言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

メルヴィルの『バートルビー』は面白い

2011年01月31日 14時28分41秒 | 日記・エッセイ・コラム

バートルビー/ベニト・セレノ バートルビー/ベニト・セレノ
価格:¥ 1,680(税込)
発売日:2011-01-10
 メルヴィルの新譯を留守晴夫氏が進めてをられる。本作は、その第二彈。米國文學の不案内の私は、メルヴィルと言へば『白鯨』しか知らない。それも正直に言へば、讀んでもゐない。あの長篇を讀む氣力もない。讀めば面白いのかもしれないが、觸手が伸びない。そんな私であるが、この「バートルビー」は面白かつた。一風變つたバートルビーといふ人物に引き寄せられる。

   前作「ビリ・バッド」よりも讀み易い。ぜひ御一讀を進める。『白鯨』を讀んでゐない人でも讀める。

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待つてゐた太宰治

2011年01月24日 09時58分59秒 | 日記・エッセイ・コラム

 太宰治は、昭和22年の作品『斜陽』の中で「待つ。ああ、人間の生活には、喜んだり怒つたり悲しんだり憎んだり、いろいろの感情があるけれども、けれどもそれは人間の生活のほんの一パーセントを占めてゐるだけの感情で、あとの九十九パーセントは、ただ待つて暮してゐるのではないででうか。幸福の足音が、廊下に聞えるのを今か今かと胸のつぶれる思ひで待つて、からつぽ。ああ、人間の生活つて、あんまりみじめ。生れて来ないはうがよかつたとみんなが考へてゐるこの現実。さうして毎日、朝から晩まで、はかなく何かを待つてゐる。」と書いた。

 

 

 太宰は何を待つてゐたのか、今はその詳細には立ち入らないが、その「待つ」といふ感情を持続できなかつたことが彼の死を招いたといふことは言へるかも知れない。

 

 福田恆存はかう書いてゐた。

「太宰治は自己を責める『神』を發見したが、自己を許す『神』は發見しなかつたのだ。そしてこのことは現代日本の知識階級にとつて、いまなほ解決しえぬもつとも根本的な課題なのである。おそらくわれわれはこの太宰治のつまづきから出發しなければならぬであらう。」

(昭和26年 作品集解説)

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「待つ」といふこと

2011年01月14日 21時13分21秒 | 日記・エッセイ・コラム

 待ちに待つたとは、期待してゐたものが實現するといふ時の言葉である。確かに待つは、さうしたすぐに實現しさうなものを期待して待つてゐるといふ状況に使はれる場合が多い。が、しかしすぐには實現しさうもない物事をその場にとどまりじつとしてゐるといふ意味もある。むしろ便利が過ぎて待つことに慣れてゐない私たちには、「じつとしてゐる」といふことの方が大事な意味を持つてゐる。時を待つ、機が熟すのを待つ、さうしたゆつたりとした時間の流れを待ち續けることはできないものだらうか。その時はいつ來るのかは分からない、いや何を待つてゐるのかも分からない、太宰にはその名も「待つ」といふ小説があつたが、それもさうした待つといふことそのものを主題にした小説であつたやうに思ふ。

   しずかに

  ひが しづみました

  ゆつくりと

  よが あけます

  沈默の思ひを、溜め込まれた思ひを、ひそかに言葉にする、いや言葉になるまで待つ。

さういふ時が來るはずだ。 それを待つのが人の生き方であるとさへ言へるやうになつてきた。

   明日からはセンター試驗、受驗生は緊張の夜を過ごしてゐるだらう。いよいよの時の到來を恐れるのではなく、待つ、待つやうな心情で臨むのが本來だ。待ち續けた日との再會。再會の心情が胸に燈る。

