言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『マスカレード・ホテル』面白かつた。

2019年01月27日 19時01分10秒 | 評論・評伝

  殺人事件が予告されたホテルでの話。ホテルマンと刑事との合同作戦。事件は見事に解決される。話は至つて分かりやすい。でも、色々な話題が盛り込まれる。役者がうまい。ストーリーの展開が見事。東野圭吾といふ作家は本当に見事だと思ふ。和製アガサクリスティだらう。ポアロのやうな存在はゐないけれども、それぞれの作品に卓越した人物がゐる。今回は木村拓哉と長澤まさみである。キムタクはあまり好きな役者ではないが、今回はキムタク度が消えて主人公が生きてゐた。娯楽作品も侮れない。かういふ作品が世界で通用しないのであらうか。

   
 
 
マスカレード・ホテル (集英社文庫)
東野 圭吾
集英社
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『淋しい人間』を久しぶりに読む

2019年01月20日 15時59分23秒 | 評論・評伝

 もう30年ほど前、仕事を辞めてしばらく家に引きこもつてゐた頃、心は焦燥にかられながらも何をしてよいか分からず、ただ外をうろつき回りながら本を読んでゐる時期があつた。今思ひ出してもひりひりするやうな危ない時期であつた。そんな時に熱心に、本当に熱心に読んだのが山崎正和である。中央公論社の著作集はそれよりだいぶん前に出てゐたが、本屋で今でも揃ひで購入できるかどうかを聞くと可能だといふので、うれしくてすぐに買つた。パラフィン紙で包まれたちよつとお洒落な本は、箱に入つてゐたが重くもなく読みやすいものであつた。それで今まで文庫や単行本でも読んでゐたものも、改めて読み直した。心が整理されていく実感が著作集を読み進めていくうちに深まつていつた。私のささやかな人生はぎりぎりまで追ひ込まれた窮地に至ると、かうして慈雨のやうな恵みを本が与へてくれるといふ体験に支へられてゐる。当時の山崎正和は歴史的仮名遣ひで本を出してゐたが、それが一層私には心地良かつた。中でも思ひ出深いのが『淋しい人間』である。

 13名の小説家や劇作家、批評家などを批評した文藝評論であるが、「淋しい人間」と名付けられたのは漱石である。無性に読み直したくなつて、今朝から読んでみた。縦横無尽に漱石の作品を引用して、漱石自身が隠してゐたやうにも見える暗号を、あるいは漱石自身は自覚しないが残してしまつた証拠物を見事に目の前に示してくれてゐる。評論とはかういふものかといふ感動が改めて蘇つてきた。

 初読時の私がどこまで理解してゐたかは分からない。そして今も正直に言へば、山崎の意図をどこまで理解できてゐるかは心許ない。しかし、この度もその慧眼に打たれてゐるのである。

「近代的自我とは、もともと時代の習俗にほかならず、純粋なかたちで存在し得ない、逆説的な観念であつた。それは何よりも主体的であることを本質とするものだが、主体性といふものは、それを純粋化して行けば行くほど、逆に実質的な内容を失つて行く性質を持つてゐるからである。外界の条件が主体にとつて拘束となるのはもちろんであるが、考へて見れば、肉体的な体質も、精神的な気質も、さらには思想信条やそのときどきの欲望も、自由な主体の決定にとつては拘束として働いてゐる。のみならず、主体の過去の決定と行動はすべて一種の慣性となつて、現在の主体の自由な方向決定を妨げるにちがひない。けれども、さうした内外の拘束をすべて排除してしまへば、主体は空間的な大きさも、時間的な同一性もなく、いつさいの性質を欠いた、純粋な点のやうなものになるほかはないのである。」

 かうした近代人の宿命的な実存のありやうを観た上で、『門』の宗助や、『こころ』の先生や、『それから』の代助が解釈されていく。じつに鮮やかである。漱石の書く小説の主人公はどれも自分の内面に空虚を抱へてゐる。当時の社会的な状況を踏まへて考察した『不機嫌の時代』といふ評論も山崎は既に書いてをり、それは志賀直哉を中心に描いてゐた。しかし、さうした時代状況を理解した上で、それでもさうした空虚感を抱へてしまふのには個人の資質があるのではないかといふ見込みから改めて漱石を読み、その本質を「淋しい人間」として描いたのである。漱石の主人公には鋭い倫理性と高い内省能力があるといふことを見つけ、さういふ人が抱く感情が「淋しい」であると結論づけた。

