言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

時事評論 7月号

2016年07月21日 13時11分13秒 | 告知

 今月号は、次の通り。 どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。
1部200圓、年間では2000圓です。
(いちばん下に、問合はせ先があります。)

 松原正先生の追悼文を留守先生が書かれてゐる。待望のものである。「西洋を怖がらないやうになつてから日本は駄目になつた」と、松原先生は語つてゐたといふ。その通りである。グローバリズムに対応した英語能力の向上などといふことを、今の政権は強く言つてゐるが、それは「西洋を怖がらない」からである。英語を話せるやうになれば、英語文化圏に飲み込まれるのである。それでもやつていけると思ふほど西洋を見くびつてゐるといふことであり、日本を買ひかぶつてゐるといふことである。それほどに彼我に対する認識の誤謬を犯してゐることを知らない政治家の愚に怒りが消えない。

 「祈りの国」を書かせていただいた。副題は、「その人がゐるといふことがそのまま『呼びかけ』となる」である。その人とは誰か。それは天皇である。その方の祈りによつてわが国は守られてゐる。そのことを指摘したまでである。そこでも引用したのが、ベルグソンの次の言葉である。

「聖徒や偉人たちは、他人に向かって何一つ要求しない。しかし獲得する。彼らは説き勧める必要もない。彼らは存在しているだけでよい。彼らの存在が呼びかけなのである。」

 論理は、嘘をつく。だから、言葉で人はだまされる。話してゐる人もまた、自分の論理に欺かれる。

 論理は、動機を抱いた後の事柄に生まれるものであり、動機は論理的帰結ではない。だから、論理では動機を転換させることはできない。動機を隠したまま、あるいは動機を省みることなく、論理は展開していく。論理とは衣装=意匠でしかない。

 しかし、祈りは論理を越えてゐる。私たちの国が存続するとすれば、それは祈りによつてしかなされない。

 

                 ●



 

   ☆    ☆    ☆

祈りの国――その人がゐるといふことがそのまま「呼びかけ」となる 

          文藝評論家 前田嘉則



反省と謝罪の義務と権利<上>

 寄って集って誤らせて気持ちよくなってゐる「世間」様

   評論家 瓦崎鬼一郎




教育隨想

 共産党の「人殺し」発言を、憲法改正の好機にせよ(勝)



ラグビーイヤーはまだまだ続く――高校ラグビーに一点の雲

 元中村学園大学教授 青木秀実

追悼 松原 正

  早稲田大学元教授 留守晴夫

コラム

  『朝鮮王公族――帝国日本の準皇族』(中公新書) (紫)

  「連帯責任」考(石壁)

  「十八歳で選挙」のこれ以上なき愚(星)

  「文明の衝突」の嘘(騎士)



問ひ合せ

電話076-264-1119
ファックス 076-231-7009

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