣にさういふ兄弟がゐたら、ちょっと気が引けてしまふだらうが、映画だから淡々と見続けられる。しかも、役者が向井理と片桐はいり。彼らの生活の中に、あるいはこれまでの人生に何かの物語を読み取らうとする。

 主人公のその二人の役者は、私は嫌ひである。どちらも役柄以上に、その人物が出てしまつてゐるからである。自分を消しながらそれでゐて現れてくる、さういふ役者がいいのではないかと素人ながら考へてゐる。しかし、今回は二人がとてもよい。姉と弟といふ関係が、二人の個性を消してくれてゐる。最後にある台所でのシーン。片思ひの彼に振られて帰宅してきた姉が弟に「ごめん、姉ちゃんふられちゃった」と語るところなどは、とても良かった。弟はすでに帰宅した直後に、一人部屋で泣いてゐる姉の声を聴いてゐるから、事態は呑み込めてゐる。しかし、慰めの言葉もかけない。「俺、風呂に入ってくる」と言つて台所を出ていく弟。

 弟には、姉への深い感謝の思ひがある。姉は姉で、弟への責任感を強く抱いてゐる。厄介な関係である。強い姉弟の結びつきは、一向に解かれないままで未来の時間を縛り続けてしまふのか。それについては何らの暗示もなく、映画は終了する。しかし、この切なさはとてもいいものであつた。両親を早くに失つたがゆゑの切なさが二人の結びつきを強め、頑なにしてしまつた。このままではいけないのだらうが、少しづつ遠心力も働き出してゐるやうにも感じる。

 二人だけで完結せず、それぞれに仕事を持ち、それぞれに別々の人間関係を築かうとしてゐる。その健気さが、この映画の味はひでもある。向井のあつさりとした演技、片桐の彫りは深いが、しつこくない口調が、べったりとした陰湿な印象を打ち消してゐる。そこに救ひも魅力もある。日本の現代の家族映画には、かういふものがあつてよいのではないかと思ふ。幸せと不幸とがあまりに峻別されてゐて、幸福な家庭と不幸な家庭とが同居してゐる日常風景を描くには、かういふ姉弟だけの家族といふのは存外に良いものであつた。

 原作・脚本・監督=西田征史

 

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