 かつてD・H・ロレンスは黙示録論(新約聖書の最後にある終末を預言したのが黙示録。実にむづかしい。愛が冷えた時代と言つてよいだらうか)を著し、福田恆存はその翻訳書を「現代人は愛しうるか」と名付けたが、漱石もまた別の観点で、心に空虚を持つた人間が、それでも人間関係の中に甘えを見出すことを拒否し、主体的に他者に対峙しようとしながらも、愛する能力の薄弱さを自覚し、その無力感から「淋しい」と呟く主人公を作り上げた。山崎はさう記してゐる。一見すると漱石の描く人物は働かず社会性の欠如を指摘されやすい。しかし、子細に見れば、その人物たちはいづれも有能であつてそれゆゑにむしろ自ら社会から距離を取らうしてゐるやうにも見える。

 近代的な自我を輸入したばかりの明治時代にあつて、それを正確に理解し、なほかつその限界までも知つてしまつた漱石は、「働かない人物」を描く以外にその思想を体現した人物を書くことはできなかつたのではないか。

 山崎は、漱石の他にも鷗外も同じ問題意識であることを指摘し、かう書いてゐる。「彼らは、近代的自我と近代小説の観念がまさに自国に輸入されて来た瞬間に、その両方を疑ふところから出発するといふ、皮肉で、しかし光栄ある運命を担つた文学者であつたといへよう。」

  これも至言ではないか。

 この本の復刊を願ふ。

淋しい人間 (1978年)
山崎 正和
河出書房新社
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『真実について』を読む。

2019年01月16日 22時24分53秒 | 評論・評伝

 アメリカの道徳哲学者ハリー・G・フランクファートの書である。原著は2006年に書かれてをり。前著『ウンコな議論』(筑摩書房から出版。これは以前に紹介した。「おためごかし」のいい加減な議論を揶揄したものであつた。)に対する批判への応答書である。

 とは言へ、その前著を読んでゐないと分からないといふ内容でもない。しかし、前著ほどの強いメッセージがあるのではない。ではなぜ本書が12年も経つて日本で翻訳出版されたのかと言へば、トランプ大統領の誕生ゆゑであらう。例の「フェイク ニュース」だとか「オルタナティブ ファクト」だとか「ポスト トゥルース」だとか言ふ言葉が飛び交ふ中で、このタイトルには訴求力があると思はれたのであらう。しかし、あまり売れてゐる印象はない。

 訳者は、前著と同じ山形浩生氏である。軽妙な感じは読みやすさには大いに貢献してゐるが、果たして原著の文体は日本語のかういふ感じなのであらうか。英語がまつたくできない私には山形フランクファートしか分からないのが残念だ。一つだけ言つておくと、山形は「発言の中身が何も重要性を持たない言説であり、ただの場つなぎだったり、なんとなくそれを言う人を偉そうに見せるための言説」を「おためごかし」と言つてゐるが、そのうちの最後の内容は確かにお為ごかしであるが、中身のない話や場つなぎの話をお為ごかしといふであらうか。戯言(ざれごと)や贅言(ぜいげん・贅肉の「ぜい」です)と言つた方が良いのではないか。「ウンコな議論」とはさういふものであつて、お為ごかしではないだらう。

 それはさておき、本書でフランクファートの慧眼が冴えるのは、ポストモダニズムへの批判である。あるいは客観的な事実などはなく、あるのはそれぞれの事実であるといふやうな「気の利いた言説」への批判である。

 あるのはそれぞれの自己が認める事実だけだと言ふのであれば、その事実を認める自己自身の存在性も他者には認められないことになる。さうであれば、「自分とは何かを見極めることさえできない」。

 すべてを相対主義的にとらへるポストモダニズムは、嘘をついても平気な思想である。常識人はさう考へる。何なら、そのポストモダニズム自体を相対化してみたらいい。言葉遊びはいくらでも可能だが、常識人はそんな与太話にはついていかない。「実用的な規範が重要であること、自分が気にかけるものが重要であり、そしてそのためには、自分と、その気にかけられてる自分以外の何かがいるということ。これがフランクファートの思想の中心」である。

 嘘を丹念に暴いていきながら、真実を少しづつでも明らかにしていかうと努力すること。その実践にこそ私たちが生きていく意味がある。性急に相手を説得しようとして、自分が信じる「真実」のために嘘をついて騙してはいけない。さういふ当たり前のことがとても大切なのだ。さう感じた。

真実について
山形 浩生
亜紀書房
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インフルエンザ明けの、今朝の讀賣新聞が面白い。

