今年の世相を表す漢字は「僞」であると言ふ。まあ、さういふものですかね、といふのが率直な感想だが、「僞」なら人間は誕生してからずつと「僞」であるし、時に「善」なることをすると、「僞善者」などと言はれるほど、人人は人の善をそもそも信じてはゐまい。さういふ人人の作り出す世相が「僞」といふのなら、これはずゐぶん實相に近附いた、「眞」に近附いたといふことになるのだらう。氣附くのにずゐぶんとかかりましたね、といふことに過ぎまい。
不二家、赤福、白い戀人、船場吉兆、ブランド米、これが「僞」の根據であるが、それらはいづれも「食」にかかはること。食は、命に關はる問題だからおおごとだ、と言ふことなのだらうが、結局は私たちの關心事は「食」に盡きるといふことなのだらう。ずゐぶん情けない世相である。一方で、昭和30年代を懷かしむ映畫が流行してゐるといふ事實とあはせて考へると、あの頃の「食の安全」なんてどの程度だつたのかといぶかしむ。世相もずゐぶんいい加減である。
何のことはない、清水寺の管長が「僞」と書いて今年一年の世相にひどく怒つてゐたが、その方も含めて私たち自身が「僞」であることを忘れて、他人の「僞」に怒るといふ精神が最も「僞」なのではあるまいか。
福田恆存は、人格の根據に「良心」を置いたが、まつたくその通りだと思ふ。そして、附け加へれば、その良心は他人を批判するために使ふのでなく、個人の人格を崩壞させないために用ゐるべきなのである。孤獨なる人間が、どうして生きてゐられるのか、それは良心が自己を超えたものを意識させるからである。「僞」を言ふなら、まづは自分の「僞」を感じとることから始めなければならない。それなくして、「僞」を批判すれば、空しい思ひが起きるばかりである。福田恆存の生き甲斐も、さういふ自己批判を前提としてゐるからこそ持ち得たのであらう。
かつて坂口安吾が福田恆存を評して「批評が生き方になつてゐる」と言つたが、批評を生き方にできるほど、自己裁斷が嚴密であるとは、ずゐぶんと恐ろしい存在である。もちろん、完璧といふのではあるまい。しかし、さう言はしめる批評家の誕生を素直に喜びたい。
福田恆存を、今年も機會ある度に讀み返してきたが、今年は「批評とはどうあるべきか」といふことを考へながら讀んでゐたやうな氣がする。その答へは何なのかを語るのは、別の機會にならうが、「良心」といふことばが重要になると考へてゐる。最晩年、清水幾太郎を批判して使つたのも「良心」といふことばである。「自己を超えたもの」に通じた文學が、もつと必要である。
今年一年の御愛讀、ありがたうございました。