言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

横軸に交る縦軸が見えない

2019年12月31日 18時05分05秒 | 評論・評伝

 今日は大晦日。一年を振り返つて、さて今年の一冊は何にしようと考へたが読んだ本の名前が思ひ浮かばない。なに、本の名前が思ひ浮かばないといふよりは、あつさり本を読まなかつたといふ方が正解であらう。貧困な読書生活であつた。

 積み上げた本はいくらもあるが、読みかぢつたり眺め見たりするだけのこと。小説数冊と評論数冊。

 今年は大掃除もせずに、添削や原稿書きと知人との面会とにここ数日を過ごしてゐる。

 日頃はできないことを長い休みを使つてできるのはありがたい。

 頭を休めるためにふと手にしたのが『問ひ質したき事ども』である。福田恆存の最後の著作だ.

  かういうふ本を「頭をやすめるために手にするのか」と疑問を持たれるかもしれないが、私にとつては頭の栄養素。日常生活の消耗戦に臨むには、かういふ本が必要だ。

 目に入つたのは、渡部昇一をくさした場面。かうあつた。

「あなたは、カトリックを自称しながら、左右の空間を越え、過去と未来の時間を超え、その横軸と交る縦軸が見えないらしい。あなたには生と死が向ひ合ひ、心と物とが出逢ふ一人の人間の生き方が全く解つてゐない。」

 この渡部評の当否は問はない。私が関心があるのは、福田恆存には、「空間を超え、時間を超え、その横軸と交る縦軸が見えた」といふことである。それはその軸とは何かを明言したといふことではなく、この平面の世界には見えない縦軸があるのだといふことを指摘した、指摘できたといふことである。そして、今日大事なものは、その縦軸である。

 損得で生きること。目の前の効果だけで生き方を決めてしまふこと。自分の考へを絶対視してしまひ、他者否定から自己肯定を始めること。面従腹背を公言し、それが大人といふものであると言ふこと。――さういふ場面によく出くわす。今年は特にそれが多かつた。福田恆存なら自己欺瞞と一括りするであらうが、さういふ人が大手を振つて歩いてゐる。大手を振つて歩いてゐるなどと書くと、傍観者として見てゐるやうに思はれるかもしれないが、今年はさういふ人人にえらい目に合されることになつた。横軸だけで空間や時間を支配することができると思つてゐる人が何と多いことか! 

 福田恆存が言ふ横軸とは、私なりに解釈すれば「花いちもんめ」の政治的振る舞ひのことである。「あの子がほしい」と言ひ続け、一人一人数を増やしていく大人の遊びのことである。徒党を組んで味方の数と必要なら権威をバックにして組織を牛耳らうとする。政治的遊戯のことだ。さういふことをしてその人も他者も幸福になることはない。そんなことも分からない未熟な人間の所業である。

 しかし、その横軸の動きが止まつても、縦軸の動きが始まるわけではない。縦軸に気づかず、横の運動だけが無くなつた。しかし、これを幸福とは言はない。したがつて、これから縦軸の動きが必要となる。そして、その前に縦軸があることを伝へなければならない。できるかできないかは分からない。でもさういふことを始めるのに躊躇してゐる年齢ではない。

 「問ひ質したき事ども」は、私にとつて縦軸の書である。

 

問ひ質したき事ども (1981年)
福田 恒存
新潮社

 

福田恆存評論集〈第12巻〉問ひ質したき事ども―言論の空しさ
福田 恆存
麗澤大学出版会

 

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「時事評論石川」2019年12月号

2019年12月22日 09時25分21秒 | 告知

「時事評論石川」12月号(788号)のお知らせ。

 ブログの更新が滞つてゐる。ひとへに忙しいからである。そしてやはり体力の衰えも否めない。帰宅して夕食をとるともう何もできない。それでも仕事の続きは「しなければならない」ので「する」のだから、もはや体力でもなく気力なのか。時間→体力→気力と何かのせいにして更新遅滞の理由を語るのは、やはりをろかなるべし。

 さて今月号は、一面の中国資本による北海道の土地買収の問題である。北海道だけではない、対馬も同じ状況だらう。国防の意識がなく、所有者個人の意思に任される外国人への土地売買の状況は喫緊の課題である。国会での議論を願ふ。

 二面で論じられるのは、神戸市の小学校での教師間いじめの実態である。なるほど日教組の問題だつたのかと感じる。品性下劣な者たちがイデオロギーで武装して、その下劣な品性を肯定することになれば、いじめも嫌がらせも起きるだらう。大した教養も知識もないのに偉さうに語る教員に限つて品性の下劣さに気づけないのである。さうとなればさういふ輩は神戸市だけにゐるのではない。全国に教師間いじめはあるのだと思つて間違ひなからう。いや率直に言へば、学校だけの問題でもあるまい。

「教育随想」が言及した嵐の奉祝曲については、私はまつたく違ふ評価である。一言で言つてひどいものだつた。「僕らの幸せも大河にすればいい」とは、不敬そのもの。そんな言葉で語る位相にあるのか。私たちの国における天皇といふ存在は。これでは両陛下とは単なる国民代表夫婦といふことになりはしないか。

 三面は、拙論である。教育改革の顛末については、既報の通り。これを書いたのが先月末であるので、国語と数学の記述が無くなりさらに改革は後退したが、「文明の方向感覚の喪失」といふ感は一層深まつてゐる。今書くとしても同じことを書く。

 「この世が舞台」は、ソフォクレスの『エレクトラ』。激しい憎悪から仇討をする人間を描く作品を讀むと、日本と西洋との違ひを感じる。ここまで人を憎悪することが私たちにはできない。吉田修一の小説『悪人』も『怒り』も不吉ではあるが、悪そのものはどことなく曖昧である。福田恆存の言葉を留守氏は引用してゐるが、日本の演劇である「歌舞伎の場合、悲劇として何が吾々を感動させるかと言ふと、それは対立する二つの力の和解の儀式、許し合ひ、見逃し」だと言ふ。そこにはカタルシス(精神浄化)はあるが、人間の正しさは示されない。これは困つたことだ、そんな風に思ふ。

 

 今月号の内容は次の通り。

 

 どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。  1部200圓、年間では2000圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)

                     ●    

北の大地が「志那」の土地に?

  中国資本が増す北海道の現状

            史家  山本昌弘

            ●

沈黙を続ける日教組(兵庫県教組・神戸市教組)

 組合こそが「いじめ体質」温存させてきた存在

       ジャーナリスト  伊藤 要

            ●

教育隨想  君が代の「君」を実感した日(勝)

             ●

文明の方向感覚の喪失――大学入試改革の迷走

       文藝評論家 前田嘉則

            ●

「この世が舞台」

 『エレクトラ』 ソポクレス

       早稲田大学元教授 留守晴夫

 

            ●

コラム

  韓国が漂流し始める前に(紫)

  軍隊の治安活動(石壁)

  好事魔多し(星)

  そんなに大事か英会話(白刃)

                ● 問ひ合せ 電話076-264-1119 ファックス 076-231-7009

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