   私もまた明日は、小學六年生の受驗生を迎へる。寒い朝になりさうだ。あの日もきつと寒かつたのだらう。ぴいんとした寒さが心地好い。

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眞劍であることが忌避される時代

2011年01月13日 21時41分29秒 | 日記・エッセイ・コラム

   眞劍であることはいつの時代にもある。ここ關西では、あの阪神大震災から16年が經つて、夕方のニュースなどで當時はあまり取り上げられなかつた事柄に焦點を當ててゐる。死者の蔭に隱れて大變な障碍を身體や精神に受けた人が數多くゐたであらうことは想像にかたくないが、「死なないだけましだ」といふ遺族の聲に掻き消されて靜かに苦痛に耐えてきた多くの人がゐたことを十六年經つて報道し始めてゐる。實に眞劍で深刻なことである。トルストイを引くまでもなく、不幸の形はそれぞれであるから、その不幸に見舞はれた人の状況は深刻で、眞劍な人生の問題である。そして、一皮剥けば、私たちの人生もまたその眞劍さに接するに違ひないところで生きてゐるのも深刻な生の事實である。

   深刻でないことを深刻であるかのやうに取り上げることが多くて、本當の深刻さに氣附いてゐないとでも言つたら良いのであらうか。さういふことを考へてしまふのである。

   漱石の『こゝろ』を今また讀んでゐる。必要があつて讀んでゐるのであるが、淋しい人間である漱石のその淋しみがどれだけ深刻であつたのか、それを傳へることができるかどうか心許ない。もちろんこの作品の文學的な位置附けやこの作品の缺點は研究者からすればそれこそ山ほどあるであらう。あるいは、どうしてこんなものを教科書に載せるのかと早稻田大學の石原先生邊りからは批判が出るかもしれないが、それでもこの作品ほど世代を越えて讀み續けられてゐる作品は外にないといふ事實は重い。大正二年に書かれたから、間もなく百年にならうとしてゐる。立派な古典である。廣く日本人に共有されてゐるといふ意味ではバイブルと言つても良いだらう。かういふ敗北者の文學が近代日本のバイブルになつてゐるといふこと事態は悲劇であるが、その宿命を背負ふことなしには漱石の精神を受け繼ぐことも乘り越えることもできない。しかし、どうだらうか。漱石から遠くはなれてゐるだけではないだらうか。

   もう漱石は必要ないと斷言出來る人がゐるだらうか。東大の小森氏でも早稻田の石原氏でも決してさういふことは言へない。言へないけれども批判したり、いぢくり囘したりはする。それが現代の大學の文學部で行はれてゐる研究であらう。そこにすら眞劍であること、深刻であることはない。

   だが、間違ひなく眞劍なことはある。

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謹賀新年

2011年01月01日 21時23分09秒 | 日記・エッセイ・コラム

例年の如く、昨年の「收穫」を三つ擧げる。

遠藤浩一『福田恆存と三島由紀夫』三島由紀夫の自裁から四十年の昨年は、三島關聯の本が色色と出版されたが、福田恆存との對比によつて戰後(近代)社會自體を論じたものは少なかつた。その點で本書は單なる作家論ではなく複眼的に捉へた戰後(近代)社會論である。

松本道介『極楽鳥の愁い』 「季刊文科」といふ雜誌に「視點」といふ題で連載されてゐたものをまとめたものだ。「ものを考えなくていい時代」になつたといふことを文學、思想、音樂の具體例を引きながら論じてゐる。西尾幹二とは東大の同級生のやうだが、本書では西尾の『江戸のダイナミズム』も批判してゐる。面白かつたが、氏の日本文化礼讃には違和感も抱き始めた

三浦雅士『人生という作品』 人生は作品である、現代人はさう考へるやうになつた。親が子供の記録を熱心に寫眞やビデオに撮る。その視線は、一個の作品を見る視線と同じである。その時の親は既に死者である。時間の觀念が變つたのだと言ふ。分かつたやうで分からない。三浦ブシ全快全開の評論。

  またしても小説から遠く離れた一年だつた。吉田修一、小林信彦、村上春樹は讀んだけれども「收穫」と言へるものはなかつた。

  本年もよろしく御願ひ致します。

平成辛卯(二十三)年 

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