今日は大晦日。一年を振り返つて、さて今年の一冊は何にしようと考へたが読んだ本の名前が思ひ浮かばない。なに、本の名前が思ひ浮かばないといふよりは、あつさり本を読まなかつたといふ方が正解であらう。貧困な読書生活であつた。
積み上げた本はいくらもあるが、読みかぢつたり眺め見たりするだけのこと。小説数冊と評論数冊。
今年は大掃除もせずに、添削や原稿書きと知人との面会とにここ数日を過ごしてゐる。
日頃はできないことを長い休みを使つてできるのはありがたい。
頭を休めるためにふと手にしたのが『問ひ質したき事ども』である。福田恆存の最後の著作だ.
かういうふ本を「頭をやすめるために手にするのか」と疑問を持たれるかもしれないが、私にとつては頭の栄養素。日常生活の消耗戦に臨むには、かういふ本が必要だ。
目に入つたのは、渡部昇一をくさした場面。かうあつた。
「あなたは、カトリックを自称しながら、左右の空間を越え、過去と未来の時間を超え、その横軸と交る縦軸が見えないらしい。あなたには生と死が向ひ合ひ、心と物とが出逢ふ一人の人間の生き方が全く解つてゐない。」
この渡部評の当否は問はない。私が関心があるのは、福田恆存には、「空間を超え、時間を超え、その横軸と交る縦軸が見えた」といふことである。それはその軸とは何かを明言したといふことではなく、この平面の世界には見えない縦軸があるのだといふことを指摘した、指摘できたといふことである。そして、今日大事なものは、その縦軸である。
損得で生きること。目の前の効果だけで生き方を決めてしまふこと。自分の考へを絶対視してしまひ、他者否定から自己肯定を始めること。面従腹背を公言し、それが大人といふものであると言ふこと。――さういふ場面によく出くわす。今年は特にそれが多かつた。福田恆存なら自己欺瞞と一括りするであらうが、さういふ人が大手を振つて歩いてゐる。大手を振つて歩いてゐるなどと書くと、傍観者として見てゐるやうに思はれるかもしれないが、今年はさういふ人人にえらい目に合されることになつた。横軸だけで空間や時間を支配することができると思つてゐる人が何と多いことか!
福田恆存が言ふ横軸とは、私なりに解釈すれば「花いちもんめ」の政治的振る舞ひのことである。「あの子がほしい」と言ひ続け、一人一人数を増やしていく大人の遊びのことである。徒党を組んで味方の数と必要なら権威をバックにして組織を牛耳らうとする。政治的遊戯のことだ。さういふことをしてその人も他者も幸福になることはない。そんなことも分からない未熟な人間の所業である。
しかし、その横軸の動きが止まつても、縦軸の動きが始まるわけではない。縦軸に気づかず、横の運動だけが無くなつた。しかし、これを幸福とは言はない。したがつて、これから縦軸の動きが必要となる。そして、その前に縦軸があることを伝へなければならない。できるかできないかは分からない。でもさういふことを始めるのに躊躇してゐる年齢ではない。
「問ひ質したき事ども」は、私にとつて縦軸の書である。
問ひ質したき事ども (1981年) | |
福田 恒存 | |
新潮社 |
福田恆存評論集〈第12巻〉問ひ質したき事ども―言論の空しさ | |
福田 恆存 | |
麗澤大学出版会 |