2019年01月09日 09時50分31秒 | 日記

 初詣に出かけて家に戻つた直後からどうも体が重い気がしてゐたら、翌朝から発熱。以来丸四日間伏せてゐた。正月なので病院は休み。隣の市の救急外来に行くも、「インフルエンザは陰性です」と言はれトンプクだけもらつて帰宅。1時間待たされ、やうやく診察・検査を受けるが結果が出るのにまた1時間。これではインフルエンザでない人も、罹患すると感じた。それに診察も怪しい。頼りない感じであつた。

 そして週明け、改めて近所の病院で見てもらふと「陽性です。薬を処方しますのでお飲みください。」とのこと。受付、診断、会計、薬局で薬の受領、都合30分。インフルエンザへの警戒心がとても強かつた。早く診断し、早く帰宅させる。その意志に貫かれてゐる気がした。薬局でも、薬をここで飲め、水を用意するからとまで言はれた。今はタミフルではないやうだ。一回で済む新薬が出たと言ふ。熱は2日で下がると思ひますが水分をしつかり取つて休養することと念を押された。そして、昨日の朝、本当に熱は下がつた。薬の有難みを感じた。

 今朝からはベッドを離れて社会復帰の準備をしようと椅子に座つてゐる。ちよつと油断してゐるが、仕事も溜まつてゐるので始めなければと気が気でない。冷え込みもきついのが気になるが、ぼちぼちと始めようと思つてゐる。

 それにしても正月早々とんだことになつてしまつた。病院まで送つてもらつた家内にも駐車場でけがを負はせてしまつたし、申し訳ないやら情けないやら。お祓ひが必要なのかもしれない。いやいやさうではなく、これぐらゐで済ませてくださつた大運に感謝した方がよいだらうとも思ふ。

 それで今朝の讀賣新聞だ。

 年始から始まつた「想う2019」の連載が面白い。今朝は、ロンドン大の政治学者エリック・カウフマン(48)へのインタビュ―だ。欧米で起きてゐるポピュリズムは、縮小する白人社会がその危機意識のはけ口として生まれたものとの分析はその通りである。したがつて、トランプの登場も必然と見るし、左翼リベラリズムが不安におびえる白人のポピュリズムを人種差別主義と一蹴することへの再考を求める姿勢には大賛成だ。かういふ冷静な分析が讀賣新聞の論調となれば、トランプ大統領の行動を彼の個人的な資質からのみ判断する言論の軽薄さが浮き彫りになる。その端的な例が、この記事の直下にあるニューヨーク支局の橋本潤也の「読み解く」である。「トランプ氏はいまだにオバマ氏を敵視し、国際社会に背を向け続けている」などと書いてゐる。ニューヨークにゐて「不安におびえる白人の有権者たち」の声を聴いてゐない新聞記者は、観念でものを見てゐるのだらう。だから、当地の大新聞や日本の軽薄メディアの主張に沿つた意見を書いて「読み解」いたつもりで悦に入つてゐられるのだ。

 この紙面構成を仕立てたのは、讀賣新聞編集局整理部の大手柄である。これで橋本の記事は信用できないと内外に示し得たからである。紙面構成は、活字以上に真実を「読み解く」。病み上がりに最高の痛快事であつた。

 このまま私のインフルエンザも去つてくれればありがたい。

フォーリン・アフェアーズ・リポート 2018年10月号
フォーリン・アフェアーズ・ジャパン
フォーリン・アフェアーズ・ジャパン

「引き裂かれたヨーロッパ―― 多数派のアイデンティティ危機」がエリック・カウフマンの論文である。

 

 エリック・カウフマンは、こんなことを言つてゐるやうだ。移民法が成立した今、考へたいことである。

イギリスの政治学者エリック・カウフマンはイスラム教徒でも世俗主義・無神論の思想に近づくほど出生率が落ちていることを統計から示し、逆に原理主義者の人口によるヨーロッパでの増加とその後の圧倒は止められないと指摘している。日本がバブルの時期でも出生率が上がらないで減少していたように、フランスやイギリスでも同様に所得が増えても産児数が増えないことが判明している。出生率減少の背景にはかつては職場の紹介やお見合いで誰もが結婚していた皆婚時代から都市部で既婚者が低かった江戸時代のように都市化で婚姻率自体が下がっていることがある。これは景気の良かったバブル時代でも「結婚しているのが普通」との価値観が減退して婚姻率と共に出生率が下がっていたように、お見合い文化や知人からの異性紹介など復活させて婚姻率自体を高めたり、移民受け入れよりも「三人以上出産後でもきちんと育児している家庭」への税制優遇すべきとの主張の根拠になっている。カウフマンは移民希望者への世俗義務化、受け入れ国の言語習得しない者・母国民族主義者や宗教原理主義者・受け入れ国のルールを守らない者などは国外追放など厳格な制度にしないと軋轢が増すだけとしている。

