寝言も本のはなし
価格:¥ 1,680(税込)
発売日:1999-05
(承前)
漢字と日本人 (文春新書)
価格:¥ 756(税込)
発売日:2001-10
梅棹氏は、ローマ字で書くやうになつてから、「どうしてもむつかしいことばはさけるようになる。ことばえらびに慎重になるとともに、難解な漢語はやさしいことばにいいかえていこうとする。かざりのおおいことばにまどわされることなく、できるだけ平明で論理的な文章でかくようになる。ローマ字によって、わたしの文章はきたえられたのである」と書いてゐるが、漢字の多用による内容の空疎化については、一理ある。
漢字をできるだけ使はずに文章を書かうとして努力してゐる文筆家がゐる。
「毎度申すように、漢字で書くと日本語が見えなくなる。漢字はよその国のことばをあらわす文字なのだから、日本語が見えなくなるのは当然だ。小生毎度、日本語は極力かなで書きましょう、と申すゆえんである。」
(高島俊男『お言葉ですが…④』二五一頁)
なほ、この方の漢字論については、一度觸れたいと思つてゐる。さしあたり必要文獻としては、『寢言も本のはなし』(二一〇頁以降)を擧げておく(その後、文春新書から『漢字と日本人』が出てゐる)。
閑話休題。
梅棹氏への疑問は、ローマ字を使ふことによつて「自分の日本語がよくなつた」といふ個人的感慨によつて日本語のローマ字化を進める根據としたといふことにある。非學問的、非人道的、非論理的、非科學的な取り組み方についてである。
ざつとこの「ローマ字の時代」といふ文章を讀んで、こんな文章を今の時代に發表するといふ無神經さ、あるいは無節操さにはあきれてものが言へない。
はじめはローマ字論が良いと思つたが、「その後、運動はあまりさかんにはなら」ず、「日本語の表記をなんとかしなければならないというおもいは、その後もずっとわたしの心のなかにあった」から、「カナモジ運動」とかかわりを持つにいたったといふのは、一見誠實であるやうに見える。しかし、「日本語の表記をなんとかしなければ」などといふのが、そもそもおこがましいことではないか。日本人の表記として國語があるのであり、それは「漢字かな交り文」を以て正しい表記法とすることは大前提である。それを疑つて、「能率的でない」だとか「學習者の負擔が大きい」だとか言ふのは、僭越の極みである。人間が空を飛びたいから羽根を移植しても飛べないやうに、そして飛行機に乘れば良いやうに、國語の文字を變更してローマ字にするのではなく、ワープロやパソコンを使へば良いのである。それで「けり」はついてゐる。
「日本語には確立した文法もなく、文章のかきかたにしても、きまった正書法がありません。どのようにでも、かけるのです。たとえば、おくりがなひとつにしても、あかるい、明かるい、明るい、明い、とどれでもいいようになっています。漢字でかいてもいいし、ひらがなでかいてもいい、しかも、漢字には音と訓があり、その音もなん種類もあり、訓もなん種類もある。ひとつの字が場合によると、なん十種類にもよまれる。近代文明語で、こんなべらぼうな言語がほかにあるでしょうか。
日本語は、こういうふうに悲惨な状況のままで放置されているのです。戦後の当用漢字、現代かなづかいなどの国語諸改革にもかかわらず、とうてい近代語として整備された言語ということができません。明治以後に近代語としての日本語の形成のために、さまざまな努力がおこなわれたことはみとめますが、ざんねんながら成功したといえないのが実状であります。日本語は、いわば野ばなしの言語、野そだての言語なのです。洗練というのには、ほどとおいのが現実であります。」
(『あすの日本語のために』二〇六頁)