(引用は、ウィキペディア「合計特殊出生率」より)

 

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堂々と反知性主義

2019年01月02日 09時46分11秒 | 評論・評伝

 元旦の産経新聞が面白かつた。曽野綾子の「正論」も気持ちのよい文章だ。

 そしてとても良かつたのが別冊に載つてゐた「日本の針路 見据えて」といふ記事である。国連軍縮担当上級代表の中満泉、歴史家の磯田道史、そして国際基督教大学副学長の森本あんりの三氏のコメントはそれぞれに学ぶことがあつた。正月からかういふ文章に出会へたことがとても嬉しかつた。

 森本のものは従前からの主張であるが、インタビューはそれをうまくまとめてゐた。「多様な評価軸を持って」といふタイトルの後半にかうある。「米国の思想史で『反知性主義』を掲げた人々もまた、世間で重視されている価値観とは異なる、もう一つの価値基準の軸を持っていた。それは『信仰』だった。高学歴の権力者(知性主義者)を前にしても、彼らは『神の前では平等だ』と考えることで権力を堂々と批判することができたのである。」と。

 これまでもこのブログで何度も書いてきたことだが、日本の知識人が使ふ「反知性主義」といふのは安倍政権への批判の文脈で書かれることが多い。曰く、安倍は歴史修正主義だ。曰く、安倍の経済政策(瑞穂の国の資本主義)は客観性を欠いてゐる。内田樹や佐藤優などが批判するのはその文脈で、出身大学一流のエリート(知性主義)にたいして二流大学出身の為政者への揶揄として「反知性主義」と命名してゐる。

 しかし、それは大いなる誤解である。「米国の思想史」において生まれたその言葉の出自を忘れ、批判のレッテルとして言葉だけを用ゐるのは、彼らの言ふ「反知性主義」そのものではないか。だから言葉を正しく使はう。「世間で重視されている価値観とは異なる、もう一つの価値基準の軸」それこそが反知性主義である。それが米国では「信仰」であつた。

 私たちの現代日本を作つてゐるのは、東大出身者を頂点とする官僚である。彼らは紛れもない「知性主義者」である。しかし、どうだらう。彼らが作つた硬質な社会制度は、前例主義であり、形式主義である。今日それは機能しなくなりつつある。一例を挙げれば、官僚としては二流であらう文科省が次々に繰り出す制度改革は、一向に現状の改革には届かない。英語四技能も、主体的で活動的な深い学びも、東京大学の学生相手に施策を考へてゐるのかと思はれるぐらゐ的外れである。英語を全国民が話せる理由がどこにあるか。主体的な学びの前に受動的な知の蓄積が必要ではないのか。かういふ主張こそ言葉の正しい意味で「反知性主義」である。しかし、そこには(日本の反知性主義)には米国にあるやうな「信仰」はない。基礎価値としての何かがないから、対抗するものとしても弱い。明確で深遠な人間論を提示できないのが日本の「反体制の思想」の欠点であらう。

 しかし、それを逆手に取つてかう言はうと思ふ。知性主義に対抗できる思想や信仰はない。けれでも、知性主義は間違つてゐると言ひ続ける姿勢のなかで自づとその確からしさは示されていく。つまりは関係の中で暗示されていくもの以外に知性主義の誤りを指摘することはできないといふことである。思へば、信仰であつても、「これこれである」と明示すればそれは神学になつてしまふ。神学になればそれは新たな知性主義である。米国の神学論争についての知識はないが、反知性主義が多様な評価軸を持つことの重要性を言ふものであるのだから、信仰が神学になることはないといふことは明らかである。

 対話以外にあるまい。論理一辺倒で相手を論破し、折伏することを知性の効用と考へる知性主義の罠に陥らないためにも、生きる姿勢で示していく必要がある。

 さういふ対話を最も苦手とするのが私自身であるが、対話を始めてみたいと感じさせられた元旦であつた。

異端の時代――正統のかたちを求めて (岩波新書)
森本 あんり
岩波書店

 

 

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)
森本 あんり
新潮社
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